ブレインイレイサー

我破 レンジ

消して。消して。真っ白になるまで……

 その日の朝は最悪だった。時計のアラームよりも先に、強烈な頭痛が俺を目覚めさせた。猛烈に回転するドリルを頭蓋骨に突き立てたような、頭が砕けてしまいそうな痛みだ。


 俺はたまらず病院に駆け込んだ。そして血液検査、尿検査、CTR等々、そこでできるあらゆる検査をやってもらった。


 こうして、俺は医者と二人きり、診察室で向かい合うことになったのだった。


「先生、もう頭が破裂してしまいそうです。いったいこの痛みは何なんですか?」


「落ち着いて。順を追って説明しますから」


 医者はデスクに置いてあるパソコンを操作し、一枚の画像データを表示させた。それは人の頭を縦に輪切りにした白黒の写真だった。


「まず、脳そのものに目立った異常はありません。それはこのCTR画像からもわかります。脳腫瘍や脳梗塞の心配はありません」


 そう言って再びマウスをクリックすると、モニターにいくつもの数値が一気に写された。諸々の検査結果らしいが、俺にはよくわからない。


「とはいえ、もちろん何も変化が起こってないわけではありません。ここに表示されている血液や尿に含まれる神経伝達物質の数値、それに測定した脳波から、頭痛の原因について一つの推測が成り立ちます」


「もったいぶるのはやめてください。一体どんな病気ですか?」


 激痛に責め苛まれるいら立ちが表に出てしまったが、相手はあくまで淡々と告げた。


「これは病気ではありません。あなた、?」


 言われた瞬間、全身を冷気が這いまわった。動揺を頭痛に集中することで逆にごまかす。


「記憶を消すって……仰っている意味がわかりません」


 俺の困惑を見透かしているのか、医者は明らかに探るような目つきになった。


「記憶の消去による精神療法が確立されたのは、もはや世間の一般常識です。あなただってご存じでしょう?」


 もちろん知っている。事件や事故、あるいは災害によって重度のPTSD(心的外傷後ストレス障害)を負った患者に限り、PTSDの元となっている記憶を消去する脳神経干渉機……通称〈ブレインイレイサー〉の使用が、三年前に厚労省から認可されたことは。


「〈ブレインイレイサー〉はあくまで医療機器です。しかし最近では専門の有資格者どころか、医師免許も持っていない者が〈ブレインイレイサー〉を使って記憶処置を行う事例が後を絶ちません。PTSDとはいかないまでも、思い出すだけで羞恥心に悶えたり、不愉快だったりする、そんな負の記憶を消したがる人々に需要があるそうですね。噂程度の信ぴょう性ですが、プロのスポーツ選手がかつての失敗したプレイの記憶をわざと消して、成功体験のみを蓄積させることで自信を付けさせるメンタルコントロール法もあるとか。本来なら違法であるはずですが、法整備の方が追い付いていないのが実情です」


「社会問題の講義は結構ですから! こっちはこうして先生と話している間も、脳みそがグチャグチャにかき回されてるんですよ!」


 文字通り頭を抱える俺に構わず、医者の講義は続けられた。


「あなたが記憶を消去する処置を行ったのは明白です。まず脳波の測定の結果、海馬のごく一部が極端に不活性化しているのが確認されました。これは〈ブレインイレイサー〉の極低周波によって脳細胞に処置を施された際によく見られる傾向です。その一方で、左右の大脳を繋ぐ脳梁や中枢にある脳幹の働きは以上な活性化を示しています。それに伴う脳血管の血圧の上昇も。これもまた記憶処置の後で起こりやすい典型的な症状です。加えてシナプスを伝わる神経伝達物質にも特異な偏りが――」


「いい加減にしてくれ!」


 俺は声を荒げて立ち上がった。激昂して痛みはさらに激しくなるが、医者の物言いに我慢ならなくなっていた。


「あんたがいくら疑おうが、俺は記憶処置なんて受けていない。探偵でもないのに余計な詮索はしないでくれ! それより早く痛みを取り除いて……」


 大声をあげたのが祟ったのか、視界がかすんで足元がふらついた。医者は素早く俺の身体を支えると、そのまま診察台へ寝かせた。


「残念ながら、痛みを完全に取り除くのは難しいと言わざるを得ません。幻肢痛というのをご存じですか? 四肢などの身体の一部を欠損した人が、その欠損した部位に痛みを感じるという症状です。あなたの頭痛もある意味、記憶の幻肢痛と呼べるものなんです。脳は重要性の低い記憶を忘れる働きを持っていますが、〈ブレインイレイサー〉によって人為的に記憶を消すと記憶全体の総合性を失うことになり、脳は欠損した記憶を必死に想起そうと過剰な負荷をかけてしまうんです。できることはせいぜい、鎮痛剤を処方して痛みを和らげるぐらいですね」


