花鳥風齧!-(1)弘徽殿の悪役令嬢
白瀬青
からすのごちそう
第1話 からすのごちそう
空は枯れたような鈍い青色である。
見上げると色とりどりの布が枝にかけられて旗のようにひらめく。
「きれえだなあ」
地面に転がったままつぶやいた。時折黒い鳥の影が舞い上がり、くわえ上げられた錦が空を舞う。きれえだなあ。きれえなおべべから腐った腕が落ちてきやがる。枝にかけられた着物にもよく見れば、中身のついている小袿があった。もったいねえ。
ここは風葬の野辺で、誰から始めたことかは知らねえが、死んだ者の空蝉は山裾の木の枝に打ちかけられることになっている。最初は地面に
うっとりと目を細めたそのとき、したたかに腹を蹴られた。
「……なんだ生きているのか」
あたしの腹から足も退けずに、男は言った。
目を上げると、白い布と目が合った。男――低くて深みのある声だからきっと男だろう――その顔は呪符の描かれた白い布で覆われていて、吸い込まれそうに黒い目だけが呪符みたいな文様に添って切り抜かれた穴からこちらをにらんでいる。髪は長く、立烏帽子をかぶり、
「ずいぶん恐れ知らずな
「町の奴らはあたしを穢れだって言う。だからその穢れをたっぷりつけて肉を売りに行ってやるのさ」
胸を張り、あたしは言う。
町の奴らは薬だ滋養だと肉をありがたがって買うくせに、獣や鳥を食える肉にして持ってくるあたし達のことは厄病神みたいに鼻を摘む。
「穢れ」なのだという。
皆があたしを見てささやく「穢れ」という言葉の意味を、あたしは知らない。ただ、どういうものをそう呼んでいるかは知っている。この野辺にあるもの。野分の過ぎ去った後の水辺に積み重なり、広がっていくもの。死にまつわるもの。死にゆく間際のいのち。あたしたちの生活。
そういうものには
風葬地で生まれ育ったあたしみたいな奴だけじゃない。貴族ですら死を間近にすれば穢れになることを知っている。茣蓙を敷いて念仏を唱えていたきれえなおべべの女が盗人に弄ばれ脱がされ、後には丸裸の遺体だけが転がっているのを何度も見てきた。世界のうちで灰になって天に昇れるのは本物の貴族だけだ。
さらに、ここいらの木陰には死んだ奴ばかりじゃなくて、これから死ぬ奴もやってくる。疫病にかかった者、老いた者、強盗とやり合って手足の欠けた者。疫病はともかく、皺や喧嘩は伝染るまいとあたしは思うのだが、町の人は我に伝染るな伝染すなと野辺に遣る。
「あたしはきれいなおべべを着て気取った奴らが鳥や盗人に丸裸にされて見る目もなく腐り果て、獣に喰らわれて骨が野晒しになるのを見るのが好きなのさ」
たったひとつの復讐のように嫌味を込めて、いひひと笑ってやると、ぼーさんは感心したように言った。
「とんだ童に徳がある。まるで天然の九相図だ」
「糞図?」
首を傾げると、ぼーさんはやっぱり感心するんじゃなかった聞き流せとばかりに手を振って言った。
「そういう絵がある。寺に飾られている」
ふうんとあたしも聞き流した。
「ところであんたはなんだ。拝み屋なのか? ぼーさんなのか?」
腹の上に置かれた沓を睨みながらあたしは言う。
すると男の目からすっと怒気が引いて、彼は冷ややかな声で意味の解らないことをつぶやきながら足を下ろした。
「……どちらでもない。
なんっっだそれ! あたしは怒りのままに腹に力を込めて跳ね起きると、これ見よがしににバシバシと着物の汚れを手で払った。
「わけがわからんことを言ってないで謝れ!」
そうしてまじまじと見てみると、本当にけったいな身なりをしているのだ。確かに僧でもあり神祇官でもある。もったいつけて布で顔なんか隠しやがってうさんくさくもあるが、立ち姿が良いおかげでありがたみを感じなくもない。でたらめだ。しかし不思議と、矛盾するはずのすべてが調和して美しいとすら思えるのだった。悔しいけれど。
