夢iiiiii
文化祭当日になった。一抹の不安を抱えながらも、僕は風花が演じる白雪姫を楽しみにしていた。正直、駿河が王子役なのはかなり悔しいけど、自分がした選択なのだから文句を挟む余地はない。
演者が舞台上で劇を進行している間、クラスメイトたちには舞台上のギミックの回収や照明による明暗の調整という役目が課されている。その中で僕は、ギミックの回収係に努めることになっている。
本番三十分前になって、演者たちはすでに衣装を身に纏っていた。各々が緊張した面持ちで劇に向けた最後のリハーサルをしている。
王子役の駿河はクラスメイトの女子たちに黄色い歓声を浴びせられている。男の目から見てもかっこいい。やっぱり、駿河が王子役にぴったりだな、と僕は思った。
「……あれ? 風花は?」
誰かが不意にそう呟いた。それを機に、クラスメイトたちがどよめいた。風花以外の演者は体育館の舞台横に設けられたスペースで待機しているが、風花の姿がどこにもない。風花の行方を誰も把握していないらしく、徐々に不安が伝播していった。
「誰か、風花がどこに居るか知らない?」
そう訊ねる女子をよそに、僕は携帯で風花にメッセージを送信した。すると、すぐに返信が返って来た。
C棟の四階に居るよ
風花の示した場所は誰も近寄らないような場所だった。
「C棟……」
僕が風花と連絡を取っているらしいことに驚いた様子の女子が、僕の携帯を覗き込んできた。わざわざそこに一人で居るのに不安を覚えて、僕は反射的に風花に通話を掛けた。そして、風花が居るC棟の四階に向かって走った。誰かが困惑した声で僕を呼んだ気がしたけど、今は気にしていられなかった。
「もしもし?」
風花が応答してくれたことに安堵しながら、僕は訊いた。
「どうしてそんなところに居るの? あと三十分で本番だよ!」
「静かなところで練習したくて。でも、一人だとやっぱり不安になるね」
「良いから戻って来なよ!」
「ねえ、梵」
「なに?」
僕の逸る気持ちはおそらく声に出ているはずだ。それにも関わらず、僕の焦りを含んだ声とは対照的に、風花は抑揚のない声で言った。
「梵は、死んでなんかないよね?」
「…………え?」
「生きてるよね。どう見たって、梵は生きてるよね?」
それまで平坦だった風花の声が、突然崩れる前兆のように震え出した。
「突然何を言い出すんだよ、風花」
僕は息を切らしながら、人の波を掻き分けてC棟にたどり着いた。携帯の画面越しで、風花が泣き声を抑えているのが分かった。只事ではないと判断した僕は、一言だけ言い残して携帯を切った。
「生きてるに決まってるだろ」
そして、僕はC棟の階段を駆け上がった。
C棟の四階は、文化祭だというのにいつも通り日の目を浴びることなく静寂を保っている。本当にここに風花が居るのかどうかも分からないまま、僕は手当たり次第に教室を覗き込んだ。そして、何かしらの準備室に白雪姫の姿で座り込んでいる風花と、先ほどまで体育館に居たはずの駿河がそこに居た。いつも通り、駿河はジャージ姿だった。
「……風花に何をした」
僕はおそらくは人生で一番の怒りを覚えながら、座り込む風花の目の前で佇む駿河に言った。けれど駿河は、僕の質問に答えなかった。
「何をしたのかって訊いてんだよ!」
僕が叫んで駿河の胸倉を掴むと、駿河はどこか後ろめたそうに顔を背けた。
「真実を、伝えに来た」
駿河は小さくそう呟いた。
「……真実?」
「どうして風花が眠ったままなのか、現実とこの夢の違いは一体どこにあるのか」
駿河がこちらに全く敵意を見せることなく淡々とそう言うので、僕は頭が冷えていくのを感じた。掴んでいたシャツを離すと、駿河は伸びた首元に触れた。その光景を横目に、僕は目を赤くして座り込んでいる風花の背中に手を置いた。
「風花、大丈夫?」
「……梵」
風花は僕の存在を確かめるかのように、僕の頬に手を添えた。
「僕はここに居るよ」
