They couldn't move on

梅木仁蜂

第1話

 目の前に、一つの縄があった。


 スプーンの掬う部分みたいに輪っかが作られていて、天井から吊り下げられた縄だ。天井は、明かりを消した部屋では灰色に見え、光源となるのは窓から差し込む光のみ。

 私の視界は縄を中心に形成され、それ以外の全てが曖昧であった。どこに学習机があって、どこにベッドがあって、部屋の奥行きがどれほどなのか――細かい情報は、全く頭に入らない。

 縄がぐっと近付き、目の前を通って、首にかけられたことで思い出す。


 死ななくちゃ。

 どうせ生きていてもいいことなんかない。何も上手くいかない、夢は叶わない、充足はない。学生生活はまだ続くけれど、既に生き続けることが苦痛だった。

 縄に体重をかけ、足元の椅子を蹴散らす。あれ、ちゃんと蹴ったかな……。

 頭が熱くなった。目に熱が集まった。首に、これまでかけたこともないほど強い圧力が加えられる。

 苦しい。息ができない。当たり前だ。当たり前なんだけど、首吊りは途中で意識が飛ぶってネットに書いてあった。痛みに支配された私の意識は、一体いつ無くなるのだろう。


 早く死にたい、楽になりたい。学業も夢も、何もかも放り出して、空っぽになりたい。


 死んで、死んで、死んで、死んで、死んで!


 ――――無言のうちの絶叫に、煩わしさを覚えていると、視界が変わった。


 茶色い土が顔に触れている。頬や額を砂利がチクチクと攻撃してきて、私は慌てて顔を上げた。

 ん? 顔が上がるのか? 縄は?

 自分の首元を触ってみるが、縄などどこにもない。そもそも、ここが電球の消えた室内ではなく、木々が立ち並ぶ屋外になっているので、さっきのアレはなんだったのかという話だ。


 アレ、などと名詞も当てはめられない不思議な体験をした。映像というにはリアルすぎるし、夢というには身に覚えがありすぎた。

 私には死ぬ予定があった。首吊りのために買った金剛打ちの白い縄は、先ほど見たものと一致している。あの灰色の部屋も、ちゃんと自室として記憶にある。


 自殺志願者としては夢のような光景に違いない。しかし、現実には私は生きていて、脈が通っていて、五感も生きている。あと、


「どう考えても、火星なんだよな」


 着ている服が暑苦しいことのついでに、私は自分が男性であることを認識した。下着の容積の占領具合が、女とまるで違う。五感が生きているから股間の形態が分かるわけだ。縄の記憶では、身も心も金星だった覚えがある。

 転生だろうか。赤子どころか、ショタ時代の記憶さえないのだが。

 奇妙に思っていると、後ろから声が聞こえてきた。


「オーウェン様ー」


 十四、五歳ぐらいの茶髪の少女が杖を持って走ってくる。足元が見えないような黒いローブを着用していて、沢山の長い睫毛まつげ碧眼へきがんを飾っている。

 顔見知りのようだ。


「あなた誰?」

「え」


 私の質問に、少女は、眉を寄せて傷ついたような反応を見せたのち、


「マーガレットです」

「そう」

「そうって……あの、オーウェン様、この手の遊びはよしてくださいませんか」

「遊び?」


 こくり、と頷くマーガレット。


「わたし、確かに頭は悪いし、子供だし、あなたにとっては絶好の玩具なんでしょうけど」


 今、初めて知ったよ。


「流石に、名前を忘れるというのは……何が面白いのか、分かりません」


 俯いて抗議する彼女に対し、私は反応に困った。

 今、何歳くらいなんだっけ。私より年下なら、からかう理由は想像つくが。

 一先ず、私にできることは口を動かすことだけだ。


「別に面白いことはないよ。あなた如きが私の玩具を名乗るのは、はっきり言って不快だし」

「不快……」

「ただ、あなた含め、私や私の身の回りまで、あったことを忘れるというのは面白い遊びだと思ってさ。あなたの名前を聞いたのは、そういう理由」

「遊び……そうでしたか。先ほどは失礼なことを申し上げて、申し訳ございません」


 重複してるぞ。日本語じゃなくてよかったな。

 マーガレットは、頭を下げると、私を見上げて、


「オーウェン様は、わたしには到底及びもつかない発想力を持っていらっしゃるのですね……感服致しました。そのお戯れには是非、わたしもご一緒させてください」

「ああ……それはどうも」


 青い目から流れた涙を拭う彼女に、私は全く理解が追いついていなかった。

 先ほどまで、普段からそうであるかのように、私を責めていたマーガレット。しかし、私が記憶喪失を言葉で上手く誤魔化すと、途端に彼女は泣いて、口だけの称賛をしてきた。


 なんだ? 情緒不安定なのか? 面倒くさそうだなあ。

 マーガレットは、腫れた目のまま、くるりと背中を見せ、


「今日はお帰りになられた方がいいかもしれません。お屋敷まで護衛いたしますので、よろしくお願いします」


 それから、ため息交じりに道案内をしてくれた。

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