第25話・歌枕の浅き夢(ディビジョン・ラップバトル)・12

 犬君の指摘に、「そうなのよ!」と弘徽殿がうなずく。

「左大臣は遣り手だけど、娘に恵まれないのよね。だから召人めしうどに産ませた娘をせっせと養女にしてはいるのだけど、当然母の身分が低ければ更衣にしかなれないし、それまでのお育ちが良いとも限らないし……」

 言いながら弘徽殿の手はひとつの貝を取る。内側には少年姿の光源氏が描かれている。光源氏の出生譚・桐壺巻からの一場面。つまり桐壺の札だ。

「つまり桐壺の更衣は左大臣様の妾腹の子でいらっしゃると?」

「そ。桐壺の更衣の実のお母さまは藤原家で働いていた中流貴族の娘なの」

 「召人」とは本来従者の意味ではあるが、女の使用人へのお手付きが多いことから転じて俗に「愛人」の意味となる。

「正式の妻の子ではない――けれど、それはわたくしたち摂関家の理屈よ。摂関家の子であることを明らかにしなければならないわたくしたちがわたくしの都合で父親を基準に考えているだけだわ。中流以下の貴族や庶民にとって、三日寝食を共にすればそれは正式な夫だし、生まれてきた子はその女の家の正統な嫡子よ。世の中の主流は妻問婚なんだから」

「あなた様も摂関家のご令嬢なのに随分と辛辣ではありませんか」

 犬君が口角を上げると、弘徽殿も不敵に笑った。

「まあね。左大臣家は政敵ですもの」

 そうして「桐壺の更衣」を示す手札が左側に置かれる。

「というわけで正妻の子以外は女側の家系の子として育てられることが多かったんだけど、最近はそれをさらに正妻の養子として迎え入れて入内の駒にする場合もあるの。女子に恵まれなくて焦った左大臣の伯父さまは、母方の家で大切に育てられていた桐壺を引き取って養女にしたわ。他にもそういう娘はいたみたいだけど、誰も桐壺ほどは美しくしとやかではなかった。……でもね、母の身分が低い桐壺はどんなに美しくて品があって帝の覚えがめでたくても、しょせん更衣にしかなれないのよ。男子が産まれても原則として臣籍に下る更衣にしか、ね」

 言いながら弘徽殿はもうひとつ、左側に貝殻を置く。

「そこでやっと生まれたのが鞠子きくこ様ってわけ。母はさきの斎宮様――つまり皇女から選ばれる巫女で身分はこの上なし」

 貝殻の絵柄は、秋好中宮のために舞う華やかな童たち。

「それは強敵ですね」

 犬君は微笑って首を傾げる。

「その中宮様にお優しい理由は何でしょう?」

 弘徽殿は貝殻の内側に置かれた童を見つめる。

「確かにね。左大臣の正妻の子、それも母は降嫁した皇女とあらば、当然今存在する藤原家の娘の中で一番身分が高いから中宮にせざるを得ないのよ――ただし当分、鞠子に夜のお召しは無いわ」

 夜のお召しはない? 犬君は眉をよせる。それが目的で入内してきているのにそれはどういうことなのか。

「それはまた……どうしたことで?」

「警戒しているから。それだけよ」

 弘徽殿は声をひそめて答えた。

「警戒……ですか」

「まあ、単純に好みの問題かもしれないけど、それよりは警戒ね。仏教では、幼女を犯した者は酷い地獄に堕ちるというのでしょう?」

 そう聞いて、犬君はしばらく何かを考えてから「なるほど」とうなずく。

 大人になるということは裳着を済ませるということだ。成人女性の装いに服を変える、それが成人の証となる。裳着に特段定められた年齢はないので、初潮を迎えた後しばらくして結婚させる準備ができたときに儀式を行う。そうすると大人の女として縁談がやってくる。藤原摂関家であれば入内という話にもなる。

 ところが鞠子の場合は初潮を迎えているのかも怪しい。だから帝のほうも警戒していて、昼の雛遊びや管弦の練習にはこまめに通うが、夜の御殿おとどへのお召しは一度もない。

「しかし左大臣様はなぜそのような幼い娘に裳着を?」

 釈然としない犬君が言うと、弘徽殿が肩をすくめた。

「言ったでしょ、焦っておいでなのよ、いろいろとね。初めて愛する正妻に生まれた可愛い女の子だもの」

 そうして少しうつむいた顔で挑発的に笑った。

「だからね、わたくしはせいぜい鞠子を甘やかして、お友達になっていただくの……そう、まだ何も知らないうちにね」

それはぞっとする覚悟が籠った凄絶な表情だった。

「何のために皇后と序列の変わらない中宮位があるとお思い? 派閥の両方から横並びの正妃を迎えて公平を保つためよ。左大臣家から中宮を迎えたならば、皇后は右大臣家。つまりわたくしよ。男子のひとりでも産めばもう間違いないわ。さらに次善策として鞠子は今のうちにしっかりと懐柔しておくべきよ。たとえわたくしが皇后にはなれなくても決して逆らえないように」




 音楽の景麗殿。絵の梅壺。今上帝ではなく弟の東宮に仕える妃ではあるが文学なら梨壺が強い。政治を執り行う清涼殿に最も近い弘徽殿では見目麗しく社交性の高い女官をそろえ、主は漢籍も諳んじる才媛。最奥の桐壺にはいかにも薄幸の美女めいた更衣がひっそりと住まう。最も身分の高いはずの中宮はまだ手も触れぬ幼女で、まだ御子の誕生しない後宮では妹のように愛されている。

 なるほど、この後宮は奇跡のようなバランスで成り立っている。


 そんなことを考えていると、突然、廊下からけたたましい足音が聞こえてきた。

 許可もそこそこに入ってきた女官が弘徽殿の女御の前にひざまずき、扇で顔を隠しながら耳打ちする。

「女御様、弘徽殿の廊下に梨壺様が……!」

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