殊にその髪だ。
「ずいぶん髪の長ェぼーさんもいたもんだなァ」
ぼーっと見上げながらあたしは感心する。
あの髪の艶やかさと、白絹の
黒髪を
「それよりあんた何やってんだ、こんなところで」
呆れてつぶやくと
「訳あって人を探している」
と言う。
だから寝ている奴の腹を足蹴にして検分したのか。あたし以外でここらで寝てる奴なんて仏かもうすぐ仏になる奴しかいない。仏を蹴るたァたいしたぼーさんだよ。あたしはまた悪態をついた。
先も言ったがこの野辺には自分の脚で歩いてきた死体もある。死期を悟った奴等だ。
獣とて飢えている。弱っていると思われれば、一日だって形を保つまい。今だって鳥が低く旋回し、その輪が次第に狭まる。草むらを見れば閃く瞳と目が合う。ここに住まう獣は生きとし生けるものすべて食うか食われるかだ。
「で、どんな人間だ」
袖についた草を吹き飛ばしながら尋ねる。ぼーさんは淡々と答えた。
「さる貴人が地方に任ぜられ、帰ってきたところ妻の姿がなかった。見れば『疫病にかかり、高熱の末に目も見えず足もままならず、もはやこれまでと覚悟して野辺に向かう』との文がある。朔日のことだ」
昨夜の月は確か肥えていた。十五日、とあたしは口の中で言う。
「そいつァもう跡形もねえだろうな」
ぼーさんはうなずいた。普通、病で死を覚悟して野辺に来た奴が大自然の中で元気を取り戻して帰っていくなんて奇跡は起こらないし、最悪の場合、息があるうちから獣の餌食だ。うなずきながらぼーさんは「ところがだ」と前置きする。
「一昨日の早朝になって、社の片隅で女の腕が発見された。祓えど祓えど禍いが絶えないので卜占すると境内に穢れありと出て、その方角をあらためてみたところ、遺体の腕をくわえた犬がいたという話だ。美しく白い指をした女の腕だった。朔日に行方をくらました女は琴の名手であった。指の美しさが気になったので夫に検めさせると、それは確かに妻の指、妻の着ていた着物だという」
そこで、とぼーさんは着物の端切れを取り出した。
「穢れの元凶、野辺に向かって十二日も獣に食われずただ形を留めながら腐敗していったこの女の足取りを探しに来た。知っていることがあれば教えてほしい」
知ってることなんてあるもんか。半月も鳥獣に食われなかった死体なんて聞いたことがない。
しかし目の前に広げられたきれえな着物の端切れを見ると、あたしはあっと声を上げた。泥がこびりついてはいるが、光にかざすと美しい織目から花の文様が浮かび上がる。あざやかな若葉色の小袿の端。
「知っているのか童」
「ああ」
あたしはにんまりと口角を上げる。
「狩った猪のお腹に入っていた」
ぼーさんか拝み屋かは知らないが、いずれにしても四つ足の肉は忌まわしいはずだ。
「会わせてやろうか、臓物の中の女に」
さあどう出る? あたしは挑発的に笑う。
「ただしあたしの家に来たら、その猪であんたをもてなす」
――のはずだったのに、なんであたしは得体の知れないぼーさんを連れて帰っているんだろう。
嫌がらせで誘ったつもりが、ぼーさんはぐいぐいと食いついてきた。ついには頭を下げられたので、あたしは臓物の中の糞になった女に会わせるために、ぼーさんを家に案内することになる。
「童、お前のことはなんと呼べばいい」
世話になるのに呼び名も知らないではいけないだろうとぼーさんがぞんざいに尋ねる。あんたまったく興味ないだろ。
ん、とちょっと思い返して答える。
「町の人はトニって呼んでる」
目が一瞬だけ見開いたが、ぼーさんは何事もなかったかのようにすぐに目を伏せてうなずいた。
「解った、トニ。よろしく頼む」
