第36話「たとえ、世界中を敵に回してでも」
その日の放課後——『彼女』はやって来た。
トレードマークの黒縁メガネを外し、三つ編みも解いて黒髪を背中の高さまでにまっすぐに伸ばしている。青白い肌もほのかに陽光を受けて鮮やかに輝いていた。男子のみならず女子の目をも引くような、見事な容貌——いや、変貌だった。
『彼女』——
黒乃はうっすらと、口を笑みの形に作っている。
「先生、元気がなさそうですね」
「これから厄介な仕事があるもんでね」
「そうなのですか? よければ、元気の出るおまじないでも教えて差し上げましょうか?」
「いいや、遠慮しとくよ」
光一は椅子の向きを変え、再びデスクのパソコンに視線を向けた。だが、内容など頭に入ってこない。キーボードに置いた手も動いていない。
不意に——背後から艶やかな黒髪が光一の体に垂れた。背中には温かい温もり。光一の胸を黒乃の両腕が交錯している。そして彼女の細いあごが光一の肩に載せられ、かすかな吐息が耳を、そして甘い香りが鼻をくすぐった。
「遠慮なんていらないわ、先生」
「…………」
「先生、意外と筋肉質ですのね。鍛えているんですか?」
「そこそこな」
「振り
「そうだな。これはもしかしたら、せめてもの償いなのかもしれない」
「……?」
「前に言っていたな。なぜ、あの子を特別扱いするのかって。今からそれを話そうと思う。とりあえず、適当なところに座ってくれ」
黒乃は何か言いたげだったが、素直に光一の体から腕を離した。定位置のようにベッドに腰かけ、優雅に足を組む。
光一は椅子を回転し、黒乃と向かい合った。それから――なんでもないことのように、「俺は昔、自殺しようとしたんだ」と言った。
「二十六の頃だったかな。あの頃の俺は最悪でね。就職も人間関係も失敗していた。生きる意味も意義も、自分自身の価値をも見失っていた。未来は真っ黒で、俺のような人間が生きていてもなんの益にもならないどころか、ただ周囲に害を及ぼすのではないかと——本気でそう考えていた。
なぜそう考えるようになったのか、ということを話すとキリがないからやめておこう。とにかく俺は、自分自身に絶望していた。気づいたらビルの屋上に立っていて、フェンスを飛び越えればすべて終わる。そう思っていた矢先に——運よくというべきか、タイミング悪くというべきか、何者かが現れた。
そいつは言ったんだよ。『今すぐ飛び降りても木に引っかかるか、植え込みに飛び込んで即死は
結局、俺はその場では死ななかった」
「それが、あの子と一体なんの関係があるので?」
「話は最後まで聞くんだ。なぜ俺が自殺しようとしたのか、その人は訊こうとはしなかった。なぜかその人は二人ぶんの缶コーヒーを持っていてな。屋上で並んでコーヒーを飲んで、俺はようやくぽつりぽつりと話し始めた。
その人は言葉を挟まず、最後まで聞いてくれたよ。名前も知らないし、もう顔も思い出せないが——たぶん、助けられたんだろうな」
「…………」
「その直後だよ。
「
「初めて彼女を腕に抱いた時のことは、昨日のことのように思い出せる。温かかった。とてもね。首がまだ
深い瞳だった。真っ黒で、ありきたりなたとえだが、宝石のように輝いていたんだ。すべて許されたような気がした。俺の——こんな俺の存在を無条件に肯定してくれた。そんな気がしたんだよ。見れば見るほど吸い込まれそうな瞳を前に、俺のくだらない人生観なんてものは、ガラッと変わってしまったんだ」
それからさ、と光一は椅子の背に体を預けた。
「猛勉強して、改めて資格を取って、今の職に就いた。いつまでもこのままじゃ格好つかないと思ってね。養護教諭を選んだのは、俺のようなろくでなしを生み出さないためだ。近くに誰かがいてくれる、逃げ場があるという安心感を与えるためだ。微力だがね。あの子がいてくれたから、俺は頑張れたのさ」
だから、と立ち上がる。
光一の目に
「あの子に手を出す奴は、誰であろうと叩き潰す。暴力を振るうために生を受けたなら、生まれてきたことを後悔させてやる。たとえ世界中を敵に回してでも、俺はあの子を守り抜く」
「……それが先生の答えですか?」
「ああ。たとえ相手が〈リライト〉であっても——君であっても、だ」
長い、静寂が訪れた。
保健室の窓から風が吹き込んでくる。二人の間を流れる空気が乱れ、わずかにベッドのそばのカーテンが揺れた。
黒乃はベッドに腰かけたまま——「私の正体、見破っていたんですか?」
「写真立てに亀裂が入っていた。そして、連中は時を巻き戻せる力を持っている。それだけの根拠だった。あとは、カマをかけただけ。……それに、隠すつもりなんかなかっただろう?」
「否定はしません。でも……ずるい人。どうあっても、諦めないつもりなのですね」
「ああ。これから俺は時を越えて、夢月を助けに行くつもりだ」
黒乃は小さな吐息をつく。
光一を見上げるその目は、失望と怒り、そしてわずかな
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