第5話・弘徽殿の悪役令嬢(2)

「わたくし、うんこ撒き散らしたりなんかしなくてよ!」

 部屋に戻ってくるなり美しい少女が放ったあまりの言葉に、背の高い赤毛の女房は驚いて「弘徽殿こきでんの女御さま!」とたしなめた。女房とはこの屋敷の主である女御の側近として個室を与えられた女官のことである。

「落ち着かれませ。さすがにどなた様もうんことまでは申していないかと」

 赤毛の女房の慰めになっていない慰めを聞いた少女は、甘えるようにその膝に寝転がる。とりとめもなく嘆きながら赤い髪を引っ張って遊ぶ。鮮やかな黄色の濃淡を未婚の女性にはやや地味な檜皮色ひわだいろ唐衣からころもで引き締めた朽葉の襲色目かさねいろめ。その襟元にこぼれかかる鮮やかな赤い髪はまさに紅葉の色で、美醜からいえば定形外ではあるがそんな彼女の髪が弘徽殿は好きだ。

「だって聞いてよ龍田中納言たつたちゅうなごん、」

 自分の与えた名に満足しながら弘徽殿の女御は、ちはやぶる神代にも聞いたことがないほどあざやかな紅葉の色の女官――龍田中納言の膝から頭もどけずに手だけ伸ばして絵巻物を取る。

「源氏物語になぞらえて弘徽殿の女御なのよ。わたくしの悪口を言うんならそういうことではなくて?」

 弘徽殿の女御とは、大人気物語『源氏物語』に出てくる悪女のことだ。宮中で書かれる数多の文学の中でも群を抜いて人気の物語で、都の貴族で知らない者はいないのはもちろん、地方に住む下臈の女子までもがこの本を手に入れたくて宮仕えに憧れるほどのものだ。源氏物語の後に書かれた物語はみんな恋愛ものの歌物語になってしまので、昨今の物語なんてみんな源氏物語の二番煎じだと笑う人すらいる。さすがに唐が舞台になったり、転生したり、女君が有能な仕事女子だったり、男女逆転したり、組み合わせが男同士になったりするものまで恋愛歌物語というだけで源氏物語系の類話に分類されるのは釈然としないけれど、まあ、ありとあらゆる本歌取りに二次創作、逆張りまでやり尽くされるほどの人気作品ということですわ。

 ともあれ、それほどまでに一世を風靡した人気作品の登場人物が実在の後宮の屋敷の名前で呼ばれるせいで、のちにその殿舎に入内する者は大変な風評被害である。皇后候補として入内する女の子たちもまた現実に、本名ではなく賜った屋敷の名前で呼ばれることになるのだから。

 さて、源氏物語において自分と同じ「弘徽殿」に住まう女御は、前述した通り、大人気絵巻屈指の悪役令嬢だ。あれほど悪女で立っている登場人物は他にいまいというほどの悪役令嬢、表にも陰にも強い影響を及ぼし、改心などありえなく、一巻の主人公の桐壺のみならず光源氏の一生に渡って出世の邪魔をし続ける。記念すべき第一巻、身分が低いにもかかわらず時の帝に溺愛される桐壺更衣、のちに光源氏の母になる桐壺更衣を冒頭から虐め地獄に叩き落とすのが弘徽殿の女御なのだ。

 女御、更衣、と説明をすっ飛ばして語ってしまったので今更軽く解説すると、女御も更衣も同じく内裏に屋敷を賜って暮らす皇后候補・国母候補である。ただ、一般的に女御のほうが親の身分が上なので、基本的には更衣より大切にされることが多い。最も有力な皇后候補というわけだ。とはいえ、帝も人間なのでたまに数多の女御より更衣のほうが性癖にブッ刺さってしまうことはある。刺さりすぎて建前にも女御のほうを寵愛しているふりすらできないこともある。身分の低いポッと出の愛され更衣に、それまで寵愛争いの勝馬だった弘徽殿の女御は嫉妬と差別を隠さない。あけすけな憎しみ、皮肉たっぷりなセリフ。それまで権力も寵愛も一番だった女御が包み隠さない悪意はやがて周りの女御・更衣までも煽り、宮中にただならぬ憎悪が満ちていく。