僕は風花の手を取って、風花がよろけてしまわないように背中に手を回しながら立ち上がらせた。
「……駿河。風花が泣いている理由を教えてほしい」
僕が言うと、駿河は苦しそうな表情をしながら頷いた。
「風花が事故に遭ったってことは、前にも言ったよな?」
駿河の言葉に、僕は頷いた。
「風花が乗っていたバスが、事故に遭った。そのバスには、梵。お前も乗り合わせていた」
「……そうだね。そうでないと、整合性が取れない」
「じゃあ、どうして風花は数日経っても目覚めていないのか。それは風花が、この夢の世界で長らく生きることを選んだからだ」
駿河は、自分が口にする前に僕が答えにたどり着くのを望んでいるかのように、その先の言葉を言い渋った。けれど、やがて決心がついたのか深く溜息を吐くと、駿河は言った。
「風花がこの夢に居座ることに決めたのは、梵。お前が死んだからだ」
駿河は至って真剣な表情でそう言った。その言葉を聞いた僕は、思わず笑ってしまった。やっぱりか、と思ったからだ。現実世界からの使者である駿河の口から聞いてしまったのだから認めるしかないな、と僕は諦観した気持ちになった。さっき通話越しで風花に訊かれたときから、こうなることは予感していた。いや、実のところ、バスで事故に遭った可能性に思い至った時から、僕は現実世界から消失したのではないかと思ってしまっていた。
「風花は現実世界で梵が死んでしまったことを察知して、すぐにお前が生きている世界を創り上げた。この世界が夢であることも忘れて、風花はお前と生きる日常を望んだんだ」
「……この世界が終われば、僕は現実からも夢からも消える、のか」
「……現実では、お前の墓石まで立っている」
駿河は僕から目を逸らして言った。
言葉にしてみたけど、まるで現実味が湧かなかった。僕が既に死んでしまっている覚悟はできているつもりだったけど、いざそのことを第三者に告げられると他人事のように感じられた。僕は理解と実感がかみ合わない脳の処理を待っていた。これからどうするべきなのか、その答えを導くために脳を稼働させようとすると、風花が口を開いてか細い声を発した。
「梵が居ない世界なんて、そんなの、現実じゃない」
風花の言葉に、駿河は苦虫を嚙み潰したような顔をした。
「梵が居ないなら、一生、夢から覚めなくたっていい」
風花はそう言って、僕を抱きしめた。
「誰にも梵は渡さない! 死なせたりなんかさせない!」
風花は僕の胸元に顔を埋めながら叫んだ。それから風花は声を上げて泣き出した。その様子を見て、僕は自分が少し冷静さを取り戻しているのを感じた。
この世界が続くということは、風花がずっと眠り続けるということだ。つまり、目の前に提示された選択肢のうち僕が選ぶべきなのは、当然一つしかない。
僕の意識が完全に消失するのを覚悟で、風花を目覚めさせる。美談めいた話にするつもりはない。風花が目覚めるということは、実質僕が死ぬことと同じだ。当たり前だけど、怖い。けれど、今のうちに行動を起こさないと、僕は自分の気持ちにけじめをつけることも、風花を目覚めさせることもできない。自分が死んでしまう実感が深く根付いてしまう前に、僕は行動を起こす必要がある。
僕は泣きじゃくる風花を見下ろして、頭を撫でた。僕は子どもみたいにしゃくりあげている風花に言った。
「大丈夫。僕は風花の前から消えたりしないよ。それよりも風花、早くしないと劇が始まっちゃうよ」
「……梵、死んだりしない?」
風花は不安げに僕を見上げて言った。僕は風花に笑って答えた。
「死ぬわけないだろ。これから劇が成功するように、舞台セットをせわしく運ばないといけないんだから」
僕の言葉に、風花は思案するように俯いた。今の僕が風花にするべきことは、これからも今まで通りの日常を提供する意思を見せることだ。そうでもしないと、風花は梃子でもここから動かないだろう。まずは僕が、風花と一緒にこの夢の中で生き続けるつもりがあると騙す必要がある。心苦しいけれど、どうか許してほしい。
