第55話・白百合の知らえぬ恋は・7
「……私と晴朝様の関係は……そのような良きものではございません」
長い間を置いて、犬君はそう言った。
「でも」
言い返す龍田に微笑み、犬君は頭を下げる。
「ありがとうございます。これから弘徽殿の女御様と話をして参ります」
◇◇◇
「わたくし、謝らないわよ」
開口一番、弘徽殿の女御はそう言った。
「わたくし、褒めたもの。晴朝は綺麗だって。わたくし、悪いことなんて何も言ってないわ。悪いように解釈したのはあなたよ」
犬君は先程とは打って変わって落ち着き払った様子で座しながら言う。
「ええ、謝らずとも結構でございます。……しかし、」
犬君は目を伏せ、いろんなことを思い出しながら言葉を絞り出す。
「……美しければいいというものなのでしょうか」
ぽつりとした言葉に、弘徽殿は顔を上げた。
「美しかろうが醜かろうが、関係ございませぬ。髪の色が黒か白か。ただそれだけのことにございます」
弘徽殿の顔が曇る。犬君の顔からはもう、あの美しい怒りは消えている。とても穏やかで、それで「ああ、わたくしは何がなんでも許されていないのだ」と感じた。
「何が言いたいの?」
逃げを打つように拗ねた声を出す弘徽殿に、犬君は抑揚のない声でささやいた。
「蔑みたい人にとって美しさなどなんということはないのです。美しいと言って蔑む人はごまんとおります。弘徽殿の女御様にも心当たりがございましょう」
弘徽殿の女御の気の強そうな美貌を見て、他の殿舎の女房たちは彼女を恐れ、あるいは政敵の悪しき噂を目論んで、きっと源氏物語の弘徽殿の女御のような悪しき妃に違いないと囁き合うと言う。傷ついたことがないわけがない。
弘徽殿は首を振り、あきれたように言う。
「ないわ。例え本心ではわたくしを蔑み醜く思っているとしても、わたくしにその意図を汲んでやる必要があって?」
犬君は弘徽殿の表情を見つめるが、揺るぎがない。
弘徽殿は、はあ、とため息をつくと、脇息にもたれかかり、手に顔を突っ伏しながら投げやりに言った。
「……もう、この話は終わりよ、犬君。わたくしたち、きっと話が通じないもの。あなたはわたくしを許さないでいて。わたくしはわたくしを許してくれないし納得もいかないあなたに怒ったままでいる。それでいいわね?」
犬君は「ええ」とだけ、短く答えた。
「ところで弘徽殿の女御様。ひとつだけ、立ち入ったことをお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「なによ」
顔を伏せたままくぐもった声で
「女御様の初恋はずっと龍田中納言だったとおっしゃいましたね。その龍田を連れて入内することにためらいはなかったのですか?」
弘徽殿は何を言っているのだとばかりに目を細めて犬君を見る。
「あるわけないわ。わたくしは摂関家一番の勝ち馬よ」
それにーーと、弘徽殿は力強く顔を上げる。
「わたくしの誉れは龍田の誉れよ。わたくし、誓ったの。入内が決まったとき、誰よりも一番に、龍田に。『紅葉には望月よ。着いていらっしゃい龍田、あなたにこの世の望月を見せてあげる』と」
弘徽殿の瞳の中に強い光がほとばしる。
「ーーそれは、どんな殿方とするより固く深い契りだわ」
先程龍田が語ったのと同じ台詞に犬君の口元に笑みが浮かぶ。
「それが、お聞きしとうございました」
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