あどけない歌声が聞こえる。拍子を取るようにトントンと小刀が鳴る。姉が肉をさばいている。湯気が小屋を暖め、甘い香りを立てる。あたし達に気づいた姉が、麻の着物の腰に巻いたひらみで前掛け代わりに手を拭いて、こちらに手を振る。あたしら姉妹は痩せこけて目ばっかり大きいタヌキみたいなちんちくりんの女だけど、歌声だけは京の遊女にも負けやしない。
肉を刻むとき、歌うことにしているのはあたしの家の習慣だ。歌に音が添う。音が添うということは箸と小刀を動かす手が添うということだ。体中が添ってひとつの音になれば、手を動かすのが楽しくなる。
血を抜き丁寧に臓物をえぐり出し、斧でぶつ切りにした獣を箸と小刀で細かく切り分ける。そうしてようやく屍肉は食い物の様相になる。鍋に煮込む。やわらかい部位を塩に漬けて串で刺して、その火の傍で燻す。
外にもむしろを敷いて、食べきれない肉を広げて干し肉にする。最後に、だん、と矢を地に突き刺した。こうしておけば鳥は恐れて近寄らない。
これがあたしの仕事。
外で皮をなめしていた父親が、来客に気づいてあわてて戻ってくる。手にはそこらへんで摘んだ山吹の花。どうせ粗末な家なのに気を遣わなくてもとあたしは思うんだけど、父親はそういうことを気にする。ほんと気にしなくていいのに。勝手についてきたうさんくさいぼーさんなんだから。
黄色い小さな花の房が、誰かに供えられていたきれえな漆器に枝垂れる。辺りの光を吸い込んだ黒い器が蒼く仄めき、可憐な花の色を引き立てる。それはぼーさんの髪の色によく似ていた。
そうだぼーさん、ぼーさんの髪にも似合いそう。
脳裏をよぎった歓声に、ぶんぶんと首を振る。やめたやめた。あれがそんな風流なタマかよ。
料理を待つ間に、あたしは神様に供えてあった臓物を運んでぼーさんの目の前に広げる。
せっかく満ちていた温かな匂いがいきなり、獣の皮を煮詰めたような血と糞の腐敗臭に掻き消されて、あたしですら嫌な気持ちになる。
しかしぼーさんは平常だ。小さく手を合わせて何か唱えると、ためらいもせずに懐刀を突っ込んで内容物を検分した。
「間違いない」
ぼーさんは猪の内臓から出てきた汚穢まみれの若葉色と消化しきれなかった肉のかけらをつまみあげて食い入るように眺め、ようやく納得したように深くうなずいた。証拠にいただいても良いかとあたしに尋ねた後、小袿の端切れと桜貝のような爪のついた指のかけらだけ水でゆすいで懐紙に包む。美しかったという女の指はもう腐っていたが、それを大切なもののようにしまうぼーさんの手は川に魚が泳ぐみたいな指をしている。
そうして手をぬぐい、酒で清めると、今度は猪の内臓ではなくその肉でできた膳のほうに手を合わす。
食うためにするりと雑面をたくし上げたそのとき、あたしは初めて男の顔を見た。
本当に、鴉みてえな男だった。髪は鴉の羽根のごとく、瞳は烏羽玉のごとく。冷ややかな表情のせいで眼光鋭く見えるが、よく見れば薄化粧を差して白拍子のように柔和な面差しをしている。
涼しい顔のままで黙々と肉を食らい、汁をすする。飯は無い。その日に獲れたものを食う。あたしなら肉をわずかの塩で炊いただけの汁を食うが、ぼーさんにはひとかけ潰した姜を混ぜてやる。とっておきなんだぞ。甘く馥郁とした香りがふんわりと立ちのぼり、再び良い匂いに部屋が満たされる。ふと椀を見て微笑うので、なんだと聞いたら「温かいものが食えると身に染みる」と妙に優しい顔で言う。
切り落とした肉をすぐに塩で揉んで出してやると、ぼーさんはそれもひとくちにたいらげた。はあ、とあたしはため息をつく。
「あんた、本当にためらわないんだな」
ぼーさんはきれいに箸を動かしながら黙って肉を味わい、それから箸を置いて言った。
