第28話・桐壺のクローズドサークル・1
「整理するわよ。後宮七殿五舎はすべて回廊で繋がっている。ゆえに後宮最奥にある桐壺の動向は他の殿舎から筒抜けになり、桐壺から人や物が動けば必ず他の女御更衣に見られることになる。源氏物語ではこの構造のために桐壺の更衣は常に監視の目にさらされ、ついにはいじめ殺されてしまう――桐壺はあまたさぶらひける女御更衣の嫉妬のまなざしによる密室というわけね」
言いながら犬君の前に座り、弘徽殿の女御は自嘲気味に微笑む。
「わたくしはどちらかといえば帝に嫉妬しているけれど」
桐壺の更衣に恋をしている弘徽殿の女御は、弘徽殿の前の廊下を桐壺が渡るそのときをただひとつの生きる楽しみとして心待ちにしているのだ。愛する人の姿を垣間見られるわずかな機会を。それはけなげな好意であるからこそ憎悪にまさる強固な監視となる。
犬君は弘徽殿の女御の複雑な心境にあえて言及しないように冷淡に答えた。
「愛情でも憎悪であっても、結果としては同じことにございます」
そうして紙を引きよせて地図を描きながら殿舎の配置を確認する。
「清涼殿を出て弘徽殿→麗景殿→梨壺→桐壺で突き当り。桐壺から出発して梨壺、または現在空室の宣耀殿を経由して逆方向の廊下を回ったとしても、最終的には弘徽殿の前ですべての廊下は合流する。清涼殿から別の廊下で繋がれた藤壺→梅壺以外の殿舎はすべて、後宮の外へ出るには必ず弘徽殿を経由する必要があるのです。そうですね?」
ざっと地図を描き上げて、犬君は筆の背で弘徽殿の前の廊下をとんと叩く。
「ですので、後宮七殿五舎とは、女御更衣たちの相互監視によって構築された巨大な密室ということになります。この中で、秘密裏に何かを行うことは思うより容易いことではありません。源氏物語桐壺巻のように集団で手を組んでひとりの女性をいじめ殺すということならできましょうが、ひとりの女性がその他全員を
「そうよ」
弘徽殿は自信満々に胸を張って答える。
「だからわたくし、最初から言ったでしょ。桐壺は無実だって」
しかし犬君の無表情は変わらない。
「期待に添えず申し訳ございませぬ。私の見解は逆でございます。なればこそ、桐壺様が一番疑わしい」
は?とまなじりを吊り上げる弘徽殿の前で、犬君はとん、と地図の上の桐壺を叩く。それから弘徽殿の前の廊下まで指をすべらせた。
「なぜなら、通ったのか通らないのか、弘徽殿が把握していないわけはないからです。あなた様は桐壺から人が動いた日を克明に覚えておられるのでしょう? さして興味のない他の殿舎――例えば麗景殿でさえあなた様は女御の役目としてそれぞれの御渡りの間隔を詳しく把握しておられた。いわんや愛する桐壺をや。あなた様は桐壺の無罪を信じて私めのもとを訪れたのではない。逆に疑わしい心当たりがあったからこそ発見者の私を手許に置きたがったのです。……さて、お尋ねしましょう。女童たちの遺体が発見された七月二日、それより前に桐壺が動いた日はいつにございますか?」
「…………」
弘徽殿のくちびるがきゅっと引き結ばれる。それを見た犬君は静かに問いかけた。
「あなた様もきっと本心では桐壺が一番疑わしいと思っておられるはずです。そしておそらく――遺体が発見された前夜に、桐壺は女官や童を伴って弘徽殿の廊下を通過したのですね? だから、それを目撃したあなた様は冷静ではいられなかった」
「……おまえは何を疑っているの?」
不快そうにくぐもった声で弘徽殿が言う。
「帝から召されたふりをして後宮を出て? そうしてどうするというの? 呼ばれてもいないのに清涼殿に行くと嘘をついて殿舎を出たならとんでもないことだわ。呼ばれたのにそれを利用して後宮を出て遺体を処理した後、帝に逢わずにすっぽかして帰ってきたとしたら、それこそどうなると思って? あなたがそんなありえない推理をするとは思ってなかったわ」
「……承知です」
犬君は言って目を伏せる。そんなことをするくらいなら正直に童たちを死なせたと申し出たほうがいい。下々の従者の命は、後宮の役目よりも軽いのだ。それは犬君が一番よく知っている。
「ねえ、それより、昼間に移動させた可能性だって考えられてよ」
弘徽殿の常識的な回答に犬君は「ええ」とうなずき、そして間をおいてから首を振る。
「私も最初はそう思っておりました。ゆえにここに来るまでは、桐壺から外へ出ることがこれほど困難だとは思っていなかったのです。――ところがですね、昼間も弘徽殿は人の行き来を監視しているのです。梨壺様の来訪を注意するために」
「あ」と小さく言って弘徽殿が黙った。その目の前でゆっくりと立ち上がり、犬君が言う。
「あなたが把握しておられないのならば、私が女官たちに直接聞いてまいります。中には日記をつけている者もございましょう」
犬君の袖をつかみ、弘徽殿が鋭く言った。
「待って」
引き留めてはみたものの継ぐ言葉が思いつかない弘徽殿は顔をうつむけ、視線をさまよわせる。そうしてふと犬君の横に積まれた本と目が合った。「そういえば」と弘徽殿が言う。
「面白い物語はたくさんあるのに、どうしてまた日記なんて?」
それは弘徽殿がかき集めて貸し出した藤原家の日記だ。
「一応確かめたいことがあったものですから」
「確かめたいこと?」
弘徽殿が首を傾げる。
ええ、とうなずいて犬君は日記のひとつを手に取る。
「桐壺は触穢の多い殿舎だということを、です」
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