第四章「夜を渡って、時を越えて」

第35話「変えたい過去」

『彼女』はこの日、まだ姿を現さなかった。


 光一としてはその方が都合がよかった。修理が終わっていないのか、ヨルワタリからの連絡はまだ来ていない。


 ケガをした生徒の手当てをしたり、保健室からのお知らせと称したプリントを作成したり、備品のチェックをしている内に、午前の時間はもう過ぎてしまった。


 食堂に向かったところで——たまたま、ながれと鉢合わせした。


「あら、狭間はざま先生。こんにちは」

「こんにちは、流先生。今日は学食で?」

「そうですね。今朝はばたばたしちゃってて、お弁当作る暇もなかったんです」

「あ、僕もなんですよ」


 お互いに小気味よく笑い合い、食堂に入った。


 二人でそれぞれ注文し、向かい合って席に着く。


「狭間先生。今日、夢月むづきさんはどうされたんですか?」

「体調不良で、欠席です」

「そうなのですか。……ちょっと寂しいですか?」

「まぁ、多少は」

「でも、家に帰れば会えますよね。体調が悪い時って、心も弱ってたりするんですよねぇ……あ、狭間先生には釈迦しゃか説法せっぽうでしたか」

「いえいえ。……実体験ですか?」

「ええ。私の母がそうでした。横暴で、人の話も聞かない、声を荒げれば相手が言うことを聞くと思っているような、そんな親でした」

「…………」

「でも、そんな母でも病で床についた時には、すっかり弱気になっていたんです。そして今までにやってきたことを心の底から悔いていて、何度も何度も『ごめんよ』と言っていました。もっと私を応援すればよかったとかって、そういったことを」

「……なるほど」


 流がいったん、箸を置いた。


「私、本当は科学者になりたかったんですよ」


 光一も食事の手を止める。


「子供の頃からの夢だったんです。マンガの影響で、タイムマシンを発明したいって。でも、母からはそんなことできるわけがない、堅実な道を選べって何度も言われました。絶縁しかねないぐらいのケンカもしました。そして最後に、私が折れる形になったんです」

「そうなのですか」

「母はそのことを悔いていました。後悔するぐらいなら、最初から応援してくれればよかったのにって思いましたよ。でも……あんな弱気な姿を見せられたら、とても怒りをぶつけるどころじゃないですよね。ずるいと思いませんか?」


 流が再び箸を取り、ラーメンをずるっと口に運ぶ。光一も半ば機械的にハンバーグに箸をつけたが、あまり味を感じなかった。


 流が申し訳なさそうに、目をせる。


「ごめんなさい、こんなつまらない話をして」

「いえ……」


 やがて二人とも、食事を終えた。


 腕時計代わりの〈ウォッチ〉を見ると、すでに午後の業務の時間に近い。流も承知しているらしく、「行きましょうか」と促してきた。光一も同意し、カウンターに食器を返した。


 食堂の出口で、「流先生」と呼びかける。


「なんでしょうか?」

「もし、仮にですが……タイムマシンが本当にあったとして。先生はたとえお母様に反対されても、それでも科学者になる道を選びますか?」


 流は困ったように眉を寄せた。


「わからないんです」

「と、いいますと?」

「今の生活も割と気に入っていますから。母の言う通り堅実な道で、結婚もできました。出産のことも考えています。これから色んな幸せが待っているのかもしれないと思うと——どうしても、今の生活を否定してまで、過去を変えたいとは思えないんです」

「……そう、ですか」


 すると流は向き直り、「でも、これはあくまで私の話ですから」


「変えたい過去があるなら、そうしてもいいと思います。例えば、友達や家族や恋人を理不尽に失ってしまったのなら……何がなんでも過去を変えたいって思うのは、とても自然なことですよ」

「自然……ですか」

「ええ。その後で痛いしっぺ返しを食らうかもしれませんけどね。以前の、図書室で話したことを覚えていますか?」

「歴史のつじつま合わせ、というやつですね」

「ええ。どんなに過去を変えようとしたとしても、最後には同じ結末が待っているかもしれない。でも、それを証明できた人って、今までに一人もいないんですよ」

「……それは、そうですね」


 流は「ふふっ」と笑った。


「まるでこれからタイムマシンに乗るような口ぶりですね」

「そう聞こえましたか?」

「変えたい過去があるのですか?」

「……できることなら」

「そうですか。変えられるといいですね……って、やばい!」


 チャイムが鳴っている。「それでは私はここで!」としゅぴっと手を上げる。


「あ、引き留めてすみません」

「いえいえ、有意義な話ができました! じゃあ狭間先生、また後で!」


 急ぎ足の流の後ろ姿が見えなくなった後で、光一は足先を保健室に向けた。

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