懺悔

海野しぃる

今にも凍りつきそうな雨の下でクソ上司の愚痴を子どもに訴えかける中年男性

 しゃくしゃくと踏む土の音が足から伝わる。

 さあさあと雨音が鼓膜を撫でる。

 ひどく陰鬱な日だったものだから、今の私が外に出たとしてもなにに気兼ねすることもないような、そんな一日だった。

 山に登るのは趣味のようなもので、若い頃の暇な時間は子どもらに勉強を教えた後は、山を歩き回って身体を鍛えたものだ。

 全て全て過去の話だ。


「おじさん、おじさん」

「なに?」


 こんな山中で子ども?

 私の目の前に居たのは子どもだった。


「おじさん、なんでこんな所歩いているの? ここは愛宕のお山だよ」


 ふむ、よそ者が踏み入れるべき土地ではないと言いたいのか。

 確かに寺社仏閣が多く立つ聖なる土地だ。私がこうしてうすらぼんやりと死にたくなって歩くような場所でもない。


「ごめんね……」


 と、ここまで言って、目の前の子どもが男とも女とも分からないことに気がついた。こんな場所に居ることと言い、どうにも様子がおかしくはないか――。


「おじさん、なんで死にたいの?」


 心臓が、ぎゅうと縮んだ。


「はっ、はは。なんで、そんな」


 そうだ。死にたい、死のうかなと思って一人でほっつき歩いていた。


「聞かせてよ、おじさん」

「なにをだい、きみ」

「なんで死にたいのさおじさん」


 髪はおかっぱ、着ているものはよく見れば上等、絹織物だろうか、どこで染めたかは知らないがずいぶんと美しい牡丹の花染だ。

 まさか、まさか……もしかしたら、人間ではないのかもしれない。


「聞いてくれるのかい」

「言え、全て言え」


 私を見上げる瞳は、見ていて恐ろしくなるほどまっすぐで、私を咎めているような気がした。

 言わなくてはならない。

 何故かそう思う。

 話すことが、償いになると思った。

 私には罪がある。とんでもない罪が。


「……ひどい、上司なんです。本当にひどい、ひどい男だ。ただの嫌な男ならば私だってここまでついていかなかった。人間じゃあない。いや、最初こそその人間離れした器に魅せられてついていくことを決めたんです。そもそも最初の職場を離れた時点で、あとは妻子を食わせつつほどほどにやっていっても良いと思っていたんです。私はもう人生が半ば終わったような気持ちでいましたから、余生ですよね。息子にやる気があるならばそれはもう後を任せても構わない、それくらいなもんですよ。なにせ汚い仕事をして生きてきました。こうして山を歩くこと、そしてお参りする時くらいしか心は休まりませんでした。もしあなたが神様仏様だというのならばご存知かとは思います。私が何をしたのか、私がどうして死にたいのか、私がどうして死ねなかったのか。そうですよ、そうですとも、死にたかったんです。でも妻子も居ますし、これまで仕事の中で助けられなかった方々のことも考えると、どうしても死んで楽になる訳にはいかない。だってそうでしょう。私のせいで死んだ人だって多いというのに、私一人が命を捨てて楽になろうだなんてとんでもない。それにね、私だって部下が居ます。部下の面倒を見るのが上司の役目、私は出世の道を外れ、縁故で採用され、幼なじみの紹介でたまたまあの方のお眼鏡にかかり、運良く今の地位に居るだけなんです。そもそも最初の勤め先でお家騒動を経験した時点で何もかも馬鹿らしくなっていたし、その後だってなにも手を抜くことはないからできる範囲でコツコツやってただけなんです。それだけの普通の、なんの野心もない、ぼんくらと言っても良いこの私に対して、あいつはひどい。あの方は、あの男は、あんまりにもひどかった。最初に私がやったのは、あの男に先代から仕えていた連中の代わりに、国との交渉を執り行うことでした。元々知っていた相手も居る仕事、それにあの人の性格も今ほど激しくはなかったし、それはそれでやりがいがある仕事だったのです。私が話をすることで、あの人の壮大な計画も順調に進み、それで民も豊かになります。素晴らしいことではないですか。これまで腐敗し、利益を貪っていた連中から、民草の未来を取り戻したのです。そうです、私とあの人の戦いは利権との戦いでした。あの頃は良かった。でもね、そうやって利権をぶっ壊し続けた結果、あの人は私の前の――と言っても二番目ですが――の勤め先と険悪になります。私も板挟みですよ。こんなこといっちゃあれですが、これまで私は厳密にはあの人の部下ではなかったのです。はい、出向といいましょうか。まあ幼なじみがあの人の奥様となっていたので、その御縁があったというやつでしょうか。二番目の職場としてもそういうところを見込んで、あの人との調整役を私に頼んでいたというか、へへへ。