社長
◆社長
ディナータイムが始まってまもなく、入り口のドアベルを最初に鳴らしたのはお客さんではなかった。
「あっ」井荻さんが言った。「社長」
げっ、とボクは内心つぶやいた。「社長……」
「よーよーよー! 相変わらずだねこの島はー」
前に、これはブランドもんだと自慢していた、今じゃヨレヨレのTシャツ姿。毎日飲み歩いてばかりだからか、目元に力がなく、まなざしはトロンと油ぎっていた。メルやあー子の寝起きとは違う不衛生さを滲ませた中年だ。
「こっちの店も頑張ってるんですよー」
井荻さんが「島」を「店」と言い直す。島とは、島流しの島なのだ。井荻さんは一応ここ、マイコの店長だけど、普段は龍田さんにまかせて多店舗で働くことが多い。
ボクは既に掃除し終えていた箇所を再び磨きに取りかかった。社長は苦手だ。
気まぐれに島……とか、他の店に遊びに来ては騒いでいく。この間は外国人のお客さんにけん玉を披露していた。はじめこそ喜んでいた彼らだったが、あまりに社長がしつこいので最後は辟易とした表情を見せた。社長は調子に乗って空騒ぎするタイプの人だ。
社長と井荻さんは新店舗の構想を話している。井荻さんは調理しながら、社長はカウンターで座りながら。
お客さんが2組、入ってきた。社長らの話を聞いて、
「……ここまた新しいとこやるのかな?」とこっそり話す。
お客さんのひそひそ声をガソリンにして、社長は悦に入っている様子だった。
「いえね、ワタシ実は社長をやらせてもらってるんですけどね――――」
ついにはお客さんに声をかける。お冷を注ぎながら、「まだあんまり言えないんだけど」と。
その後少しして、井荻さんがボクに申し訳なさそうに耳打ちした。
「ごめん。今日はね……帰っていいってさ」
「えっ」
「暇だからだって。ごめんね」
嬉しくもあるけど、嬉しくない。稼ぎが減るのは困る。まだ6時12分。1時間も働いていない。
「分かりました……」
ここの時給は15分ごとに区切られている。今の場合16分まで働くと数百円稼げるのだ。あと4分。あと4分だけでもここにいたい。
「タイムカードは、ちょっとしてから後でテキトーに切っとくから」
井荻さんの、ちょっとが4分のボーダーをこえることを祈り、ボクはお店を出た。
まだほんのりと明るい夏の夕方。
メル、家にいるかな。
お店の中からギリギリ見えないところでスマホを取り出す。お店のワイファイを使ってメルに『いまおうちいるかな?』とメッセージを送る。
『いるよ! おいで!』
遊びに行くとは言ってないのに、迎える気満々の返信に、ボクは元気をもらった。
やべこや闇黒三美神の待ち合わせ時間までまだある。
ボクは駅の外れのコンビニから、レンタルサイクルにまたがって吉祥寺に向かった。15分70円だから、30分以内に返却すれば電車賃より安く済む。でもきっと30分じゃ着かないから、途中のコンビニに返却して、そこからちょっと歩くことになるかなぁ。
自転車は電動アシスト付き。びゅんびゅんと風を切って吉祥寺まで走った。
メルが住む建物に到着。やっぱりちょっと歩くことになったけど。
エントランスでインターホンを押す。メルに入り口を開けてもらい、中へ。
エレベーターで1人の男性と一緒になった。彼はボクと同じ階で降りる。ついていく形で歩いていくと、彼はボクと同じドアの前で立ち止まった。
彼はインターホンを押してから、「やべこの知り合いかな?」と聞いてきた。
やべこ………………それはメルのあだ名だったと記憶している。
ガチャリとドアが開いて、ラフな格好のメルが顔を出した。
「あれ? 2人とも知り合い?」
ボクらは声を揃えて答える。
「ちがう」
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