「……私の故郷は海の入り江だった。魚を捕って食う。それを生業にしている。死んだ者は浄土に送ると言って、海に流すのが習わしだった。その抜け殻は魚に食われてやがてこの入り江に流れ着く。流れ着くたび仏を運んでいく私を、寺の者は臭いと言って笑った。しかしその膳からは魚がゆらめくような香りがした」
「魚が!?」
大きなお椀に尾をひらめかせる銀色の小魚を想像してあたしは思わず目を輝かせる。それを見てぼーさんは言い直した。
「言葉の綾だ。こっそり魚の出汁を使っているという意味だ。その魚は私が売り歩いていたから判る」
つまりぼーさんはこう言いたいのだ。あたし達は似ている。海と山とで違っても。
半端な身の上話のせいで、ぼーさんが何者なのかが気になってくる。あんたはどこから来て、なんだってそんな珍妙な姿で汚れ仕事をしているのか。
「そもそもまずあんたの名前はなんなんだ」
これまでのイライラを炸裂させたあたしの言葉に、無言で猪汁を味わっていたぼーさんは「え」と顔を上げた。
「名前だよ名前。人の呼ばれ方だけ知っておいてそれはないだろう」
腕で腕をつついて何度もせっつくと、ようやくぼーさんは不本意そうにつぶやいた。
「……
それを聞いてあたしはいひひと笑う。
「
餓鬼みてえな
それにしても変わったぼーさんだ。普通の人は、人肉は食えても、人を食った獣の肉は忌避するもんなのに。そんなことを考えていると、不意に戸の外が騒がしくなる。
こんなことはよくあることだ。あたしはすっと弓を手に取る。肉が干してあるのだもの。それを狙い、あらゆる獣がやってくる。
立ち上がろうとするあたしの手を押さえ、ぼーさんは顔の覆いを直した。
「いい。私の客人だ。私が出る」
でも野犬だったらあんた……、言い返す間にもぼーさんは丸腰で家の外に出ていく。
野犬や狼ならば助けてやるつもりで潜みながら後を追うと、なるほどそれは確かにぼーさんの客人だった。野晒しの遺体にかけられているのしか見たことがないような上等の生地の狩衣を身につけている。数多の僧兵達を従えて。なんだあれ。昼間なのに松明なんて焚いていやがる。
進み出たぼーさんは、恭しく一礼し、ひざまづいて言った。
「……これはこれは衛門佐殿……かような不浄の土地、直々にお越しになってはなりませぬ……」
不浄不浄。けっ、品のいい物言いしやがって。その不浄の土地で同じものを食い、旨いと言ったなまぐさ坊主のくせに。
狩衣野郎はふっと鼻を鳴らして言った。
「触穢が恐ろしくて検非違使など勤まらぬわ」
そのくせ狩衣には過剰に香が炊きしめられ、しきりに扇で鼻を覆っているのだった。けっ、触穢が恐ろしくないならその過剰な臭い対策をやめろっつーんだ。あたしは強く炊きしめられた香にむずむずする鼻を鳴らしながら、軒下の草むらに伏せる。
「それともおれがここに来てはそなたが不都合であったか? ……のう、可愛い
気持ち悪いくらいの猫撫で声だ。しかしその中に牽制するような刺々しさがある。ぼーさんは一瞬だけ眉根をよせたが、すぐにたおやかに目を伏せた。
「衛門佐殿の慧眼、恐れ入ります。女の着衣は確かに猪の腹にありました。仰せの通りこの野辺で食われたのは間違いありませぬ」
撫でてくるなら喉を鳴らしてやろうとばかりに恭順を示すぼーさんに、衛門佐はふんと鼻で笑って扇をくゆらせた。
「そうだろうそうだろう」
そのとき。
「ところで、衛門佐殿。九相図なるものを御存知でしょうか」
ぼーさんの声調が急に下がった。
ぴたりと扇の手が止まった。衛門佐は不愉快そうに眉をよせる。
「当然であろう」
糞の図だかなんだかというものが、どうやら貴族にとっては当然あるべき教養なのだということを、ようやくあたしは察した。たぶん衛門佐は当然の常識を問われて馬鹿にされたと思っているのだ。それをさらりと見過ごして、ぼーさんは微笑んだ。
「それでは話が早い」