まあともかく、あの人は事もあろうに私の二番目の職場もめちゃくちゃにして、あの時は私も危うく死にかけました。大切な人も酷いことになってしまって……でもね。でも打ちひしがれた時にあの人は言うんですよ。『これからは俺と共に頑張ってくれ。お前を頼りにしているんだ』って、しれっと……それが人間の言うことでしょうか? あなたのせいで何人が路頭に迷ったと思っているんだ、と。何人が……そう言ってやりたかったですよ。けどねえ言えませんでした。私は欲に負けたんです。引き抜き、まあそうとも言うんでしょうか。お金とか、そういうのも、確かにすごかった。けどねえ……違うんだなあ私が負けたのは……承認欲求ですよ。あの人にこんなにも認められている。そう思うと、私はもう天にも昇りそうなくらい気持ちよくて気持ちよくて、あれは良いものですよ。生きててよかったと心から思いました。こんなすごい人から頼りにされている私。大したことない筈の私めにこんなにも期待してくださっているなんて……ふふっ、正直堪らなくなってしまいました。そう、その期待に応えたいという欲に負けたんです。これが私の間違い、今度こそ田舎に引きこもるのが正解だったのに。仕事に失敗したのかって? 馬鹿言っちゃいけません。まあ同じ職場の先輩も後輩も優秀な奴揃いだったので、彼らほどの成果を毎度出した訳じゃないですが、堅実に一つずつ、少なくとも期待を大きく下回るようなこともなく、進んでいきました。でもね。でも、ええ、あなたが神様仏様ならご存知でしょう。あいつは私にとんでもないことを命じました。かつての同僚を始末する、それは良い。けどね、女子供を人質にして立てこもっていた連中ごと、山を焼けって言われたんです。分かってましたよ、必要なことです。これをやらなければ、私とあの人が夢見た未来は来ない。山に立てこもった生臭坊主どもこそ私たち――ああ、その頃はまだ私“たち”だったのに――の最大の敵なんですから。けどだめでしたねえ。相手が犯罪者でもねえ。私も犯罪者か? まあともかく焼いた後に子どもを抱いた女が出たり、世間から轟々と非難を浴びるようになってしまうとだめ。ああ、娘に石を投げた奴も居ました。私の娘は関係ないじゃないですか。投げるなら私に投げろと思いましたよ。でもね、あの人は娘に石を投げた奴を捕まえて殺してくれたんです。みんな、あの人を魔王と言う。でも違うんですよ。魔王なんかじゃない。もっとあったかい、涙を見過ごせない人なんだよなあ、ほんとだれもわかっちゃあいない。私だけは分かってますよ。あの人の若い頃も知ってますからね。でもそんな私に対して最近は本当にあたりが強くて、ひどいんです。取引先との宴会で、わざと私の失敗をあげつらって殴る蹴るを繰り返すし、わたしを侮辱するし、取引先の方も真っ青ですよ。みんなから可哀想に酷いことをなんて言われます。正直ね、もうあの人はダメです。昔みたいな優しさを、色々な体験の中で見失なっちゃったんだと思います。可哀想な話ですが、もう私があの頃憧れた優しくて大きなあの人は居ないんです。あの野郎は最近、おべっか使いばかり可愛がります。愛人の話ばかり聞くし、会社でブイブイ言うのもあの卑しい生まれの男。生まれが卑しい方が、旧来の権力と離れているし、言うことを何でも聞くから良いのでしょうね。私は自分に恥じることがないように正直に意見を続けてきましたが、こういう愚直な老体は邪魔なんでしょう、ええそうでしょう。ああ悔しい。今の記憶を持ったまま、あの人の若い頃にもう一度会えたら、もっとあの人の優しさを守ってあげられたかもしれないのに。あいつはもうだめだ。だめなんだ。分からせてやる。私はやめます。この首であの方をお諌めするのです。畜生、畜生、畜生」

「おじさん」


 呼ばれて初めて気がついた。

 ずいぶん喋りすぎてしまった。


「ご、ごめんよ」

「死なないで」

「え?」

「死なないで、おじさんには大事な仕事があるでしょ」

「……あ、ああ、そうだ。知ってるんだね、君は」

「うん」


 確かに、部下も居るし、今も大きなプロジェクトが進んでいる。私がやらなければ、大変なことになる。世の中から平和も遠のき、貧しいままで終わってしまう。


「失礼ながら、お名前を聞いても良いかな?」


 子どもは言うか言うまいか迷っている。

 ああ、いけない。名前を聞く時は自分から、だ。

 この子どもが人間とも思えない、礼儀は尽くしておくべきだろう。


「私は惟任日向守これとうひゅうがのかみ明智光秀あけちみつひで、織田家中のものである。ご無礼ながら、お名前伺いたい」

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