第29話・桐壺のクローズドサークル・2
「桐壺が穢れた殿舎ですって? 不敬にも程がありますわ。第一、ここに住んでいるわたくしたちが、そんな話聞いたことないんだけど」
第一なにかと論理論理という犬君の言うこととも思えない。穢れだなんて。まあ、そのほうが本来陰陽師らしいのだが。
「もちろんそんな不敬極まりないことは申しておりません。『穢れた』ではなく『穢れ』の発生の記録が多い殿舎だと申しているのです」
「どう違うっていうのよ」
弘徽殿は顔をしかめて早口にまくしたてる。
「いい? 桐壺って正式には淑景舎って言うの。淑景舎の庭にそれはとても立派な桐の木が植えられているから、別名・桐壺よ。桐はとてもおめでたい木だわ、生命力の象徴でも皇帝の象徴でもある。だから今はたまたま更衣が住んでいるだけで、史実では普通に身分が高くて愛されてる女御も住んでるし、いろんな行事の会場にも利用されているの。そもそも源氏物語の中でさえ、光源氏の娘が入内するのは桐壺なのよ。母・桐壺の更衣の悲劇は、娘・桐壺の女御――明石の上との間に生まれた姫君によって、光源氏最高の栄華の舞台に一変する。最奥だから冷遇された殿舎だと決まってるわけじゃない。そりゃあ大昔の記録を見れば結構事故続きだけど――」
そこまで一息に詰めよった弘徽殿の女御は、はたと言葉を止め、手を打つ。
「あ! 事故!」
そうして急に真顔になると、犬君の顔を見上げてうなずいた。
弘徽殿の納得に、犬君はおもむろにうなずく。
「その通りにございます」
死亡事故や遺体が発見されること、またはその原因となる事象は総じて「穢れ」だ。つまり犬君が探しているのは歴代の後宮の事故発生記録だったのだ。ようやく言わんとする意味を理解した弘徽殿は、ひとつの事件を思い出してぶるぶると身を震わせた。
「知ってるわよ、その怪死事件。かつて桐壺に住んでいた今をときめく女御がなんの御病気もなかったのに突然口から血があふれだして亡くなったのよね? 初めて栄花物語を読んだときはおそろしくておそろしくて、入内するなら桐壺には入りたくないと思ったものよ。それだってもちろん根拠のない忌避感ではあるんだけど。でもよくないって解ってはいても、ねえ、でも……」
弘徽殿はそう言って震える自分の肩を抱きしめた。
しかし犬君は一瞬きょとんとした後、「そんなことがあったのですか?」と真剣な顔で尋ねてくる。弘徽殿はガクッと脱力した。
知らないのか。では何を知らべていたというのだ。後宮で女御が血を吐いて原因不明の怪死を遂げるという前代未聞の猟奇事件を知らずして、これ以上のどんなおそろしい死穢があるというのだ、桐壺に。
「じゃあ何? 大昔の桐壺の倒壊事故で童が亡くなったとかそういう話のほう?」
弘徽殿があきれて言う別の大事故の話に、犬君はこれまた目を丸くする。
「……いや、そう言われてみれば桐壺だけ死亡事故がやたらと多すぎませんか……なぜそんな……怖……」
ドン引きした顔で言われて、弘徽殿は再びガクッと肩を落とす。てっきり「桐壺ってなぜか大事故が多いし、日本の後宮では珍しい暗殺事件かもしれない怪死まであるの、恐ろしいですよね」とか、その幽霊がどうとか、ですからお祓いが必要ですとか、そういう話をしたかったのだと思っていたのに何を言っているんだこの陰陽師は。
「いえ、ですから、これは本当に桐壺が穢れているだとか呪われているだとか幽霊が出るとか、そういう類の話ではないのです」
困ったように眉をひそめて犬君が言った。
そうして懐からおもむろに形代を取り出すと、何か小さく唱えて本の山に放つ。白い紙片の群れは迷わず本をめくり、それぞれ別の紙の間に収まった。しんと落ち着いてから犬君は、一冊の本を取り、形代の挟まったところに記述されている一節を読み始める。
「『昨日、淑景舎に犬の死穢有り。』ーー次、『犬、去ぬる八日、淑景舎に死ぬこと有りと云々』……なるほど、犬がいぬる八日にーとはなかなか語感が好い」
弘徽殿は額を押さえてため息をついた。しかも犬が去ぬる日に逝ぬという寒い駄洒落を発見して感心している張本人の名前は犬君なのだ。頭が痛い。
「寒いことを言わないで!」
犬君は構わず本を替えては形代の指し示す箇所を読み続けるが、なかなか大事件の出てくる気配はない。弘徽殿が額を押さえた。
「それよりねえ、なんか……なんなの! 事故というには地味すぎるんだけど! なんでずっと動物が死んだ話ばかりしてるのよ」
困惑したように弘徽殿が言った。いかに清浄と安全が求められる内裏といえど、外界から完全に隔絶できるわけでない以上、ごみのような遺体が紛れ込むことはある。ちょっとした隙間から小動物が入り込むこともあるし、鳥が空から落としていく場合もある。動物の遺体で穢れに触れてしまうのはいわば不可抗力の事故だ。
「ええそうです。私が気になっていたのはそういう小さな日常の不祥事――たとえば、遺体の発見――それも宮中の人間ではなく犬などの自然発生的な死体への接触で行事の進行が滞った、というごく日常的な穢れの記録でございます。そうして桐壺こと淑景舎には他の殿舎よりもその記録が多くございました」
犬君の目が話しながらどんどん輝いていくのを見た弘徽殿が信じられないというように首を振る。たかだか犬の遺体の一部が発見されるのは、前代未聞の猟奇事件よりも楽しい話なのか。
「……ねえ、そういう地味な記録探し出しててそんなに楽しいの?」
弘徽殿の言葉に犬君はにっこりと「はい! 職業病でございますね」と答える。直後、弘徽殿の女御が完全に奇異なものを見るような目になった。犬君はすぐに言い直す。
「あ! 個人的にはもちろん興味深うございます。が――第一には、今回の事件の謎解きに関係するから地固めをしているのでございます。趣味だけで楽しく調べているわけではーーですので、まあ退屈な話にはなりますけれど、よろしければ少しの間お聞きいただけますか?」
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