伏せているあたしにだけ見えるその口許には不敵な笑みが浮かんでいる。覆布で見えなくても判る。獲物を追い詰める歓喜に震えている。狩人の勘だ。
「九相図で描かれるところのどれが死後何日目にあたるかは仏によっても場所によっても違います。が、鳥辺野を弔っている体感では事切れて翌日には膨張相ーー腐敗が始まり、三日後には腹が割れて
そこまで流れる水のように解説してひと呼吸置き、「さて」とぼーさんは顔を上げた。
「これも私の体感ですが九相図は外観上はおおむね正確ながら、実際には虫や烏が遺体を見つけて厄いするのは膨張相と同時進行です。死の翌日のきれいな遺体でも野辺では顔が突かれているし、腹が割れたときには蛆虫も流れ出してくる。……しかし仰せられた女の遺体は、」
と、ぼーさんは懐から白い紙に包まれた肉を差し出した。案の定、付き従っていた貴族達から悲痛などよめきが上がった。懐紙には猪の腹で溶けかけた女の指が乗っているのだ。
「獣の腹から、消化しきれなかった白い指が黒髪に巻きつかれて出てくるほどに新鮮だった……ということが少々気になっております」
衛門佐は馬鹿馬鹿しいとばかりにばさりと扇を振った。しかしその手はどことなくぎこちない。
「それの何がおかしい」
生ぬるい風が雑面の端を巻き上げる。あらわになった唇の端に小さな笑いがにじんでいた。
「野ざらしにされた仏は、先端からなくなるのです」
「は……?」
ぼーさんが優雅に微笑めば微笑むほど、衛門佐の笑顔が吸い取られるように消えていくのが判った。
「一度こわばった屍が再びやわらかくなり、腐ってさらにやわらかな
ぼーさんは腰から礼をして指をあらためて眺めると、それを再び丁寧に包み直した。
「はらわたから出てきた小袿は確かに朔から行方知れずになっている女の形見。……にもかかわらず、美しい指がそのままになっておりました。琴を弾く指先の独特の硬さすら判るほどに。犬がくわえてきた手も、同様。ゆえに改めて申し上げます。朔日から形をとどめて鳥獣に喰われなかった女の遺体が今になって出てくることは極めて異常であり、文は偽りの可能性が高くーー」
衛門佐の手が止まる。みるみるうちに顔がこわばっていく。
「黙れ」
遮った声が低い。雅やかな声音は作り物で、これが地声なのだろう。野辺の臭いを忌むように扇で顔を覆っていた手が余裕を失ってわなわなと震えていた。
しかしぼーさんは黙らない。
「恐れながら衛門佐殿。遺体を土の中に隠し、それを犬が盗むや否や露見を恐れてそれが初めから野辺にあったように装い、それを確かめさせるために、そう、野辺にあったことを証明させて穢れの出処をあやふやにすべく、我が
滔々とぼーさんは語り続ける。衛門佐が吐き捨てるように叫んだ。
「
投げ捨てられた扇が頬を打つのも避けず、跪いたまますっと膝で進み出でると、ぼーさんは紙の束を差し出した。白壇の強い香りにくしゃみが出そうになる。くしゃみで草木が揺れるのを避けようとして、あたしは手で鼻と口を覆いながらさらに深く伏せた。
「こちら、あなた様は覚えておいでですか。まこと雅な和歌の数々、その熾火のごとき歌風と紙に炊きしめられた香で、私はすぐにあなた様の顔が目に浮かびました」
衛門佐の顔が
「衛門佐殿が幾年に渡り、穢れの元凶たる女に送り続けた和歌にございます。夫が地方に任官して家の守りも手薄、そこに幾年も執拗に迫られる恐怖は如何程であったでしょう……そしてついに夫の帰京を目前にした前夜、良孝さまは盗み出そうとした女に抵抗され、殺してしまうのです」
強く焚きしめた香が風に乗り、読経の声を運んでくる。
「色即是空空即是色色即是空空即是色」
