機械仕掛けの少年と

蒼崎林檎

第1話:遁走

「はぁはぁはぁ……!」


走る。

ただひたすらに少女は走る。

胸が痛い。息が詰まりそうだ。

追い越すごとに感じる冷たい空気とは裏腹に、爆発するのではないかと思えるほど、体内は熱と疲労を蓄積させていた。

もう1日中走り続けて息は絶え絶え、喉は潤いを求め喘いでいる。


「はぁはぁはぁ……、っもう‼」


ここは、大国ウェルガンから北に広がる樹海、<ガルドの森>。

無尽に生い茂る植物を尻目に、見上げるほどの大木がその辺一帯に生え渡る、まさに生態系の坩堝とも呼ぶべき異界である。

別名<知らずの森>とも呼ばれ、近隣の村々では代々忌避されてきた。曰く、立ち入れば最後、もう二度と陽の光を拝むことは叶わず、一生をそこに閉じ込めることになる、と。

しかしここに、話を聞いていなかった…………もとい、そんな言い伝えをものともしない少女が一人、絶体絶命の窮地に立たされていた。

その背丈は小柄で、黒い外套に顔を覆うほどの大きな帽子を身に着け、背中には矢筒と短弓を背負っている。まるで魔女と狩人が混じり合ったような不思議な格好をしていた。

土を蹴り上げ、木々を掻き分け、泥にまみれた必死の形相で走り回る赤髪の少女には、もはや元の可憐な容姿は見る影もなく、今はただ狙われた一匹の獲物と成り果てている。


「グッ…………!」


坂を駆け降りる途中、樹の根に足が引っ掛かり思わず転倒してしまう。魔女のような鍔広の帽子を手で押さえ、林の坂をゴロゴロと転げまわる。

しかしなんとか這いずり起き、外套が泥で汚れても少女は構わず走り続けた。

自分は何をやっているのだろうと、我にかえる暇もなく、樹海の中をただひたすらに遁走する。身体中の力をかき集めても、茹で上がる頭からどれだけ妙案を振り絞ろうとも、少女には「あれ」から逃れられる自信がどうにも湧かなかった。


<フェンガル>


産み落とす一つの卵に、二つの命を宿すといわれる二体一対の獣。

この森に君臨する生態系の頂点、喰う側の者。それが今まさに少女を捕食せんとし、ざらついた殺意を周囲に散らしていた。

白銀の体毛は矢を弾き、剣すらも通さない。ひし形に配列された四つの目玉からは、この森にいる限り逃れる術などない。研ぎ澄まされた黒い爪や牙、屈強な肉体は大木を易々と引き裂く膂力を誇り、掠りでもすれば致命傷は避けられないだろう。しかし何よりも厄介なのが「互いの意識を共有する」という能力まで持っていることだ。

生まれ出でたその時から、互いに命を預け合い、死して没するその一時まで生涯を共に寄り添い合うとされ、狩りをする際、まさに一心同体の如く予測もつかない連携を可能とする。

少女は鋭くも獰猛な眼差しが八つ、自分の背後に突き刺さっているのを肌で感じていた。常に斜め後ろで捕捉し続ける狩人は、狙った獲物を逃しはしないとばかりに猛追の足を止めない。


(なんで、こんなことに……!)


理由は簡単だった。

まず、何も考えずにこの<知らずの森>へ入って来てしまったことから話は始まる。

『運悪く』彼らの寝床であろう場所に侵入してしまい、これまた『運悪く』卵にぶつかりひびを入れ、またまた『運悪く』寝ているフェンガルの尻尾を思い切り踏みつけてしまったのだ。

そう『運が悪い』、ただそれだけの理由だった。


(ってそれ、ただおっちょこちょいなだけじゃ……)


自らのドジを嘆きながらも、魔女帽子をはためかせ逃走する。がしかし、それも限界が近づいていた。風になびく小枝のように足がブルブルと震えたのをはじめ、疲労による強烈な眩暈と吐き気に耐え切れず、とうとうガクリと膝から下へ崩れ落ちてしまった。


「はッはッはッ……、うっ……!」


(もうだめなのかな……、こんなところで私、死ぬのかな……?)