「じゃあ、行こう」
風花は僕の手を掴んだ。風花は僕を舞台まで連れて行こうとした。けれど、僕にはまだ、駿河と話しておくべきことがある。
「風花、ちょっと待って」
「……どうしたの?」
不安げに振り返った風花の顔を、僕は指さした。
「きっとそのまま体育館に行っても、泣いたことバレちゃうよ?」
僕の指摘に、風花は慌て始めた。
「ど、どうしよう! もうすぐ劇が始まっちゃう!」
「とりあえず、そこのトイレで身繕いして来なよ」
僕の提案に、風花は頷いて急いでトイレに向かった。その様子を見送った僕は、おそらくはこれ以上この夢に滞在する余地のない駿河を振り返って言った。
「必ず、風花を目覚めさせる。信じてほしい」
僕が言うと、駿河は少し驚いた表情をしてから笑った。
「やっぱりお前には、敵わねえよ」
駿河は僕の肩に手を置いて、耳元で囁いた。
「頼んだぜ、王子様。劇ごときの舞台なんてめちゃくちゃにしてやってくれ。こっちは命を掛けて白雪姫を目覚めさせようとしてんだからよ」
駿河の言葉に、僕は頷いた。すると、駿河は僕を抱きしめた。駿河の身体が震えていて、耳元で呻き声が聞こえた。
「駿河?」
「見るな」
「…………泣いてるの?」
駿河は答えなかったけど、鼻を啜る音が聞こえて来る。僕は駿河を抱きしめ返した。
「ごめんね、駿河。本当はずっと、楽しく二人とは一緒に居たかったんだけど」
「……俺も、意地を張り過ぎた。本当は、お前と風花と、また三人で一緒に居たかった。なのに、俺がその邪魔をしてしまった。ごめん。本当に、ごめんな」
駿河はもしかすると、僕を支えにして立っているのではないかと思うくらいに、崩れ落ちそうになっていた。僕は駿河の背中を軽く叩いて、駿河を僕から離した。
「また、会えるよ。そうだ、風花に創ってもらえばいいんだよ。僕が居る夢を、風花が目覚めてから。そうしたら、駿河は風花の夢にダイブしてさ。その時はどうか、僕と仲良くしてやってよ」
「……なんでお前はそう物分かりがいいんだよ」
駿河は真っ赤にした目で僕を見据えた。それから目元をガシガシと擦ると、駿河は僕に拳を突き出した。
「分かった。約束する。その時は絶対に、お前と仲良くしてやる。だから、また会おうぜ。梵」
駿河がそう言って微笑んだので、僕は自分の拳を駿河の拳に突き付けた。やがて駿河の拳が半透明になり、時間が来たことに気付いた。
駿河は僕から一歩離れると、微笑を浮かべたまま佇んだ。そして、この夢に自分が干渉した痕を払拭するように姿を消した。
しばらくぼーっと立ち尽くしていると、背後から風花に呼ばれた。
「どうしたの? 何もないところ見てるけど」
「駿河が居なくなったから、ちょっとね」
「…………そっか」
風花は複雑そうな表情を浮かべながら頷いた。
クラスメイトたちから安堵の声を浴びながら、戻って来た風花は舞台袖でスタンバイした。僕と風花の様子に違和感を抱いたらしい駿河は、まさに風花のナイトと云った様子で僕に詰め寄って来た。必死に誤解を解いて、なんとか解放してくれた。きっとこの先僕が現実世界で生きていたとしても、また三人仲良しに戻るには時間が掛かったんだろうな、と苦笑した。
いよいよ体育館内で白雪姫の劇が始まるアナウンスが鳴った。劇が開始される合図となるブザーが鳴り響き、体育館全体の照明が落とされた。
それを合図に、さっそく舞台の背景となるセットを運び出した。今は語り手役のクラスメイトがあらすじの概要を説明しているところだった。刻一刻と話が進んで行く中で、僕はまだ、どうやって風花に訴えかけるのか考えていた。普通に説得してもまるで効果はないだろう。
「……風花の、納得のいく終わり方」
いつか駿河が言っていた言葉を思い出した。風花が納得してこの夢を見終えるには、どうすればいいのだろう。風花が望んでいることは、一体何だ?