「……しかし最初から偽の遺言通り野辺に運んでいれば露見することはなかった。妻でさえ死なば穢れ肉体はただの物とわきまえる世情の中、愛した女が腐り行くのを手放せなんだ衛門佐殿を私はどうも憎めませぬ。貴方様はおそらく、女の体を虫も獣も入らない涼しい部屋に置き、何度も水で冷やしたことでしょう。まだ生前の名残をとどめている顔に化粧もしたでしょう。それでもやがてはそこにおけぬほど臭い、穢れゆくのはとめられなかった――衛門佐殿、どうぞこのまま私めに祓わせるよりは、名乗り出て温情ある償いを」
男達が松明を傾け、油紙を巻いた鏑矢に火を移していく。
「色即是空空即是色色即是空空即是色」
読経は絶えず響いてくる。
そこで、はッと。
「弔われている」のが自分の家だと気づいたあたしは思わず走り出していた。
ぼーさんはきっとまだ気がついていない。あの狩衣が自らここに来た本当の理由に。
「のう、
にたりと話しかけられて、ぼーさんが首を傾げる。
「おれが穢れに触れたことを誰も知らなければ、触れなかったのと同じなのだからな」
ぼーさんの目の前に無数の火が揺らめいている。しかし弓手は誰もぼーさんを見ていない。
「貴様のような犬に臓物を与えた
呪わしく宣告されてぼーさんはようやくこの事態に眉を顰めた。
「何を考えている。民家だぞ」
初めてぼーさんの狼狽した声を聞いた衛門佐はほがらかに笑い、高らかに叫んで両手を広げた。
「民家ではない」
そして、クッと唇をつり上げる。
「
その声と共に。
一斉に火矢が放たれた。
「ぼーさん!!」
あたしは叫びながら腰に巻いていたひらみを裂くと、取り急ぎ矢に巻きつけてつがえる。間髪を入れず次の矢を放てば、それはまっすぐに衣の真ん中を貫いて空に広がった。いきなり盾のように広がった布を、まっすぐに飛ぶ火矢の群れは避けることができない。空が燃え上がる。あたしの服だったものが一瞬で炎に変わる。
舞う火の粉の向こうで、
静かにしていろ? ふざけんな。丸腰のぼーさんを守らないわけにはいかない。そしてあれはあたしの家なんだ。
すかさずあたしを狙い撃ってくる一矢をあえて手の甲に貫かせる。熱が走り、引き抜いた穴から血がほとばしる。それを口で吸い、ぺっと地面に吐き捨てる。まったくいい矢を使っていやがる。だけど奪い取ったらあたしの矢だ。
寄っ引いたその瞬間、強く手首をつかまれた。犬君が険しい目で睨みながらあたしの弓を取り上げる。そのまま虚空に弓を引いた。あたしの代わりに奴らを射るのかと思いきや、綺麗に構えられたその手に矢は一本も握られていなかった。
澄んだ弦の音が空に響く。
重ねて犬君が遠吠えのような声を上げる。そのまま歌うように日本語とも異国語ともつかない祭文が朗々と宣り上げられ、衛門佐の顔が蒼白になった。
「ぐ……」
顔色の悪さは恐怖ばかりではなく、たちまちに蝋のような白さになり、土気色に澱み、青黒い染みが這い出すように皮膚に顕れる。
「何をしている、助けろ、助け……」
喉を押さえのたうち回る狩衣がまだ居丈高に命ずるも、従者達は助けるどころか口を押さえて退いていく。
鴉が羽ばたく様に髪が舞い躍った。
幾人かの僧兵だけが怯まず薙刀を構えるのを、犬君は祭文の奏上もやめずに懐に飛び込んで手刀で穂先近くを跳ね上げる。そうして薙刀を握る手が浮いた弾みに柄を奪い取って両手で軽く逆向きに押し遣った。長物で押されては猛者も吹き飛ぶ。次々と僧兵達を押し転がしては返す手で振り向きもせずに薙刀の柄で背後の者の鳩尾を容赦なく突く。
「む……う……くふ……ッ……」
僧兵達は這う這う狼狽していた。もはや地面をのたうち回る衛門佐のことなんて誰も見てはいない。
奪い取った薙刀を無造作に投げ捨て、犬君がささやく。
「さて、九相図は御存知ですね」