 医者は諭すように説明して、安心させようとしたのか口角を上げた。だがその瞳は俺を突き放していて冷たく、少しだけ身震いしてしまった。


「それから、いくらあなたが処置を受けてないと主張されても無意味ですよ。記憶の総合性を測れる認知機能のテストを受ければ、記憶の欠損があるかどうかは簡単にわかりますから。なんでしたら、テストを受けられる他の施設を紹介しますよ?」


 ……どうやら俺は二重の窮地に立たされたらしい。耐えがたい頭痛ともう一つ、隠していた秘密の暴露だ。


 医者の推察通り、俺は一週間前に〈ブレインイレイサー〉による記憶処置を受けた、らしい。業者に頼んだ記憶の方は、困ったことにはっきり残っている。だが消した記憶がどんなものであったかは、もちろん覚えていない。業者も処置前に結んだ契約に違反すると、頑なに教えてくれなかった。記憶を消すとは自らの過去を消すことだ。俺は過去を消去することがより良い未来を招くと考えて処置を受けたはずだ。それがまさか、こんな苦痛を伴う未来を招いてしまうとは。


「まぁ、たとえ違法な処置を受けていたとしても、現在の法律では刑事罰に問われることはありません。ですから、原因不明の頭痛として治療は続けられるでしょう」


「えっ?」


 予想外の対応だった。俺は拍子抜けした。散々糾弾して最後に警察でも呼ぶのかと思っていたが、医者にそのつもりはないらしい。逮捕できる犯罪でもないみたいだが。


「……仮に、俺が〈ブレインイレイサー〉の処置を受けていたとして」


 情けないことだが、現実問題としての頭の痛みが、医者を頼れと俺に強いらせてきた。


「本当にこの痛みは消せないんですか? 一生この激痛と付き合っていくしかないんですか?」


 医者はため息をつくと、ゆっくりとうなずいた。見放されたようなため息だった。


「あなたの消した記憶の詳細や、消したいと思った動機はもうわからないでしょうが、きっと消された記憶はあなたをどのような形であれ、苦しめていたのでしょう。しかし、どんなに苦しくてもその記憶もまた、現在のあなたを構成していた一部だったんです。だから素人が記憶処置を行ってはならないんです。その記憶が生活を脅かす病巣なのか、あるいはその人に欠かせないものなのか。医師でさえその判断には慎重を喫するんですから」


「自業自得、ということですか」


「それでも苦痛を少しでも取り除くのが我々の仕事です。できるだけの治療はしますから」


「しかし、これでは……」


 知らないうちに、俺の目尻からしずくが垂れていた。


「覚えていても苦しく、忘れても苦しい目に遭うなら、いっそどんな記憶が自分を苦しめていたのか分かっていた方が、マシだったかもしれません。そうだったら、忌まわしい過去と向き合う道だってあったでしょう。俺は一体、自分自身からどんな過去を奪ってしまったんだ……」


※※※


 患者の男は悲痛な面持ちのまま、大量の鎮痛剤と後悔を抱えて病院を去った。彼がここに来ることは二度とないだろう。さらなる専門医療を受けさせるため、脳神経外科の分野で有名な大学病院へ紹介状を書いたからだ。


 それにしても、哀れな人だと思う。記憶の消去は過去の自分が望んでやったことだというのに、忘れた途端にその喪失を嘆くだなんて、本末転倒という他ない。


 彼は過去と向き合う道もあったはずだと言うが、〈ブレインイレイサー〉はそれができない人のために発明されたものだ。元来、人は臆病な生き物であり、向き合えない方が普通なくらいだとあたしは思っている。自らの過去、記憶、それらと対峙し乗り越えられる人間は、実はごくごく限られている。