そうやって頭の中で思考が渦巻いて、僕は気持ちが焦るばかりだった。
そして気付けば、劇はもう中盤までやって来ていた。無心で考えながら舞台セットの準備をしていたらしい。ここまで、劇の内容や自分が行った作業を何一つ覚えていない。
僕は舞台上で駿河と風花が掛け合いしているのをただ眺めるしかできなかった。すると、背後で誰かが小さく悲鳴を上げた。驚いて振り向くと、そこにはどういうわけか、さっき消えたはずの駿河が居た。
「ど、どうして霧雨くんが二人も?」
クラスメイトの女子が口元を押さえながらそう言った。そうだ。事情を知らないみんなには、舞台上で王子役を演じる駿河と、現実世界からやって来た寝間着姿の駿河で同一人物が二人居るように見える。だからこそ、意味合いは違うけど驚いている周りと同じ疑問を僕は抱いていた。
「どうしてここに?」
僕の質問には、二つの意図がある。一つ。どうしてまた夢の中に潜ることができたのかということ。二つ。どうしてこんな混乱を招くような登場の仕方をしたのか。
「あの後目覚ましで起きて、海斗からかっぱらった睡眠薬を飲んで眠った。ダイブするのは一回の夢につき一度だ。つまり、もう一回眠ればリセットされるってわけだ。割と大変だったんだぜ。完全に覚醒しないと目覚めたってカウントされねえからな。冷たいシャワーを浴びて来た」
「……海斗に?」
駿河が海斗と接触していることに僕は驚いた。睡眠薬の影響か、駿河は気分が悪そうに頭を振っている。
「それにしても、穏やかじゃない登場だね」
「あぁ、まあな。風花は安寧な日常を求めている。だから、それを掻きまわしてやるんだ。そうすることで、あいつはこの世界が夢じゃないと強く認識するだろう。その混乱に乗じて、お前が風花を説得してやってくれ」
「搔きまわすって、一体何をするつもりなの?」
周りに居るクラスメイトたちは混乱している様子だったけど、今はそんなことに気を回していられなかった。こっちはかなり切羽詰まっているのだ。
「クライマックスのときに、夢の中の俺を食い止める。その間にお前は風花と話をつけろ。いいか。長くはもたないぞ」
「ええ? それって、駿河が駿河に接触するってこと?」
「そういうわけだな。悪いがあいつには、王子役を降りてもらう。代わりにお前が王子になれ」
駿河の荒唐無稽な作戦に、僕は思わず頭を抱えた。
「なんて無茶なことを」
「お前が一番無茶をしてるだろ。なんつったって、自分の命を懸けてるんだからな」
駿河の言葉に僕はハッとした。そうだ。僕はもう二度と、風花に会うことができなくなるんだ。僕が風花に自分の想いを伝えられるのは、これが最後になる。駿河の言った内容が上手く行くか分からないけど、どうやらやるしかなさそうだった。
舞台上から王子姿の駿河が帰って来た。当然、舞台袖で混乱しているクラスメイトたちは駿河をまじまじと見つめた。その視線に気付いた駿河は、「なんだよ」と気味悪そうに言った。それから目線を前にすると、駿河はそこに自分と全く同じ姿をした人間が居るのに気付いた。ひどく驚いた様子で口を開けている。
「だ、誰だよ、お前」
「……よう」
ジャージ姿の駿河は、ゆっくりと王子姿の駿河に近づくと、首元を掴んで一気に張り倒した。その後ろで、劇は着々と進行している。