白く膨れ上がった男の口や鼻から黄ばんだ血が吹き出す。血の中に白い粒が蠢いていた。声にならない悲鳴をあげて衛門佐は手に吐いた虫を払うが、恐怖におののけばおののくほどますます足はまろび、淀んだ血だまりの中に崩れ落ちてしまう。
腐臭を聞きつけた狼の遠吠えが聞こえる。鴉が低く旋回している。
終わりだ。
息を吐いたそのとき、もう動けないと思っていた衛門佐が渾身で上体を起こした。
「あんな……女の……あんな……下臈の、せいで……、」
手にはあたしが鳥除けに突き立てた矢が握られている。射損じた手負いの獣が間近に迫り来たときにはそのまま振りかぶって手で刺し貫ける大振りの矢だ。
止めようにも、あ、も、う、も無い。
「去ねやァァァァ」
ただ身体が動くままに必死に落ちている弓をつかみよせた。
「
目の前で鮮やかな赤色が翻った。
あっと息を呑む。
矢の先は、赤い色を深く貫いていた。
それは犬君の袂だ。燕脂の袖に衛門佐とあたしと両方から放たれる矢を受け止め、手を翻していなしたのだ。
衛門佐の顔はみるみる血の気を失い、その手はたちまち絶望に震えて地面に落ちた。すかさず犬君がその手を踏みつけ、地面を掻いて震える指から矢を奪い取った。
ふっと息を吹きかける。鏑からぼうっと火が上がる。それを犬君はためらいもせずに倒れ伏す男の胸に突き立てた。
「……憐れ、まことにただの妄念にございましたな」
見下ろした犬君は悲しげに合掌して、生きながら腐り果てた身体をずぶりと踏み込んだ。
「吾に当たる者は死し、吾に背く者は亡ぶ――
蒼い燐光が上がり、心臓に突き立てた火矢から引火する。それは死体の腹が爆ぜるがごとく、ぼかりと大きく弾け、たちまちに衛門佐を包み込んだ。
あたしはまつげが鳴るほど目をぱちくりとさせた。
「トニ、酒を!」
叫ばれてもあぜんとしているあたしの代わりに、父親があわてて酒の入った瓢箪を持ってくる。
「案ずるな、初めからこれが我らに命ぜられた役目だった」
そこまで言われれば義理を立てる奴もいない。
退散する背中をまだぼんやりと眺めながら、あたしはぼうっとつぶやいている。
「あんた本当にぼーさんだったんだなァ」
犬君は眉をよせてあたしを見つめると、ややして笑い混じりに言った。
「本当のお坊さまは加持祈祷で人を殺したりしない」
そうしてあたしに視線が合うように身をかがめてささやく。
「
おどけた言い方だが、鴉のように冷たくふてぶてしいと思っていた
手を取ってやろうと差し出すと、その手を両手で包んで何かまじないを唱えられた。たちどころに手を貫いた傷が消えていく。嬉しいけど、そうじゃない。
「人を食ったような仕事だ」
苦笑いして言う犬君の腕を引いて起こした。
「あんたの言ってることは相変わらずわけがわかんねえよ」
あたし達が人を食ったようなことをしてるんじゃない。必要なときだけあたし達を頼ってくる連中が人を食ったような言い分で澄ましている。それでもあたし達の仕事が無ければ誰も生きれまい。人を食ったような仕事、上等。ならばあたしは、せいぜい腹一杯に食ってやる。
「どこ行くつもりだ、あんた。飯はまだ残ってるだろ」
そのまま立ち去ろうとする犬君を呼び止める。
犬君は困ったようにため息をついて振り向く。
「迷惑になりたくない」
何が迷惑だ。せっかくもてなしてんのに食いさしの膳を放っていかれるほうが迷惑だ。とっておきの生姜まで入れてやったんだぞ。
怒鳴りかけた言葉をため息と共に飲み込むと、あたしは犬君を走って追いかけた。
「嫌な仕事だったんだろ? まあ生きてりゃそういうこともあるさ」
驚いて振り返る犬君に、あたしは笑って背中を叩く。
「迷惑になりたくないなら腹いっぱい食っていけ。こんなときはうまいものが一番だ」
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