第二十一話 完全無欠の生徒会長のストレス解消


「遅いな……鞘」


 その日、緑は夕食を作って鞘の帰りを待っていた。


 時計の針は、既に夜の七時を回り、八時に差し掛かっている。


 いつもよりも、大分帰りが遅い。


 流石に心配になってきた緑は、安否確認のメッセージを送ろうかと、スマホを手に取ったところで――だった。


 玄関の扉が開く音が聞こえた。


「良かった、帰って来たか」


 胸を撫で下ろした緑の目前で、リビングのドアが開く。


「お帰り、鞘。随分と――」

「ただいま……」


 帰って来た鞘の姿を見て、緑は思わず声を止める。


 別に、変な格好をしているとか、そういうわけではない。


 ただ……覇気の無い声、前屈み気味の姿勢、俯いた表情。


 今の彼女からは、かなりの疲労困憊が見て取れる。


(……まぁ、当然か)


 しかし内心、緑は納得する。


 そう、この時期――鞘は大忙しなのだ。


 まずは部活。


 もうすぐ一学期も終わり、夏が訪れる。


 女子バレー部に所属する鞘は、春の全国大会の予選に向けて、特訓の真っ只中だ。


 唯でさえレギュラーメンバーなのだから、気合いの入れ方も違うだろう。


 加えて、生徒会活動。


 夏休みの最中、生徒会も課外活動(地域で行われる高校説明会への参加等)が行われる。


 加えて、二学期が始まればすぐに文化祭がある。


 昨年の資料を集めつつ、その準備も行っているはずだ。


 更に、一学期が終わるということは、期末試験もすぐそこ。


 勉強だってしないといけない。


 以上――緑のような一般生徒と違い、鞘は大変な身の上なのである。


「鞘、大分疲れてるな」


 どよんとした雰囲気を纏う鞘に、緑が言う。


「うん、疲れ……」


 そこまで言い掛けて、鞘はハッとした表情になり、すぐに顔を上げた。


「だ、大丈夫。疲れたと言っても、ちょっとだけだから」


 そう言って、ニコッと微笑む。


「………」


 まったく、また無理をしている。


 大真面目で、人に迷惑を掛けたがらない性格の彼女だ。


 我慢をしているのは、すぐにわかる。


「夕飯、無理に食べなくても良いぞ?」

「いや、それはいけない。せっかく、お兄ちゃんが用意して待っててくれたんだ。一緒に――」


 と、一歩を踏み出したところで。


「あ……」


 ふらっと、鞘の体勢が崩れた。


「鞘!」


 膝を折る鞘の体を、慌てて緑が支える。


「ご、ごめん……ちょっと、立ちくらみが……」

「……疲れが溜まりすぎだ」


 近くで見れば、よくわかる。


 血色が良いとは言えない顔色をしている。


「鞘……ちょっと、抱っこするぞ」

「え……」


 無理に立たせるのも忍びない。


 緑はそこで、鞘の膝の裏に片腕を回す。


 そして、彼女を抱きかかえた。


 いわゆる、お姫様抱っこだ。


「きゃっ……」


 いきなりの行為に、驚き、顔を赤らめる鞘。


 緑は鞘を運ぶと、リビングのソファの上に寝かせる。


 クッションを頭の後ろに置き、枕代わりに。


「ちょっと待ってろ」


 今の彼女は制服……スカートの姿だ。


 緑はタオルケットを持ってくると、鞘の体に掛ける。


「お兄ちゃん……」

「具合は、悪くないか?」


 緑は、鞘の額に手を置く。


 熱は無さそうだ。


 となれば、やはり肉体的にも精神的にも疲れが溜まっていたのが原因だろう。


「う、うん……ちょっと、頭がボウッとするだけ」


 おずおずと、鞘が言う。


 緑は鞘の頭に手を伸ばす。


 艶やかで、シルクのような手触りの黒髪に指を差し入れ、優しく撫でる。


「あ……ん……」


 人間の頭は、多くの神経が通っている部位。


 そこを触られると、人は心地良さを覚える。


 鞘も、緑に頭を撫でられると、猫のように身を捩り、甘い声を発した。


「頑張るのは良いことだけど、自分の体を犠牲にしちゃ元も子もないぞ」

「お兄ちゃん……」


 諫めるような緑の言葉に対し、鞘は両目を伏せる。


「……ごめんなさい……でも、みんな頑張っているんだ」


 そして毛布に口元を埋め、申し訳なさそうに言った。


「部活のみんなも、先輩も後輩も、一丸となって頑張ってる……私は、そんな皆の中から選ばれた中心メンバーだ。一層頑張らないといけない。生徒会活動も、副会長を初めみんな真面目でいい人ばかりだ。その上に立つ者として、皆を引っ張らないと。何より成績だって、生徒会長として見本になるような……あ」


 そこで、鞘は気付く。


 そんな鞘を黙って見詰める、緑の視線に。


「ご、ごめん、頑張り過ぎないように……だよね。でも、ちょうどいい力の抜き方が、私にはわからないんだ。何より、力を抜いてしまった事で、もしも望まない結果になってしまったら……」