突然のことに周りのみんなは騒然としている。誰も声を出さなかった。ただ、張り倒した衝撃で鳴った音に、舞台上に居る風花たちが一瞬こちらに視線を寄越したのが見えた。けれど、幸い舞台袖は暗がりにあるため、ここで行われていることは確認できなかったようだ。全員、すぐ演技に意識を移した。
一瞬何が起きたのか理解できていない様子だった駿河は、自分を押さえつけるもう一人の自分を睨んだ。
「何者なんだよ、てめえは」
「悪いな、俺。その王冠もらうぜ」
駿河はそう言うと、王子姿の駿河から王冠を奪って僕に投げた。僕は慌ててそれを拾い、反射的に自分の頭に被せてしまった。その様子を、夢の一部である駿河が睨みながら呻いた。
「どういうつもりだ、梵。こいつはお前の仕業か?」
「…………ごめん、駿河。もうすぐ、クライマックスが来ると思う。ここからは、僕に王子役を譲ってほしい」
「…………ふざけるな。叫ぶぞ。こんな状態で劇が続けられるか」
そう言って駿河が大きく息を吸うと、跨っていた駿河が口元を押さえた。口を押さえつけられた駿河は苦しそうに呻いた。おそらく、口元から手が離されたら舞台上にまで絶叫が響き渡るだろう。
振り返ると劇は佳境に入って、風花が毒リンゴを食べたせいで眠ってしまっているシーンに突入していた。周りに居る精霊役のクラスメイトたちが白雪姫の死を嘆いていた。そして、いよいよ王子が登場するシーンになった。
その様子をぼーっと眺めていると、背後から駿河が小さく叫んだ。
「何やってんだ! 王子はお前だろ!」
駿河の言葉にハッとした僕は、駿河に頷き、急いで舞台に上がった。すると、クラスメイトたちが驚いたように僕に視線を寄越した。客席も、王冠だけ被って後は制服姿の僕を不審に思ったらしい。観客の声がざわざわと波のようにうねった。
「どうして柊木くんが」
クラスメイトの一人がそう呟いたことで、それまで目を閉じていた風花が身体を起こした。そして僕の姿を確認すると、風花は目を見開いた。
「おい! 劇は中止だ! 梵が劇をぶち壊そうとしてる!」
舞台袖から駿河の叫び声がした。
「てめえ! 梵が王子だっつってんだろ! 客は黙って見てろっての!」
何やら揉め事が起きたらしいことに、観客はさらにざわついた。
「今の声って」
「あれ? 駿河くん二人居ない?」
「あ、本当だ! なんで?」
舞台上の演者たちも、舞台袖の様子を段々把握し始めた。風花も駿河が二人も居ることに気付いたらしい。そして、状況を呑み込めたらしい風花は、深く息を吸うと、舞台袖に向かって叫んだ。
「邪魔しないでよ! 言ったでしょ! 私は目覚める気なんてないの!」
突然白雪姫が絶叫したことで、体育館内に静寂が訪れた。先ほどまでの喧騒が嘘みたいに消えて、ほんの小さなヒソヒソ話さえ聞こえてこない。
風花は目に涙を溜めながら、駿河を睨んだ。駿河は覚悟が決まっていたのだろう。風花の視線から目を逸らすことはしなかった。
「風花」
僕が口を開くと、風花はぐちゃぐちゃになった感情をそのまま出力したような顔でこちらを振り返った。
「僕も風花に目覚めてほしいんだ」
僕が言うと、風花は表情を歪めた。そして、涙を流しながら言った。
「やっぱり、さっき約束したことは嘘だったんだ。嘘つき。嘘つき。嘘つき。嘘つき!」
「聞いてよ、風花」
「嫌だ! 聞きたくない!」
風花は子どものように拒絶して耳を塞いだ。僕はそんな風花に近づいて、風花の手首を掴んで耳から離させた。
「僕が王子様じゃ嫌?」
「……今そんな話してない! 劇がめちゃくちゃになっちゃってるんだよ!」
「風花」
