第20話・歌枕の浅き夢(ディヴィジョン・ラップバトル)(7)

「笑わせるわ。こともあろうに文学の梨壺なしつぼが、女性の漢学を否定しなさる」

 笑い終えてすっと真顔になった弘徽殿の皮肉に、犬君ははたと思い当たった。

「もしかして、女性は漢文を学ばないしきたりでもございましたか」

 犬君が声をひそめてささやくと、弘徽殿は聞こえよがしに少し声量を上げて答えた。

「まあねー。でも弘徽殿では女子の漢学を推奨していてよ。どんどんおやりなさい」

 そうして改めて梨壺に面した几帳に向き直り、胸を張る。

「女と言えど女御の位は従三位。漢籍くらいたしなまなくていかがいたします?」

 あきらかに几帳の向こうを挑発しに行く弘徽殿の言葉に、梨壺はふっと笑った。

「たしなむのとひけらかすのとは違うよ、弘徽殿」

 そうして閉じた扇を振ってあきれ声でからかった。

「だいたいキミは漢籍を学ぶより先にやるべきことがあるだろ? 例えばーー和歌とか」

 弘徽殿が口をあんぐりと開け、それから叫んだ。

「勉強は! しましたわ!! でもできなかったの!!! 向いてないんだから仕方ないでしょ!」

 梨壺はその様子を見て愉快そうに笑うと、犬君のほうに視線を向けて優し気な声で言う。

「とはいえ――そこの新入りくんはたいしたものだ。がさつで横暴な弘徽殿に愛想を尽かしたらいつでもボクを頼っておいで」

「まあああああ!!?」

 再び弘徽殿の絶叫が上がった。

「あのねえ! そんなに漢文がはしたないとおっしゃるのでしたら、あなたのそのあざとい一人称はなんなんですの!?」

 そういえば「僕」は本来、漢文において身分の高くない男子が使う一人称だ。弘徽殿の指摘に、梨壺はふふんと笑って髪をかき上げる。

「いいだろ? 本当はやつがれとでも訳すべきなんだろうが、ジジ臭いからな。そのまま中国読みでボクと名乗ることにした。可愛いだろう? 弘徽殿も遠慮なく使い給え」

 「ハッ!」という音が聞こえるほど、弘徽殿は露骨に鼻で笑った。

「笑わせるわ。宮様が『僕』ですって!? 随分と謙虚でいらっしゃいますこと!」

 いきなり険悪なふたりに挟まれて犬君の眉をよる。

「おそれながら女三宮様……」

 几帳の向こうの人はそっけなく言った。

「梨壺でいい。ボクは女三宮と呼ばれるのが死ぬほど嫌いだ」

 そうしてふと面白いことを思いついたように悪戯っぽく犬君にささやく。

「まあ、面白い女は嫌いじゃない。キミ、一度、ボクと詠み合え。ボクが牽牛でキミが織女だ」

 しつこく犬君をからかってくる梨壺に、弘徽殿は眉をひそめる。

「何をおっしゃってるの、女同士ですわよ。しかもあなたは東宮妃でいらっしゃるのに」

 弘徽殿がいきなり犬君を向こうへ押しやる。部屋に帰れと命じられて、かばわれたのだと気づいた。

 すると梨壺はますます弘徽殿の嫌がる様子を面白がって言う。

「はは、常識のないことをのたまい給うなよ弘徽殿。歌合せは古来より、同性同士だって皇后だって無礼講で恋文を交わす。もちろん余興としての恋人ごっこだがね」

 見てごらんと言われて御簾に映し出された映像を見れば、品のいい藤色の濃淡の五衣に鮮やかな翠色の唐衣を重ねた華奢な少女が、金髪の蔵人と穏やかに相聞歌を交わしている。うつむき気味に扇で顔を隠し、かぼそい手で筆を執る。ふだん人前に出ないだろうおとなしい少女の手は緊張に震えていて、うっかり紙の端に墨をこぼしてしまう。


おだまきに愛しさをいとしかくれば紡いで巻けば夕星に夕星に

綾目もわかぬ大人になれぬはたおりぞなくきりぎりす鳴く


 少し浮世離れした不思議な歌風。髪はまっすぐでさやかな烏羽玉むばたまの黒。犬君が固く閉じ込めた夜ならば、彼女の烏羽玉の髪は夢みて微睡む夜に見る藍色の薄闇だ。その姿を見たとき、説明されなくとも犬君には誰だか判っていた。紫のゆかり、光源氏の恋の遍歴の最も元凶の母――後宮のすべての女に呪われて死んでしまう儚い寵姫――と同じ殿舎を与えられた当代の「桐壺きりつぼの更衣」。はかなげな美貌が文字から現実にあらわれたような、それは弘徽殿の女御がうっとりと語る桐壺の更衣の姿そのままだったから。


「えっ、それならわたくしも桐壺と歌を交わしたかった!」

 弘徽殿が思わず悔しがる姿で、それは確信になる。

「君はやめておけ」

 梨壺は冷たくツッコむと、犬君のほうに視線を移す。そして再びご機嫌な声を作って挑発するように言った。

「というわけでどうだ? 新入り君」

 弘徽殿は不安そうに犬君の表情を見る。あんなに人前に出たくないと言っていた犬君なら自分に構わずに断ってくれるだろう。そうしてくれと願って。

 しかし犬君には逃げるつもりはなかった。

 弘徽殿の女御から梨壺との間を隔てる几帳に視線を移し、犬君が床に手をつく。

「謹んでお受けします」

「どうして!?」

 叫ぶ弘徽殿に、犬君は淡々と答える。

「弘徽殿の女御様。今、私の主はあなた様でございます。あなた様が侮辱されているのなら女官の私が退くわけにはいかない」

 さらりと床に流れる烏羽玉の黒髪を見、梨壺が扇の内側で口角を上げた。

「いい返事だ。朝まで泣かせてやる」

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