第21話・歌枕の浅き夢(ディヴィジョン・ラップバトル)(8)
目を覚ますと御簾の中だった。その簾の隙間からきらめく川が見えている。水辺りの小さな邸宅という設定らしい。しかしそのきらめきは夜の水面のそれではなく、まるで積もる雪が光を照り返してほのかに明るい月夜のようだ。
「天の川、か……」
足音が聞こえる。はっとして顔を上げる。機織りの途中で眠ってしまったらしい。横糸を通すための
そうだ。織女だ。自分は今、織女という設定なのだった。
顔を上げると廊下と部屋を隔てる御簾の向こうに人影が見える。人影は冠をかぶり、
さあ、歌をーー身構えた瞬間、その人影はためらわずに御簾を開けて入ってくる。どうも様子がおかしい。
男が妻の家に通う妻問婚において、家の主は女のほうである。まず御簾越しに互いの想いを問わないのは無粋であろうし、ましてやこれは歌を詠み合うことが目的のごっこ遊びなのだ。なぜいきなり間仕切りを突破してくるのか意味がわからなかった。何か意図があるのか、冗談めかしてはいるが本気で怒っているのか、……さらに恐ろしい可能性がある。皇女の女三宮には普通の貴族の婚姻の常識が通じないーーその上、色男めいた風貌と身分が相まって女性から拒まれることをまったく想像していない、という可能性。
まずい。
どこまでやる気かは知らないが、万が一に身体に触れられる可能性も危惧したほうがいい。余興だと言ったのが嘘だとは思わないが、あの手の人間は余興ほどやりすぎる。何にしても別に御簾越しの相聞歌のやり取りで良いはずで、いきなり距離を詰めてくるのはやりすぎだ。
貴族の邸宅は基本的に、外付けの廊下に囲まれた一枚の巨大な広間である。それを細かな用途や動線に合わせて御簾や几帳で仕切っていく。屋内の大部分が間仕切り家具で仕切られている寝殿の中で、壁と戸のある個室はその中央にある「
犬君は弾かれたように走った。辺りを仕切る几帳に何度も裳裾を引っ掛けて倒しそうになりながらもなんとか擦り抜けて塗籠へと駆け込む。
そうしてようやくたどり着くと、汗ばんだ手で木戸を引き、後ろ手で押さえながらようやく息を吐いた。
梨壺は男の姿だ。しかし実体の彼は確かに女性だった。ならばこの空間での性別を規定するのは確かに歌に詠み込まれる言葉だけ。「牽牛」にもかかわらず牛飼いの解像度が低く、いかにも色男の官人の姿をしているのもきっとそのせいだろう。
だとしたら自分も梨壺が新入りの「女房」と思い込んでいる以上、今は女の姿なのかもしれないーーが。
確証が無いのだ。片手で胸を押さえてみるが、幾重にも重なった服の上からでは身体の線が判らない。
ここは、歌に詠まれた言葉、そこから喚起される想像だけが、視覚のすべてを規定する拡張幻実だ。しかし万が一そうでなかったら? 男の身体のままであったら? 男の身体に触れられたらーーどうする?
目立たないように壁に隠れて印を結ぼうとしたそのとき、壁の向こうから御簾を上げ几帳を押し退ける荒々しい物音が聞こえてくる。
「威勢がいい割には随分と恥じらう。あまり煽るものではないよ、新入りの織姫」
殺気しか感じない物音の後から、衣擦れの音と微かな笑い声が、ゆっくりと近づいてきた。
「君が詠まないのならこちらから行くぞ」
言いながら「牽牛」が塗籠の木戸に手をかけると戸ががたんと揺れた。信じられない力だ。犬君は舌打ちしながら、戸に向き直って両手で押さえ直す。それでも塗籠をこじ開けようとする力の強さに、ついに犬君は印を結ぶのをあきらめ、全力で体重をかけた。
陰陽術で直接干渉することができないなら仕方ない。弘徽殿の女御には大口を叩いて申し訳ないが、折句で強制的にこの試合を終わらせる。折句で「うらかへせ」とでも詠めば幻術の彼我が逆転して強制終了させることができるのだろう。棄権でも、立場が危険にさらされるよりはマシだ。
「浮舟の……」
ようやく詠み出しかけたそのとき、ガンッとひときわ強い衝撃が背中を打つ。犬君は振り向き、その光景に怖気が走る。ようやく詠み出せそうだった歌もこの一瞬に忘れ去ってしまった。
塗籠に亀裂が走っていたのだ。
馬鹿な。いくら今は男の姿だとはいえ――いや、男だとしても。どこの世界に、塗籠を素手で殴り壊せる皇族がいるというのだ。おそるおそる壁を見上げた犬君の額に冷や汗が伝った。
ささやく声と共に、塗籠の漆喰が剥がれ落ちた。袖に、肩に、崩れた土壁のかけらがばらばらとこぼれ落ちる。
「死ぬ……」
心から焦ったかすれ声が漏れた。
試してみようか、ではない。こちらが死ぬ。殺される。
壊れた壁の隙間から覗き見える梨壺の笑顔に、返歌を詠みかけた犬君の声がひきつる。
「……おそろしき人に、恋ひわたるかも……」
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