夢の続き

三郎

前編

 レズビアンである僕は男性に恋をしない。そう思っていた。

 けれど、性別の壁を乗り越えて僕の心に入り込んできた男性が一人だけいた。彼に対する恋心を認めたくはなかったけど、認めざるを得なかった。


 僕は女性専用の風俗店に勤めていた。お金に困っているからではなく、ただ単に、女を抱きたいから。金は二の次だった。

 しかし、彼から押しつぶされそうなほど重苦しい愛をもらっているうちに、愛のない行為が苦痛になってしまった。セフレも何人かいたけれど、それも全部切って、店もやめて、彼と恋人になった。なってしまった。

 彼は全部知っている。僕がレズビアンであることも、風俗嬢だったことも、どうしようもないクズであることも。そんな彼にも、一つだけ話せないことがある。それに関しては踏み込んでこない。いつか必ず話すからという僕の言葉を、彼はなんの疑いもせずに待ってくれる。そのいつかが、僕らが生きている間に来るとは限らないのに。


かい、おはよう」


 彼とは幼馴染で、保育園からの付き合いだ。名前を呼ばれることなんてとっくに慣れている。なのに、彼に対する恋心を認めた途端、彼の優しい声で名前を呼ばれるだけで心が温かくなってしまう。ずっと凍りついていた僕の心は、彼の熱すぎる愛にすっかり溶かされてしまった。


「……痛っ!? 何!? なんでつねるの!?」


「……なんとなく」


 挨拶がわりに彼の頬をつねってから、朝食の用意を手伝う。そういえば人間は、可愛い物を見ると攻撃したくなる衝動に駆られるという。キュートアグレッションというらしい。

 風俗は副業で、本業は別にある。そっちはまだ続けている。本業はバーテンダーだ。普通の。職業柄、様々な職業、属性の人間と会話をする。おかげ様で、いらない知識が増えていく。『バーテンダーにいらない知識なんて無いよ。知識量は語彙力に繋がって、会話力に繋がるから』と、僕をバーテンダーに誘ったおっさんは言うが、これはいらない知識だ。本当に。本当に要らない。


「嫌な夢でも見た?」


「……いや、別に。君の顔見たらムカついたからつねった」


「理不尽……」


「僕が理不尽なのは今に始まったことじゃないでしょ」


「まぁ、そうですけど。開き直るなよ」


「君が僕を許すせいだよ。自業自得」


「……」


「殺意湧いた?」


「いや、愛おしいなと思った」


「ドMかよ」


「そこは否定させてもらう」


「いや、ドMだよ。じゃなかったらこんなクソみたいな女好きにならない。狂ってる」


「俺のことボロクソ言うのは良いけど、俺の好きな人のことまで悪く言わないでくれますー?」


「事実じゃん」


「確かに事実かもしれない。それでも俺は、君が好き。愛してる。一生幸せでいてほしい」


「重……」


「でも、今はもう、受け止められないほどではないんでしょう?」


 にっと憎たらしく笑う彼の頬をつねって、思い切り足を踏みつけてやってから、冷蔵庫を開けて卵を一つ取り出してフライパンの上に割る。「俺の分は?」という問いには「最後の一個」と答える。


「えっ、嘘だ。あ! ほら! あるじゃん! なんで一緒に焼いてくれないのー!」


「うるせぇ。自分で焼け」


「ねぇぇぇぇー!」


「はぁ……」


 冷蔵庫を開けてぎゃーぎゃー騒ぐ彼。冷蔵庫を閉じるついでに、うるさい彼の口を唇で塞ぐ。すると彼は顔を真っ赤にして、スイッチが切れたように大人しくなった。


「……なんで今キスした?」


「うるさかったから」


「……もう一回」


「しない」


「……じゃあ俺からしても良い?」


「キスくらいで発情してんじゃねぇよ猿。触んな」


 肩に触れた彼の手を振り払い、睨む。彼は拗ねるように唇を尖らせながら言う。


「好きな人から不意打ちでキスされたらドキドキするに決まってんじゃん!」


「キーキーうるせぇよ猿。向こう行って一人で抜いてろ。その間に飯作っておくから」


「うぅ……酷い……」


「不満があるなら別の女のところ行きな」


「やだ。海が良い。海じゃなきゃだ」


「やっぱドMじゃん」


「ぐぬぬ……」


 悔しそうにしつつも、彼は大人しくキッチンを出て行った。

 朝食を作り終えて食卓に持っていくが、彼は居ない。先に食べて待っていると戻ってきて、何事もなかったかのように正面に座った。むすっとしていたが、自分のご飯の上に乗せられた目玉焼きを見ただけでその表情は簡単に緩んだ。犬みたいだ。


「そういう君は猫だね。素直じゃないところそっくり」


 口に出ていたのか、彼が言い返してくる。


「犬が喋んな」


「……なんか今日いつも以上に当たり強い気がする……」


「嫌いになった?」


「残念でしたー。そう簡単には嫌いになりませーん」


「……だろうな」


 出会った時から——つまり、保育園児の頃からずっと好きだったというくらいだ。そう簡単に嫌いにならないことくらい分かっている。だから僕も安心して悪態をつける。

 言葉に出さずに、愛してくれてありがとうと心で呟く。すると彼は「どういたしまして」と笑った。


「は? なんも言ってないけど」


「俺には聞こえたよ。愛してくれてありがとうって」


「自惚れんな猿」


「犬なのか猿なのかどっちだよ」


「犬猿」


「新種の動物にされた……」


「いや、居るよ。クロザルの別名」


「居るのかよ……」


 僕は自分が嫌いだ。殺してやりたいほどに。実際に一度、殺そうとした。そこを古市ふるいち幸治こうじというバーテンダーのおっさんに拾われた。


『今死ぬなんてもったいないと思うよ。急がなくたって死は必ずいつか向こうからやってくるんだから』


 その一言や、親友との約束に無理矢理生かされているだけの僕に、彼が愛をくれた。彼が居るから今は『生きなきゃ』ではなく『生きたい』と思える。だけどそのことは彼には伝えない。言葉にすればきっと調子に乗るし、言わなくたってどうせ伝わっているから。

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