空も見えない虚空を仰ぎ、断頭台に並ぶ罪人のような薄ら寒い感覚に浸りながらも、まだ少女は、生きる希望を捨てきれずにいた。しかしそれも、次の瞬間絶望へと叩き落とされる。

ザッ!と背後から現れた二体の獣は、ただの獣と評価するにはあまりにも威風がありすぎた。おおよそ5メートル以上はあるだろう圧倒的な巨躯。腹の底から凍えるほどの、修羅のごとき形相。どれをとっても怪物としか形容し得ない生き物だった。

少女は、振り向いたことを今更ながらに後悔する。死、というイメージが目の前に鎮座し、よだれを垂らしてこちらを覗く様は、筆舌に尽くしがたいほど強烈である。


「嫌だ……まだ、私は死ねない、死にたくない!」


しかしそれを目の前にしても、尚もガタガタと震える足に力を入れ、少女は立ち上がろうとしていた。完全に弱っていたはずの獲物の、予想外な行動にフェンガルは少し驚いた様子を見せたが、すぐさま臨戦態勢に戻る。

森の狩人は慢心せず、ただ目の前の獲物を刈り取るのみ。それがどれほど矮小に見えようとも、挑んでくるのならば、彼らは一切の手を抜かず全力でもって喰い殺しにくるだろう。

今まさに、屹立せんとする少女へ致命的な一撃が振り下ろされる、その瞬間。


「…………⁉」


ガキィィィィン!!!!

と、突如目の前に『鉄の壁』が現れた。


「な、に?」


少女は一瞬の出来事に何が何だか分からず、目の前に反射して映る自分の姿をただ茫然と眺めているだけだった。数メートルはあるその壁は、少女とフェンガルたちを完全に分断していた。

鉄というよりは鏡に近いそれは、とてつもない金属音を響かせながら、フェンガルの爪撃を完全に防ぎ切る。そしてその直後。


「行け」

「え?」


全身を妙な鎧に包み込んだ得体のしれない人物が、何処からともなく現れた。かばうように背を向けながら、無感情な声で逃げるように促すその姿に少し気圧されるも辛うじて動ける口を動かし、少女は聞いた。


「あ、あなたは……?」

「答える暇はない、早く行け」


こちらには興味が無いというように、食い気味で応答する。


「あ……は、はい!」


妙に威圧感のある返答に、少女は反射的に従ってしまった。すぐさま立ち上がり、踵を返して走る。足を動かすたびに感じていた鈍い痛みは、逃げるプレッシャーに弾き出され、どこかに消えた。後ろでは、フェンガルがあの壁を突破しようと猛撃を続けているのだろう。ガリガリとした金属音が鳴り響いている。

少し訳が分からなかったが、あの人物が自分を救ってくれた、ということだけは彼女にも理解できた。しかし、だからこそ。


(本当に、これでいいの?)


このまま見捨ててしまえば、きっと自分だけは助かるだろう。しかし彼はどうなる?

二体の、それも歴戦の獣相手に単独での戦闘、いくらなんでも分が悪すぎる戦いだ。彼がどれほど手練れであろうと、生き残るには至難の業だろう。見捨ててしまえば、どうなるかぐらいは容易に想像がつく、だったら。


(助けなきゃ)


動く足を止め、一気に身を翻す。少女は背負っていた短弓を手に取り、矢筒から取り出した矢を構え、弦を一気に引き絞った。


(普通なら矢は当たらない、けど今なら!)


意識を硬化させ、鋭く研ぎ澄ましていく。

すると、弓矢全体が紅く発光し始めた。神秘的な雰囲気を纏いながらも鏃を中心に莫大なエネルギーが蓄えられ、異質な空気が収束されていく。


「⁉」


しかし、矢先の向こうに見えたのは、二体のフェンガルを余裕で相手取り、次々に繰り出される攻撃のほとんどをいなし続ける全身鎧の姿だった。

雨の様に襲う剛腕や大顎を紙一重で躱し、まるで悠長に観察でもしているかのように、彼はヒラヒラと舞い続けている。


「嘘、そんな、ありえない」


全身を覆う鎧を装備しながら曲芸師のように動けること自体ありえないが、そもそもあの獣たちを相手に、数刻でも相手取ることができるとは……!

そんなことができるのは手練れも手練れ、この辺りでいるかどうかも分からない程の猛者だけだろう。

信じられない光景を目の当たりにし、少女は驚愕で動きが止まる。が、それもつかの間だった。全身鎧の不意を突き、背後から飛び掛かろうとするもう一体のフェンガルの姿を、少女は見逃さなかった。


(……ッ、お願い、間に合ってッ!)


なけなしの勇気を掛け、渾身の一矢を解き放った。



刹那、視界が真白に爆ぜた。



「な……⁉」


何が起こったのか分からないまま、あまりの音と衝撃に少女は腰が砕ける。

少女は目を白黒させながらも、明滅する青白い世界の中で崩れ落ちるフェンガルをかすり、虚しく消えていく矢の姿だけは辛うじて見えていた。

しかしそれ以上は続かず、視界が混濁に揺れていく。すでに疲労の限界を超えていた少女は、今度こそ訳の分からぬままパタリと意識を失った。

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