第9話  二人と一匹の逃避行




「うわ、うっわ、うわぁあああああ!」

「もう、アーティうるさい」

「だって先生! と、飛んでるぅぅぅうううううう!!」


 例えるなら――緩い安全バー一本でジェットコースターに乗るような、スリリングな体験。

 わけもわからないまま肩に担がれたアーティは、生まれ育った街をなぜか空から見下ろし、絶叫した。


 ミステリアスな雰囲気が彼の魅力だと思っていたが、こんな突拍子もない展開は想定外だ。

 折れそうなほど線の細い身体のどこに、こんな腕力や跳躍力があるのか。完全に人間の力学を超越している。


 水たまりを飛び越えるくらいの感覚で、屋根から屋根へ飛び移る。その慣れない浮遊感に、十代の瑞々しい肌がぞわりと粟立った。


「先生、あの化け物について何か知ってるんですか!? あとさっきの無駄にイケボな男も!」

「説明は後で。あんまりおしゃべりしてると舌噛むよ」


 そう言ってマコトはさらに加速する。荷物のように担がれたアーティを気遣う余裕はない。

 だが彼が言うように、今は逃げることに集中した方がいいだろう。あの怪しい男は一切の迷いなく市街地で発砲したのだ。まともな集団じゃない。

 と言っても、規格外の身のこなしで縦横無尽に夜を駆けるマコトがまともなのかも、今となっては怪しいが――。


 屋上の手すりに足をかけて隣の建物へ飛び移った時、着地点の近くにあった貯水タンクが急に水漏れを起こした。

 一カ所から噴き出していた水が二カ所、三カ所と増えていく。


 敏感な目は、自分たちの周りを音もなく飛び交う弾丸の光を捉えた。それから、後方から迫る俊敏な黒影も――。


「ちょ、撃たれてますよ!? 居住区なのに正気ですか、あの男!」


 ハンドガンに持ち替えたユリウスが、何の躊躇もなく後方から発砲していたのだ。


「節操なしだねぇ。でもさっきの変な弾から通常弾に変わってる。ただの威嚇射撃だ、当たるはずな……」


 ――パシュッ!


 マコトの左頬を、焼け付くような摩擦熱が掠めた。月夜と同じ色をした瞳が驚きで見開かれる。


「……この距離で当てるんだ」

「あ゛ーーーッ! せ、先生の顔面が! 世界自然遺産がぁ!!」

「いつ登録されたの」


 場違いなほど冷静に突っ込んで、射線上に入らないようになるべく物陰を縫って走り続ける。速度は落とさない。だが相手の銃弾もしつこかった。取り込み忘れた洗濯物は蜂の巣になり、歴史ある教会建築の石像は首を砕かれる。


 埒の明かない状況でマコトが目を付けたのは、外付けの非常階段。もちろん一段ずつ降りる猶予はない。


「ちょっとふわっとするから」

「なんですかそのふわっとした説明……って、ぎゃああああああああ!!」


 落下防止用の鉄柵を飛び越え、そのままためらうことなく奈落の底へ垂直落下。

 胃の中もふわっとして最悪な気分になったアーティの絶叫が、静かな夜によく響く。

 大胆にもカーテンを閉めずに窓際でイチャイチャしていた男女と目が合った、ような気がする。


 視界から急に消えたターゲットに、弾丸の嵐がいったん止む。


 二階あたりまで落ちただろうか。

 階段の錆びた手すりを片手で掴んで、踊り場へ身体を滑り込ませる。常人であれば腕が使い物にならなくなっていただろう。


 着地から再び走り出すまで、わずか3秒。

 アーティはもう、この破天荒なパルクール男を人間の尺度で考えることをやめた。


 狭い路地を休みなく進む。

 なるべく入り組んだ道を選んで頭上のドローンを振り切ろうとするが、小型なだけあってすばしっこい。

 

「邪魔だな、あれ……」


 面倒くさそうにマコトが呟く。

 すると、建物の影から黒い何かが飛び出した。



「うみゃああああああん!」



 なんとも可愛らしい雄たけびからは想像できないほど鋭い体当たりが、一機のドローンを襲う。

 壁に叩きつけられ鉄くずとなったそれは、放電しながら地面へ墜落した。


 黒い影はコマのように身体を回し、二機、三機と手早く片付ける。

 その勢いのまま二人の前に華麗に着地し、流れるように並走した。

 その正体は――。


「タマキ!?」

「ニャッ」


 予想外すぎる助っ人の名を呼ぶ声が上ずった。

 短い足を忙しなく動かして爆走するのは、なんと暴食猫のタマキである。


 すると同居人から「遅い。また寄り道して食ってただろ」と、刺々しい声が上がる。タマキはたいして気にする素振りもなく、「うにゃぁ~?」とすっとぼけた。


 だが、これで必要以上の追撃は避けられる。

 あとはあのしつこい男を完全に撒くことができれば、治安の悪い鬼ごっこはゲームセットだ。


 アーティが一安心した矢先、頭上に大きな影が映った。


 不思議に思って夜空を見上げた瞳が大きく見開かれる。


 頭上に舞う、大量の鉄骨資材――。


 左手側にずらりと並んだ外壁塗装用の足場が死のゲリラ雨となり、ガラガラと音を立てながら頭上に迫っていた。



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