第25話 ヴァッサーガイスト




「それ以来、私は独りぼっちじゃなくなりました。家族とは疎遠になってしまいましたが、彼がそばにいてくれたから寂しくなかったんです」


 ヴァイクにさわれない代わりに、手を包む水蛇へ頬を寄せる。

 冷たい水はいつだってマリーの心を温めてきた。だが、ヴァイクの存在を知る者は彼女以外いない。もし海の泡沫うたかたのように彼が突然消えてしまったら、自分は孤独ではなかったと何をもって証明できると言うのだろう。

 それが、マリーにはとてつもなく恐ろしいことに思えた。


「ウエディングフォトをお願いしたのは、彼と一緒にいた証がほしくて……。それも私のワガママなんですけどね」

「そんなことありません!」


 突然声を張り立ち上がったアーティに、自嘲気味に微笑ほほえんでいたマリーは大きな目をさらに見開いた。


「私も、人とはちょっと違う目をしているんです。マリーさんと似たような経験もしてきました。カメラを始めたのも、私が見ている世界を誰かに認めてほしいって思ったからで……だから、大切な何かを形に残そうとするのは、ワガママなんかじゃないです」

「アーティさん……」


 異能の孤独を共感しあう二人を焚火たきびの揺らめき越しに眺め、マコトは硬く口をつぐむ。パキ、と木片が割れる音が響いた。


 彼の見立てでは、ヴァイクは偏食種グルメだ。

 怪物は食欲に関わる理由でしか動かない。恋愛脳な女性の魂を好んで食らう奇行タイプである可能性は十分にある。むしろそれ以外の理屈が見つからない。きっと最後は、食われて終わる。


 けれど、それをマリーへ告げることがどうしてもできなかった。


(お節介なアーティに、俺も充てられたかな……)


 以前のマコトなら挨拶もそこそこに「殺される前に別れた方がいい」と超剛速ストレートを投球していただろう。

 それが今では、二人の純愛を信じたいと心のどこかで思ってしまう。そんなことはあり得ないのに。


 だからこそ、確かめなければ。


「マリー、一つ聞いてもいいかな」

「はい、なんでしょう?」

「ビンツは昔からヴァッサーガイストが多いみたいだね」



 ――水に由来する怪異を、『ヴァッサーガイスト』と呼ぶ。



 美しい女性が水辺で溺れているのを助けようとしたらそのまま何かに引きずり込まれたり、普段と同じ航路を辿っていたはずなのに浅瀬にぶつかって船が転覆したり。ビンツは説明のつかない水難にたびたび見舞われていた。


 マコトの問いかけに、それまでほがらかだったマリーの表情がすぅっと薄まる。彼が何を言いたいのか、すぐにわかってしまったのだ。


 ビンツを襲うヴァッサーガイストの正体こそがヴァイクなのでは――マコトの解釈は、ある意味当然と言えたが……。


「もし、ヴァイクが関わっているなら――」

「彼は違います!」


 悲鳴にも似た感情的な声が、マコトの言葉をさえぎる。崖に囲まれた小さなビーチに緊張が走った。

 彼女の心の揺れを表すように、波がさざめき立つ。それからすぐマリーは力なく項垂うなだれた。


「ヴァイクは、違うんです……」


 弱々しくそう言い溢すマリーを慰めるように、彼女の頬を水蛇がそっと舐める。


「……わかった。変なこと聞いてごめん」


 これ以上詮索して彼女の気分を逆撫でするのは得策ではない。マリーの背後に控えるヴァイクは、善悪の分別なく彼女を過剰に守護する。いつ首が飛んでもおかしくないのはマコトの方だ。


「せめてヴァイクと二人きりで話をさせてもらえないかな」

「でも……」


 渋るマリーに、アーティがそっと駆け寄る。


「大丈夫ですよ。先生は無意味にヴァイクさんを傷つけたりしませんから」

「……わかりました。じゃああっちの崖裏で待ってますね。ちょうど星が綺麗に見える場所なんです。行きましょう、アーティさん」


 彼女が上手く誘導してくれたおかげで、二人きりになることができた。生来の人好きする雰囲気の賜物たまものだろう。感情の起伏が少ないマコトが見習いたい部分だ。


 手を繋いで砂浜を歩いて行った二人を見送って、静かになったビーチでマコトはふっと一息吐く。

 ヴァイクはマリーが行ってしまって寂しいのか、名残惜しそうに崖の方角を見つめていた。


「そんなに好きなの、マリーが」


 水面から水の玉が複数浮かび、花火のように弾ける。これは相当お熱のようだ。


「好きってわかる? お腹空いたとか、美味しそうとか、そういう気持ちじゃなくて?」


 感情の読めない白い瞳でちらりとマコトの方を見たヴァイクは、細長く渦を巻いた水を水面から出現させた。

 水の杖はマコトの足元に向かい、砂浜を細かく削り取っていく。



 ――マリー。


 ――ずっと一緒。


 ――誰も食べてない。



 砂浜に書かれた、拙い文字。


 ヴァイクが日常的に人間の魂を食べていないことは、マコトも理解していた。

 魂を食べると必ず残滓ざんしが残る。

 残滓ざんしとは、口の周りついた食べカスのようなものだ。食らった魂が輪廻りんねから解脱するまでの間、残滓ざんしは残る。それがヴァイクには欠片かけらもなかった。


 だが、空腹は時として最高のスパイスと成り得る。

 変わった趣向を持つ数多くの偏食種グルメを、マコトはその目で見てきた。


 どう返答すべきか言葉を探しあぐねていると、水の杖が再び動き出す。



 ――


 ――何度だって会えるから、食べない。食べなくても平気でいられる。


 ――


「…………」



 打ち寄せる波にさらわれて、砂浜の文字は消えてしまった。



 足元を見つめたまま微動だにしなくなったマコトを置いて、ヴァイクは海に潜った。


 海は生命の宝庫だ。人間の魂を食べなくとも、魚や甲殻類など海で生きる者たちの魂で小腹はまかなえる。多少の空腹は感じるが、それを差し置いてなお愛が勝るのだ。



「……そっか。なんだね、ヴァイク」



 誰にも拾われることなく零されたマコトの独り言が、さざ波の音に掻き消えた。



 さえぎる物がない月光の下は案外明るくて、ヴァイクの優雅なドルフィンはまるで壮麗な絵画のように視える。

 色の少ないマコトの世界でも、その美しさを抑制することはできなかった。



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