 後宮で女御・更衣の住まう殿舎はすべて回廊で数珠のように繋がっている。そして桐壺は帝のいる清涼殿から最も遠い殿舎である。嫌われ寵姫の桐壺が帝のもとに向かう途中では悪口がさざめき、中でも酷い女達は結託して互いの殿舎の扉を一斉に閉めて桐壺を廊下に閉じ込めてしまったり、廊下にうんこを撒き散らして裾を引く十二単では通れなくしてしまったりする。弘徽殿の女御は読むたびに思ってしまうのだ――うんこはありえませんわ、と。

 ついには自分が煽った苛烈な虐めの末に衰弱死した桐壺の更衣の訃報を聞いたとたんに弘徽殿女御がゴキゲンな音楽の宴をおっ始めたときには怖すぎて泣いてしまった。如何いかなざまぁにも品位というものがございましてよ。

 ありえません。ありえませんわ!

 しかしそう言い張っても聞き入れてもらえないほど、彼女の容貌は「弘徽殿の女御」だった。悪役令嬢としての圧が強すぎていた。

 自分では人を傷つけるようなことは言っていないつもりだけど、思ったことをそのまま言ってしまう性格は自覚しているし、その声は何を言ってもあざとく聞こえる高い声、生まれつき華やかな目鼻立ち、派手な今様はやりの化粧、張りのある黒髪の艶はほむらの燃え上がるが如し。十二単の上衣うわぎはなるだけ自分を引き立てる真紅や蘇芳のような燃え立つ赤。美貌ではあるが目は大きすぎて要らない圧を与えてしまい、気がつけば何もしていないのに知らない女官が震えながら平伏している。


「だいたい、弘徽殿の女御の呪いって何? 六条の御息所とでも勘違いしてるんじゃないの?」

 腹いせに絵巻物を転がしながら言う。源氏物語の弘徽殿の女御くらい正気で好き勝手言ってたら、耐えかねて絞り出す生霊もあるまい。

「呪い?」

 龍田中納言が首を傾げるので、弘徽殿の女御は今さっき廊下で耳に挟んだことをそのまま教えた。

「乞巧奠になぞらえたたくさんの童の遺体に、白い手が招く百鬼夜行……? まあ。まったく人の口が好むおそろしげな事件ですこと。それで、それを発見なさった方はどちらにいらっしゃるのでしょうね。そこまで荒れるからには信頼のある情報源なのでありましょう?」

 まあまあとたしなめていると、

「あ、その話知ってますよー」

 御簾の向こうから別の可憐な声が投げかけられ、龍田中納言が顔を上げる。

「でも一般男性だとかでー。なんて言ったかなー、知ってる人は知ってるみたいですけどー、でもわたしたちがくわしい話聞きに行ける人ではないですよー」

 しゃべっているのはまだ幼稚ともいえるくらいに若くて噂好きの鶯式部うぐいすしきぶだ。その愛らしい声を活かして伝令係を務めていることが多いのでうぐいすと呼んでいる。夏を送る乞巧奠きこうでんを目前にした今は服の色も夏と秋とが混ざり合っていて、鶯はまだ緑がちな夏の色目を着ている。

「だってわたしたち、めったに内裏から出られないじゃないですかー」と外に憧れてため息をつく若い女房に、このままとりとめもなく話が終わっていく予感がした龍田はため息をつきながら足下あしもとで転がるままに広がっていく絵巻物を指さす。

「もうその話はいいからあなた、こちらに入ってきて女御様が散らかした絵巻物を片付けてさしあげて」

 はあいと間延びした返事をして絵巻物を拾い上げた鶯式部の手は陰陽師の絵の上で止まっている。

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