「わかるよ、鞘」


 そこで、緑は優しく微笑む。


「俺だって鞘の気持ちがわかる。だから、頑張るな、とは言わない。鞘の携わっている事は、どれも大切な活動だ」

「お兄ちゃん……」

「だから、そうだな……」


 そこで少し考え、緑は言う。


「頑張って、疲れて帰って来た鞘の、その疲れを吹っ飛ばせるような、そんなストレス解消になるような事を俺がしてあげられたら良いんだけどな」

「………」


 緑がそう言うと、鞘はボウッとした目で彼を見る。


 疲労と緊張感に満ちた体に、緑への好意が満ちる。


 愛おしさと、少しの我が儘が、気を抜いた彼女の思考を支配する。


「ストレス解消……じゃあ……」


 おずおずと、そこで鞘が毛布の下から手を伸ばす。


「鞘?」

「……ぎゅっ、て」


 伸ばされた両手が、緑の顔の両サイド……触れるか触れないかくらいの位置に来る。


「……ぎゅっ?」

「……ぎゅう……」


 緑が聞き返すと、鞘は目線を逸らし、恥ずかしそうに言う。


 疲れにより心身共に弱っている彼女が、心からの願いを口にしているのだ。


(……何だろう)


 思わず、緑の心にある感情が芽生える。


 学校で見せる、凜然としたかっこいい姿。


 家で見せる、積極的で純粋無垢な姿。


 今の鞘は、そのどちらとも違う。


 弱々しく、緑に心の拠り所を求める姿。


 緑の中に、ちょっとした悪戯心を生み出させる、魅力的な姿だった。


「ぎゅっ、て、何? どうすればいい?」

「……お兄ちゃん、いじわる」


 再度問い直す緑に、鞘は更に恥ずかしそうに顔を俯かせる。


「お、お兄ちゃんに……ぎゅって、だ、抱き締めて――」


 そこで、緑は鞘の背中に腕を回す。


「ひゃっ!?」


 そして、鞘の体を持ち上げると、そのまま自分の体ごとソファの上に横たわった。


 緑が下、鞘が上に乗るような状態。


 その状態で、鞘の体をキュッと抱き締める。


「は、ぅぅ……」


 力強く腕を回され、身を寄せられ、鞘はぞわぞわと全身の産毛を立たせる。


 はぁ……と、喉の奥から艶めかしい溜息が漏れた。


「お兄ちゃん……」


 間近、鞘のトロンとした目が、緑を見詰める。


「ん……」


 鞘が唇を寄せ、緑の頬にキスをする。


 触れた唇の柔らかさと体温が、離れた後も頬に残る。


「お兄ちゃんも……して」

「ああ」


 今度は、鞘が顔を横に向ける。


 その横顔に、緑は唇で触れる。


「ん……」


 むず痒そうに喉を鳴らし、続いて再び、鞘が緑の頬にキスを。


 そして、次は緑が――。


 そうやってしばらく、キスの応酬が行われた。


 やがて――。


「……ん~~~~~!」


 鞘の方が先に、頭が沸騰したようだ。


 緑の胸に顔を埋め、深く息を吐く。


「ははっ、甘えん坊だな」


 緑は、そんな鞘を改めて抱き締める。


 しばらくの間、二人は黙って、その体勢のままでいた。


 ……やがて。


「すぅ……すぅ……」

「鞘……寝た?」


 腕の中の鞘が、囁くような呼吸音を漏らし、体を上下させる。


 どうやら、リラックスしすぎて、寝てしまったようだ。


「……仕方がないな」


 ここで起こしてしまうのも可哀想だ。


 緑は、鞘を再びお姫様抱っこし、二階にある彼女の部屋へと運ぶ。


 制服姿のままだが、着替えさせるのも忍びない。


 ベッドに鞘を寝かせ、布団を掛け、「お休み」と言って部屋を出る。


 一階に戻ると、鞘の分の夕食は冷蔵庫にしまい、自分の分だけ平らげる。


 そして後片付けをすると、緑も欠伸を発して自室に向かった。




 ―※―※―※―※―※―※―




 ――翌朝。


「おはよう! お兄ちゃん!」


 リビングにやって来ると、そこには元気いっぱいの鞘の姿があった。


「お、おはよう……」

「朝ご飯、用意してあるからね!」


 思わず、緑も戸惑う程の復活っぷり。


 昨夜の疲れ切った姿が嘘のように、活力に満ち溢れている。


 どこか、お肌もツヤツヤしているように見えるのは気のせいだろうか?


「随分と元気になったな……」

「ふふ、お兄ちゃんのお陰だ」


 鞘は微笑む。


 少しの照れと恥ずかしさ、そして、期待の入り交じった表情で。


「これからは、どんなに疲れても大丈夫。最高のストレス解消法を知ってしまったからな」


 そう言って、幸せそうに笑む鞘の一方。


(……まずい……いけない事を覚えさせちゃったかも……)


 少しだけ、自分の身に危機を覚えた緑だった。




―※―※―※―※―※―※―※―※―※―※―※―※―※―※―※―※―※―※―




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