猿の子

西川東

猿の子

 怖いというよりは、奇妙な部類になると思われる話。



 Hさんの小さい頃の思い出。


 日曜日ということもあって、家族みんなが家にいて、Hさんは自室に籠っていた。


 黙々とゲームをしていると、どこからか物音がする。それは意識しないと聞こえてこないほど微かなものだったが、規則正しい間隔でなんらかのリズムを刻んでいる。


(屋根に乗っかった鳥の足音だろう)と、気にしないでいたが、こういう些細な出来事ほど繰り返されると来るものがある。


 プレイしていたゲームを中断し、音の出所を探ってみる。部屋中を歩き回っていると、どうも天井からするようだった。新品の学習机に乗り上げ、天井の音がしてくる部分に向かって野球のボールを投げつけた。


「どん」と鈍い音が響くと同時に、鳥の足音のようなものがどんどん激しくなり、まるで自室の上全体を闊歩するかのごとく大きくなった。


 なんだ、なんだとHさんが慌てていると、その音は自室の上に留まらず、屋根の上全体を動き回り、「ばきっ」と、ひと際大きな音をたてた。そして、まるで雷が落ちるかのように、部屋のあらゆるものをなぎ倒す音が響き渡った。両親の寝室からだった。


 奇妙なことに、このときのHさんは恐怖心よりも好奇心が湧いた。音をたてないようにそっと扉を開けて両親の寝室に向かった。その間にも寝室からは「ぎしぎし」「がたがた」と、異様な音が漏れてきたそうだ。



 いったい、いま何が起きているのか。どくどくと鼓動を打つ自分の心臓を押さえるように寝室のドアノブを握りしめる。そのドアノブも、中からの音に合わせて振動していた・・・と記憶している。そしてゆっくり、ゆっくりと強張った腕で扉を開けた。


 ベッドの上には二匹の大きな猿が取っ組み合っていた。


 二匹がベッドのうえで体を揺らす度に、ベッドは軋み、ズレ動き、周りの物がガタガタと振動し、一部のものは倒れて転がっていた。


 その光景にHさんが唖然としていると、二匹の猿が同時にぴたっ・・・と動きを止めた。やけにつるつるとした体を、先の動きとは全く違う、いやにゆっくりと動かして、こちらに顔を向けた。


 二匹の異様な猿の姿があまりにも恐ろしくて泣き叫び、階段を駆け下りたところを、Hさんは両親になだめられた。彼のとりとめのない話を聞いた両親は、三人一緒で寝室に向かった。そこには綺麗に整頓された無人の空間が広がっていた。


「なんにも、いないじゃない」と親にいわれて、その話は終わりだった。




 その後数年間、Hさんはこの奇妙な体験をすっかり忘れていた。


 ただ、思い出すきっかけは必然だったそうだ。


 思春期となり、誰もがそういうこと・・・・・・に興味を持ち始めた初夏の頃。


 友人のひとりが、「ここだけの秘密なんだけど・・・」と、案内役となり、河川敷の橋の下に四、五人で向かった。お目当てはそこに放棄されている本だった。


 案内役が見つけたという、その草むらをかき分けると、雨ざらしになった雑誌が出てきた。表紙は多少ボロボロになっていたが、同級生とは全く異なる容姿で、言葉では表現できない感情を湧き起こすような、とても大胆な女性の姿の写真が大々的に載っていた。


 興奮する彼らは、「速く、速く」と案内役をせかすが、濡れた雑誌は丁重に開かないと〝おじゃん〟になってしまう。みんなが固唾を飲んで見守るなか、ようやくその中身が露になった。


