第五話 完全無欠の生徒会長と、あの夜に起こったこと


「緑さんが留年をすることになったのは……おそらく、私のせいなんだ」

「……え?」


 夕日も沈み、外は夜の帳が落ちている。


 緑と鞘、二人しかいない家の中には、静寂が広がっていた。


 向かい合った状態で、決意を固めた鞘が語り出す。


「緑さんが暴力事件を起こしたという、あの夜……繁華街のあの場所で、悪漢に襲われそうになっていたのは、私。そして、そんな私を、緑さんが助けてくれた」

「………」


 緑は、鞘に事件の詳細を語っていない。


 学校に流布している噂話だって、ただ単に『国島緑が暴力事件を起こして停学・留年になった』という程度の内容のはずだ。


 それもそのはず――緑はあの夜の事実を、父にしか語っていないのだから。


 被害者の女子高生が、余計な詮索や二次被害の対象にならないように。


 だが、今、鞘は完全に言った。


 あの夜、緑に助けられたのは、自分だと。


「どうして、鞘さんがあんな場所に?」


 高鳴る鼓動を抑えながら、緑は問う。


 鞘はゆっくり頷くと、あの日のことを語り出した。


「部活の……バレー部の仲間にちょっかいを出す、悪い先輩の噂を聞いて。それで悩まされていると相談を受けて、私が直接、もう関わらないように言いに向かうことにした」


 鞘は、胸の前に持ち上げた拳を握る。


 キュッと、唇を噛む。


「みんなから心配されたけど、大丈夫だって気丈に振る舞った。その時の私は勘違いしてたんだ。自分ならできるって、己を過信してしまってた」


 その先輩とやらは、夜の繁華街で遊び歩く、わかりやすい無軌道者。


 居場所を聞き、その場所に向かい、真正面からハッキリと宣言したが――逆にその先輩と仲間達に襲われてしまった――という顛末らしい。


「そうならないはずもないって、想像だってできたはずなのに、毅然と立ち向かえば大丈夫だって……私が甘かった。本当に暴力を振るうことに躊躇のない人間を、しかも複数目の前にした時、私の覚悟なんて紙切れみたいに頼り無く散った」


 鞘の手が、声が……全身が震えているのがわかる。


 その時のことを思い出しているのだろう。


「路地裏に引っ張られて、凄まれ、押し倒されて……その時には恐怖で声を発することも身動きをすることもできなくなってて。恥も外聞も無く、か細い声で助けを呼んでた。でも、もう助からない、って、そう思った時……私に覆い被さっていた男の頭が、いきなり真横に弾かれて」

「……ああ」


 あの夜。


 女の子を襲っている悪漢を発見した、助けてと言う必死の声が聞こえた、その時には、緑は躊躇無く行動を起こしていた。


 傍にあったコンクリートブロックを、その男に思い切り投げつけていたのだ。


 鞘によると、どうやらその男が事の発端である悪い先輩だったらしい。


 その後のことは、緑も事細かくは覚えていない。


 ともかく、その男達と乱闘になり、気付けば警察のお世話になっていた。


「……私は、お母さんに苦労をさせたくないって思ってた。その為に、成績優秀な優等生であろうって、人から良い評価を受けなければならないって……だから、こんなことがバレたら……何より、恐怖が勝って、そう思って、今日まで真実を口に出せなかった」

