第6話・弘徽殿の悪役令嬢(3)

「お前、明日からわたくしに出仕なさい」

 弘徽殿こきでんの女御の言葉に、その犬神人いぬじにんは茫然としていた。

「……いえ、私が女装をして宮仕えをするのはあまりに無謀……蛮勇を超えて命知らずとしか申せぬ蛮行かと存じまする……」


 犬神人とは、穢れを忌避する公的な神祇官の代わりに特殊清掃を行う下級神官のことである。犬のような神人だから犬神人。神人つまり神官でありながら僧形なのは、彼らの仕える社が神仏習合さらには主祭神が異国の荒ぶる神だからだ。

 疫神を祀る神社に仕えて遺体処理や鳴弦の祓えを専門に行う賤民だが、犬君いぬきという者にはその領分を超えるまじないの力があった。日頃遺体を弔っているうちに得た知識で奇怪な事件の数々を解決し疫神が都に入るのを食い止めたので、誰かが面白半分にこれを稚児にして漢籍と陰陽道の手ほどきをすると、彼はまるで砂が水を吸い込むように学んだという。貴族の間でも民間の陰陽師として彼を重用し、あるいは畏れる者はいるが、女御がそのような者を内裏に上げるわけにはいかない。そんなことをしては公的に陰陽道の専門家として仕えている土御門つちみかどの顔が立たなくなる。

 そこでちょうど熱を出した女房がいたのをいいことに大事を取って里下がりを申し出た。そこに病気平癒の加持祈祷を依頼して犬君を呼び出せばいい。彼が仕える祇園社は疫病平癒の社なのだから。

 要件はただひとつ。乞巧奠きこうでんの供物になぞらえて殺されていたという童の第一発見者に真相を質すため。

 そうして実際に会ってみると、犬君という法師陰陽師民間の怪しい宗教の人が、想像していたのとまるで違うことに驚いた。

 夜を閉じ込めたような烏羽玉むばたまの髪は、剃髪にもまげにもせずに美しくき流されている。長さも肩を過ぎて髪を伸ばし始めた姫くらいにはあるだろうか。白く細い首筋から肩へと纏いつく黒絹に弘徽殿は息を呑む。

 さすが稚児上がりと言おうか、化粧ができるように眉や肌も整えられている。異性の服装をした者はその性別を神仏の化身として取り扱うというような信仰がある。だから寺では行儀見習いの稚児こどもを女のように装わせ、神社には白拍子と言われる男装の歌姫に舞を奉納させる。犬君が女性とも男性ともつかない容姿を保っているのもそういうことなのだろう。貴族の子弟ならともかく、もとは名もなき漁村から買われてきた美童だというのが本当なら実態はそんな綺麗事では済まないだろうが――そのあたりを詮索する悪趣味は弘徽殿の女御にはない。大事なのは公家同等の知識振る舞いと、この黒髪だ。

 そこで思いついたのだ。彼に宮中の噂の真相を追わせる方法。普通の僧や神祇官やと偽るよりも冴えたたったひとつの方法。この美しい髪の男に十二単を着せて出仕させればいい。

 断固拒否する犬君を、弘徽殿は上から下まで眺める。

「お前は、見たところ、今すぐ落飾させてその髪をかつらとして献上させたいくらいの美しい髪をしているし、第一いつもその変な面をつけているのだから誰も顔を見たことがないのでしょう? 好都合じゃないの」

 さらっとすさまじいことを言う姫君だ。

 犬君の髪を剃り落として鬘にしなくとも、その髪は当世二人といない艶やかさで、扇を広げたように肩を飾っているというのに。

「そんなわけはないでしょう。誰も見たことないは言い過ぎです。さすがに私とて寝るとき食べるときは直面ですし、殿上人の中には私と寝た者もおります」

 それを聞いた弘徽殿はパチリと扇を閉じた。

「つまり相手は女ではないということね? ならばなおさら好都合」

 犬君はついにあきれた様子も隠さずに言う。

「声でバレますよ」

 弘徽殿はあっさりと答えた。

「しゃべらなければいいじゃない。和歌のひとつも詠めないとは言わせなくてよ」

 そもそも貴族の女は成人すれば男に顔など見せぬものだ。親兄弟でなければ必ず御簾や几帳を隔てて話す。禁裏は厳密には男子禁制ではない。清涼殿に近い弘徽殿ではよく公達が冷やかしにも来るし、梨壺では男性の有識者も交えて和歌集が編纂される。しかし、そこにいる女性たちは部屋の奥に御簾を隔てて顔を合わせないのはもちろんのこと、女御やその側近ともなれば声すら直接掛けることはない。下々の女官に耳打ちして伝言を回したり洒落た色の紙にしたためたり、その間になんかいい感じの和歌にされたり気の利いた花を添えられたりなどもして、御簾の向こうの相手へと届けられるのだ。

「大丈夫よ。このたびの発熱で弘徽殿は人手不足なの。藤原家から人員を補充するという形でお前を同行するわ。必要な衣類はすべてわたくしが与えますからご心配なく。朝夕には食事も出ますし、必要なら殺生戒に配慮した膳も用意しますから遠慮なくおっしゃって」

 弘徽殿の女御は当たり前のように労働待遇を告げてくるが、だからそういう心配はしていないのだ。犬君はため息をついて辞退の意味で一礼した。

「私は自分を男とも女とも思うたことがございませぬ。弘徽殿の女御様が女だと思えば女にございます。……しかし社会通念としてそういうわけには参りますまい。他の女房達の気持ちをお考えなさいませ」

 だーかーらーと弘徽殿の女御は耐えかねて少し声を荒げた。

「だから庶民のお前を女房に取り立ててやると言っているんじゃないの。女房とは個室を与えられた女官のことよ。何も夜一緒に臥して寝よと言っているわけじゃない。文句があればわたくしが言ってやるわ。一緒に暮らすとは言っても昼間大勢で仕事をして居る中にひとり男が入るだけのこと。何がそんなにお嫌なの?と」

 犬君は困惑したように頭を下げたまま考えた後、「それだけではないのです」とため息をついて言った。

「……かようなつまらぬ事件に、女御様のお命を懸けるわけにはいかないのです」

 あくまで気遣っているようでいて脅すような犬君の言葉をやり返そうと、弘徽殿の女御は意地悪に微笑む。


「おかしなことね。まるでお前ならこの不可思議な事件の真相を知っているみたいですわよ」

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