「私の夢が、めちゃくちゃになっちゃった! 梵が居なくなるなんて嫌!」
「……風花」
「どうして? 梵、目覚めちゃったら消えちゃうんだよ? どうしてこんなことするの?」
「風花のことが好きだからだよ」
「……好きなら、何もしないでよ。ずっと、一緒に居てよ」
風花は力なく項垂れた。そんな風花を僕は抱きしめた。
「風花が目覚めないのは、ダメだよ。風花にはこれからがあるんだから」
「…………さっき、駿河と話してたよね。私を目覚めさせるように」
「……聞いてたんだ」
「でも、私は嫌なの! 梵ともう会えなくなるなんて、そんなの耐えられない」
「大丈夫。僕は夢の中で、また風花に会いに行くよ」
「……梵の居る夢は創れると思う。でも、そういうことじゃない。もう、現実では会えない。それに、この夢の梵とは、もう会えなくなる。今の梵は死んじゃうんだよ? いいの?」
風花は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった表情で僕に訊いた。僕は風花の顔を拭ってやりながら言った。
「もちろん、潔く良いとは言えない。でも、風花には未来がある。僕がその足枷になるわけにはいかない」
「……どうして梵はいつもそうなの?」
風花はとうとう大声で泣き始めた。何かに形容するまでもなく、子どもみたいに泣きじゃくった。僕は風花をあやしながら、舞台袖に居た駿河を呼んだ。駿河は驚いた様子だったけど、僕が頷くのを見て舞台に上がって来た。駿河が側まで来てから、僕は風花に言った。
「駿河に、我儘を言ったんだ。王子役を僕に譲ってほしいって。今更だけど、やっぱり、風花を誰にも渡したくなかったんだ。昨日、言っただろ? 返事はするって。今、ここで風花に対する僕の気持ちを伝えるね」
僕は風花に微笑んでから、全てを吐き出した。
「僕は風花を愛してる。本当は、付き合いたかった。来年、叶うことなら今度こそ風花と僕で劇の主演を務めたかった。一緒の大学を目指すために受験勉強したかった。同じ大学に通って、同棲したかった。デートだってしたかった。でも、それはまた別の夢の僕に託すことにするよ。
僕のことを気に掛けてくれてありがとう。また、一緒に居ようとしてくれてありがとう。僕が今も生きている世界を創り上げてくれてありがとう。そのおかげで僕は、風花に気持ちを伝えることができた。駿河とちゃんと話し合うことができた。悔いはない……って言ったら嘘になるけど。本当は、風花や駿河と会えなくなるのはめちゃくちゃ嫌だけど。でも、風花のおかげで、僕は色々なものを取り戻すことができた気がする。だけど、風花が目覚めないままじゃ、僕は安心して夢を見ることができないんだ」
一気に言い終えて、僕は風花の両頬に手を添えた。
「……ずるい」
「うん。ごめんね」
それから僕は、風花にキスをした。僕(おうじ)が居るという虚構の世界に囚われた風花(しらゆきひめ)が目覚められるように、今の僕ができる精一杯だった。
「大好きだよ、風花」
「……私も、大好き」
「どうか、幸せになってね」
僕は風花の額に自分の額を重ねた。風花は涙を流し続けている。僕は風花の頭を撫でた。その温かみがどんどん、感覚のないものになっていく。周りの景色から色が剥がれ落ち始め、この世界の消失が肌で感じられた。
「おはよう。風花」
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