「それが原因で、男が苦手になったのか」

「苦手……というわけじゃない。別に普通に話したり、接することはできる。けど、手首や肩を掴まれたりすると、不意にあの時のことを思い出してしまうこともあって……」


 充分、トラウマになりかけているということだ。


 それだけ、心に傷を残しているということ。


 緑は眉を顰める。


「その悪い先輩は、事件の後、結局どうなったんだ? 俺は、向こうの事に関しては詳細を聞かされてないから」

「……その先輩は、あの事件が切っ掛けで色々な余罪が見付かって、私や部活仲間にも手を出している余裕が無くなったみたいで。今ではどこに行ったのかもわからない」


 それが、あの夜の顛末。


 鞘は恐怖から、その時の記憶を誰にも語らず秘め。


 一方、暴力事件の関係者となった緑は、停学処分からの留年という末路を辿ることになったのだ。


「本当に……本当にごめんなさい!」


 鞘は、深々と頭を下げる。


 震える体を床へと落とし、土下座にも近い姿勢を取ろうとする。


 緑は慌てて、そんな彼女を引っ張り起こそうとする。


 けれど、肩や腕を掴むわけにも行かず……。


 触れるか触れないか、それくらいの感覚で、彼女の頭に手の平を乗せた。


「……!」

「やめてくれよ、鞘さんだって被害者だったんだし、しょうがないじゃないか」

「……でも、私のせいで、緑さんに迷惑を掛けちゃった。人生を滅茶苦茶にしちゃった」


 優しい声で語りかける緑に、鞘は顔を上げる。


 涙を落とし、顔をくしゃくしゃに歪め、懺悔する。


「ごめんなさい……このことはちゃんと公言する。せめて学校のみんなには、真相を――」

「ダメだ」


 その鞘の提案を、緑がハッキリと止めた。


「どうして……私のせいで、緑さんが……」

「俺はあの夜、襲われている女子高生を守るために暴力行為に及んだとか、そんなことは警察にも一切言っていない。それは、その女子高生に二次被害が及ばないようにと考えたからだ。だから、鞘さんが真実を話してしまったら、本末転倒だ」


 ここだけの話にしておこう。


 それでいい、と。


 自身の罪を受け止め、優しい言葉を掛けた緑に、鞘は感情を維持できなくなった。


「……っ」


 気付けば、鞘は緑に抱きつき、胸に顔を埋め、泣き崩れていた。


 まるで、心の箍が外れ、感情が溢れ出したかのように。


 けれど、緑は彼女を泣き止ませようとは思わなかった。


 今までの話から察するに、鞘は母子家庭で母の負担にならぬようにと、一生懸命優等生であろうと、人から一目置かれる人間であろうと努力してきたのだ。


 弱音を吐かず、疲れを見せず、己を律してきた。


 だから、彼女にとっては、もしかしたら初めての経験なのかもしれない。


 誰かに助けて欲しい。


 思い切り泣きつきたい。


 安心したい。


 そんな感情が、遅まきながら受け入れられた。


 緑という、自分を包みこんで受け入れてくれる対象を前に、決壊したのかもしれない。


「………」


 そして、それでいいと緑は思う。


 以前、停学や留年が決まった時、緑は無力感に苛まれ、どうしようもない絶望感に襲われた。


 泣くことすら出来なかった。


 こうして涙を流して、自身の感情を吐露できる鞘は幸せだ。


 何より、この様子から、彼女がどれだけの苦悩を抱えていたのかがわかる。


 だから、今は存分に泣かせてやりたい。


 そう思った。




 ―※―※―※―※―※―※―




 ――その後。


 泣き疲れた鞘を自室へと連れて行き、寝かせた後。


 緑も自分の部屋に戻って休むことにした。


 夕食はお預けである。


 ……そして、夜が明け――翌日。


「………」


 緑は、ベッドの上で目を覚ます。


「……まさか、な」


 目覚めると同時に、昨日の光景が思い出され、心臓が高鳴る。


 昨夜は凄いことがあった。


 まさか、あんな真相を知ることになるとは。


 脳内はその事でいっぱいだ。


 考えながら、着替えを終え、部屋を出る緑。


 そこで、同じタイミングで自室を出た鞘と、鉢合わせをした。


「あ、鞘さん……」

「………」


 鞘は、緑の顔を見る。


 何かを言おうとしているのかもしれない。


 しかし、声を発するよりも前に、その両目が潤み――彼女は緑に駆け寄ると、また抱きついてきた。


「ど、どうしたんだ」

「………」


 きっと、申し訳なさと、やるせなさと、そして、何より緑に対する深い感謝の気持ちと、己の弱さを受け入れてくれた緑に対する言葉では言い表せない想いが、溢れて止まらないのかもしれない。


 胸に埋まった鞘の頭。


 その後頭部――綺麗な黒髪の上に、手を添える。


 そして、恐る恐る、緑も鞘を優しく抱き締めた。


 背中に手を回し、添えるように。


 鞘は、怖がることも、拒絶することもしなかった。


 それに、少しだけ安心する。


「……朝ご飯、食べるか」

「……うん」


 微笑み言う緑の胸元から、鞘が顔を離す。


 眦の涙を拭いながら、彼女はそう微笑を返した。




―※―※―※―※―※―※―※―※―※―※―※―※―※―※―※―※―※―※―




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