 そこに載っていた男女のまぐわいをみた瞬間、Hさんはあのときの出来事をはっきりと思い出した。



 扉を開けた先、振動する部屋、蠢く二匹の猿。


 軋むベッド、絡み合う、やけにすべすべとした肉体。


 それが突如、動きを止め、ゆっくりと、まるで映画のコマ送りのように振り向く。


 目が覚めるほど真っ赤な顔、何を考えているのか分からない漆黒の目。


 そして、表情の分からない皺だらけの顔。


 あんなにおぞましかった光景を、なぜ、いままで忘れていたのか。


 いったん思い出すと、目の前の猥褻な写真がまるで〝猿のまぐわい〟にみえて気持ち悪かった。気づけば体中に鳥肌が立ち、居ても立ってもいられなくなったHさんは、適当に言い訳をして逃げ帰った。

 その道中で止まらない寒気から鳥肌の立つ自分の体をさすったとき、(あの猿の肌もこんな感じなのだろうか)と想像してしまい、その場で吐いてしまったそうだ。




 それから、あの〝まぐわい〟の光景を夢にみるようになった。


 舞台は両親の寝室に留まらず、家に帰って玄関を開けるとそこで・・・という夢もあった。しまいには、その二匹が自室の扉を開いて覗き込んでくる夢もみるようになった。


 いま思えば、その時期からHさんは家族との仲が悪くなっていった。


 夢のことが直接の原因ではない。両親と不仲になったというより、妹がいる実家が嫌いになった。というのも、そもそも妹とは初めから仲が悪かった。いつも自分のことをニヤついた顔で見つめているような気がして嫌だった。日頃から避けても避けても、家にいれば妹は「おにいちゃん、おにいちゃん」と子猫みたいに付きまとってくる。そして、おまけに眠れば、自宅を舞台にしたあの悪夢をみる。心安らぐ場所をなくしたHさんは高校進学から寮生活を始め、大学では一人暮らしとなり、実家とは完全に距離を置いていた。



 独り暮らしするなかでも、時折あの悪夢をみた。


 そして、ふと気づいたことがある。猿の〝まぐわい〟をみたすぐ後のこと。

 妹が出来たのは、ちょうどその頃だったではないかと。





 話はここで終わらない。


 大学に入ってしばらくした頃、Hさんの父が急逝した。


 あれほど嫌って、ろくに帰省しなかった実家といっても、この時ばかりはすぐに帰った。そして、親の死に目に合えないとは、なんて親不孝者なんだ・・・と後悔の念を背負いながら実家のインターホンを鳴らす。出迎えた母は、記憶のなかの姿はどこへやら。すっかり老けてしまっていた。


 気まずい空気が流れるなか、お互いに、どこかよそよそしい態度をとりながら居間まで通された。


「あ、お兄ちゃん」


 居間で出迎えたのは、額縁の中の父、そしてお腹が大きく膨らんだ妹だった。



 お腹を大事そうにさする、まだ高校生ほどの妹をみて、Hさんが言葉を失っている一方、彼女はその様子を気にもせず喋りだした。


「大丈夫よ。もうすぐ男の子が生まれるし」


 そして母親も


「妹ちゃんの子だけやのうて、あんたの孫もみたいねえ」


 これから肉親の通夜だというのに、笑顔で自分に語り掛けてきた。


 脳裏には、あの猿の〝まぐわい〟と、半分妹の姿をした猿の乱れる様子が再生された。


 そこにいる誰もが、額縁の中で微笑む父親すらも、もう猿にしかみえなくなった。





 だからHさんは、なにがあっても二度と帰省しないのだという。そして、


「・・・だから、君のことをそういう目・・・・・でみると、アレを思い出すから出来ないんだ・・・」


 肉体関係を必ず拒む理由を彼に聞いたとき、OLのSさんは、こんな話を聞かされた。




 性格もよく、容姿もタイプ。共通の趣味も持っている。そんなまさに理想の彼。


 しかし、その話をしてくれた彼を思い出すと、その容姿が、なぜか赤い顔をした大きな猿の姿で浮かび上がってくるようになった。


 それが原因か、いろいろなことが起こり、結局は別れることになったという。

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猿の子 西川東 @tosen_nishimoto

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