 あたしは院内の休憩所に行って、ソファーに座って自販機の缶ジュースを傾けながら、スマホの電源を入れた。


 ホーム画面に写ったのは、純白のドレスを着た満面の笑みのあたしと、同じく隣で微笑むタキシードの男。


 あたしの婚約者だ。


 大手医療機器メーカーの御曹司で、先月には結婚式を終えた。適度な育ちの良さを感じさせる、気さくで気取らない素敵な好青年。医療関係者を集めた交流会で出会ったあたしたちは電撃的に意気投合して、そして結ばれた。まさに運命だった。


 婚約指輪をなでながら、さらにあたしは一枚の写真を表示した。


 そこにいるのは、原色にあふれた花畑にたたずみ、微笑を浮かべるあの患者。


 そして彼の肩に頭をのせて、幸せそうに笑うあたし。


 ウェディングドレスを着ていた自分に勝るとも劣らない、いい笑顔だった。


 この花畑がどこにあるのか。なぜあたしはあの男と一緒にいるのか。どうしてここまで親密そうなのか。


 男との思い出は露ほどにも残っていなかった。なぜこんな写真だけが残っていたかも謎だ。


 確かなのは、あたしもかつて〈ブレインイレイサー〉で彼にまつわる記憶をすべて消したらしいということ。


 診察室で男と会った時、過去があたしを襲いに来たと思った。平静を装っていたけれど、自分が知らない弱みを相手は知っているかもしれないと考えると、気が気ではなかった。


 幸い、彼自身もあたしのことをすっかり忘れているようだった。彼が処置した記憶もまた、あたしがらみだったのかもしれない。


 どうして二人で処置を受けたのか。死に物狂いで調べれば、わかる可能性はある。けれどその行動に移ることを具体的に考え始めると、その先に待ち構えているかもしれない不都合な真実に恐怖し、ドリルを突き刺したような頭痛に呻きを漏らしてしまう。


 あたしには守りたい未来がある。婚約者だけじゃない。小さいけれど、お腹にはもう三人目の家族もいる。


 妊婦が飲んでも安全な鎮痛剤をジュースで流し込んでから、トイレに向かった。個室に入り便座に腰を下ろすと、ズボンのポケットからリング状の機器を取り出す。


 これが最新型の〈ブレインイレイサー〉。旧型でもハンドバッグほどの大きさだったけれど、現在はここまで小型に改良されていた。


 あたしは彼を診察していた時間帯の記憶を消すよう〈ブレインイレイサー〉を設定し、冠のように被ると、始動スイッチを入れた。この操作も慣れたものだ。


 あたしは度々この機器を使用していた。自分が嫌いになりそうな不快な記憶を処理し、心地よい成功体験だけを残す。おかげであたしは生まれ変われた。劣等感に苛まれる矮小な自分から、大企業の御曹司に見初められるまでの自信あふれる自分へ。


 身体が徐々にリラックスし、夢見心地となってくる。あと数分で処置は終わるだろう。そうしたらあの男の記憶は完全に消える。例の写真も削除済みだ。


 違法な真似をしている自覚はある。〈ブレインイレイサー〉は医療機器であって、人の黒歴史を帳消しにする消しゴムではない。


 それでも、あたしは過去のあたしの判断を否定したくなかった。医師として男にした説教とは真逆だけれど、記憶処置という手段を選んだ過去のあたしもまた、現在のあたしを形成するものの一部だ。たとえ『臭い物に蓋』をしているだけだとしても、一人の人間としてのあたしは、未来だけを見つめていたかった。そもそも忘却とは、覚えておく必要性の薄い記憶を忘れることで、未来について考える余裕を持つための必然の機能だ。失った痛みに耐えなくてはならないとしても、あたしは白紙の未来に自分だけの未来を描いていきたい。


 記憶が消える音がする。〈ブレインイレイサー〉があたしの過去を削っていく。無形のはずの記憶の重さがなくなり、あたしの意識を解放させていく。


 ふと、こんなことを考えた。


 もし全ての記憶を消去したら、あたしは羽より軽くなって、空を飛べるようにならないだろうか。


 そんな夢想もやがて、消しゴムで鉛筆の文字をこするようにかき消えていった。


〈終〉

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ブレインイレイサー 我破 レンジ @wareharenzi

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