第24話・歌枕の浅き夢(ディビジョン・ラップバトル)・11

 貝合わせは簡単に言えば神経衰弱のような遊びである。二枚貝の両方に一対の絵が描かれており、遊ぶ時にはそれをバラバラに並べて裏返し、同じ絵柄の貝を当てる。

 弘徽殿は犬君の前に赤い布を敷きながら言う。

「犬君、あなたはわたくしが梨壺を嫌いなのは私怨だというけど、私怨じゃなければいがみあってもいい妃がいるとでも思っているの?」

 犬君は興味を惹かれて、漆器の中のつややかな貝殻のひとつを手に取ってみる。女性の手のひらほどの大きさしかない貝殻の内面に描かれた絵の精緻さに感嘆を漏らす。貝殻の内側には調度品の細部や顔の表情までつけた人物の姿が描かれ、その小さな絵には胡粉で起伏がつけられている。衣服には鮮やかな色彩、背景には金泥が輝く。

「それはそうでしょう。後宮なのですから権力と寵愛を賭けて競うのが筋では?」

 そっと貝を戻しながら答えると、弘徽殿は「ハッ」と笑った。

「これだから男は」

 吐き捨てるように言われて犬君は眉根をよせる。

「それに、どうしても皇后の椅子取りの話がしたいんなら、関係なくはなくってよ」

 そう言って弘徽殿は興味なさそうに貝桶の中を探り始める。

「いい? 覚えておいて、犬君。後宮ここは男たちが思うほど単純な嫉妬や出世欲では動いていないの。言ったわよね、――わたくしの腹にかかっているのはわたくし個人の欲にはあらず、一族すべての命運だと」

 さて、と弘徽殿はひとつの貝を取る。描かれているのは華やかな女房たちを引き連れた弘徽殿の女御の姿だ。

「藤原家とひとくちに言っても派閥は複雑よ。もはや蹴落とす家は蹴落として、藤原家の身内で争い続けてる。――その、さらに身内の話になるんだけど、わたくしのお父様と右大臣の叔父さまがバチバチに争っているのが今の政況ね。……さて、そこで後宮にもふたつの派閥が存在します。お父様の送り込んだわたくしたちとそれに仕える右大臣派の女官達。それに対するは叔父さまの送り込んだ中宮と更衣とそれに仕える女官達」

 弘徽殿のしなやかな指が、美しい金箔を施した貝殻を右側に置く。先程の弘徽殿の女御の柄だ。

「ものすごく単純に言うと、今、政治の世界は右大臣派と左大臣派に分かれて争っています。右大臣はわたくしの父親で、左大臣はその兄。わたくしたちの仕事は、右大臣『派』から皇嗣になる御子を出すことなの」

「それはまた……ものすごく単純な話になりましたね……」

「それはそうよ。庶民に複雑な人間関係と固有名を話しても覚えきれて?」

 犬君はむっとした顔で弘徽殿を見るが、どうせ全員が藤原家の泥沼事情など知りたくもないので言うのをやめた。

「……つまり……自分が一手に寵愛を受けることだけが勝ちではないと……そういうことにございましょうか」

 犬君の確認に、弘徽殿は大きくうなずいて手の内で貝殻をもてあそぶ。

「ま、わたくしが産めたらそれが一番安泰に決まっているけどね。長く後宮にいればああもうこれは駄目ねって思うこともあるでしょう? ……でもそういうときは同じ派閥の妃候補を支持して国母に推すことだってできるわ。大事なのは結果として父上や兄上の出世の後押しになること。……たとえば麗景殿だって、あきらめが良くて一日のんびりご趣味の音楽を極めているわけではないのよ。寵愛争いに乗らないなら乗らないで補佐すべきことがある。寵愛争いは集団戦なの」

 弘徽殿は誇らしげに言いながらもうひとつ貝を取り、それを右側に自分の札と並べて置いた。

「ま、そういうこと考えたら、いたずらに他の后妃と張り合って喧嘩するのは得策ではないと思わない? もちろん右大臣の娘があの程度ならわたくしだってとナメられない努力は大事よ。わたくしがこの程度だと思われたらそれこそ後宮は秩序が崩れて嫉妬と闘争の嵐になるの。だからわたくしは精一杯美しくし頭のいい女房たちを並べて解らせるのよ――弘徽殿には誰もかなわないと。第一妃候補の弘徽殿に誰もかなわないと思わせることは長い目で見れば皆の幸せよ。そのうえで、わたくし自身は他の妃・女官たちに礼節を尽くすし、弘徽殿の女官達にはいたずらに他の殿舎を貶めさせない。そのほうが余裕の見せつけにもなるしね」

 弘徽殿の札に並んで置かれた貝殻、その内側の柄は、妹の花散里と楽しく語らう麗景殿の女御だ。

「あ、説明し忘れてたわね。麗景殿の女御さまはわたくしと年の離れたいとこ。だから右大臣派。帝の初めてのお相手として推挙された方だから、最近は月に一度、義務のような御渡りがある以外はずっと……年が離れているのを気にされてずっとお部屋で琴を奏でていらっしゃることが多いけど……とても優しくお洒落な方なのよ」

 弘徽殿はため息をつきながら言って、さらに二枚の貝殻を右側に置く。

「あとは梅壺の更衣と、尚侍ないしのかみとして仕えている従妹いとこがいるわ。尚侍は女官長みたいなものね。必ずしも寝所にはべらない純粋な女官としては最高の位よ。この人たちも右大臣派」

「必ずしも……」

 ということは手がつくこともあるのだろうなという微妙な言い方だ。邪推はひとまず頭から追い払っておいて、犬君は言った。


「……右側にしか手札が並んでいないようにお見受けしますが?」

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