第14話「二人の夢月」
この日は快晴だった。
姉——
モール内の洋菓子店で何がいいかを尋ねると、迷わずケース内の商品を指さし、「イチゴ!」と言った。好みは変わってないらしい。
千晴の家まで向かう途中、夢月は後ろにくっつく形になっていた。お化け屋敷に入るのを怖がりつつも、それでも好奇心を隠せない——そんな子供の表情に似ていた。
ケーキの箱が崩れないよう気をつけつつ、「姉さんの家に行くのは嫌か?」
「そんなわけないじゃない。わたしが言い出したことだもん」
「じゃあ、どうしてそんなに身構える?」
「だって……」
夢月は光一の裾を掴んだ。
「お父さんとお母さん、わたしのことなんかわからないよね?」
「……たぶんな」
「しょうがない、よね……」
車一台しか通れないような歩道をまっすぐに歩いていくと、左手側に洋風の、三階建てのアパートがあった。
「わたしの家……」
見ていられなくなり、光一は無理やり夢月の背中を押した。
「ちょ、ちょっと、おじさん……!」
「いいから、行くぞ」
三階に上がり、突き当りの部屋の前に立つ。夢月の顔はすっかりこわばっていた。
チャイムを押す。
それからしばらくして——「はーい」とドアが開いた。幼い子供の声。小さな手をドアノブに引っかけて、こちらを見上げているのは、四歳の夢月だった。髪が肩まで届いていて、マンガのキャラクターの絵が入ったシャツを着ている。
「こーいちだー!」
「おお、元気だったか。夢月。また大きく……」
言い終えるよりも速く、がしっ、といきなり全身で足を掴まれた。思わず頬が緩んだのは一瞬で——すぐに離れて、「ママ、ママー!」とリビングへ飛び込んでいく。
「こーいちがきたー!」
「はいはい、大きな声出さなくてもわかってるっての」
洗濯カゴを手にしつつ、千晴が出迎えてくれた。それから少し遅れて、「やぁ、光一さん」とキッチンから顔を出してくれたのは
千晴はロゴ入りのシャツにジーンズとラフなスタイルだが、悟郎はスラックスにシャツ、エプロンと、さながら喫茶店のマスターの服装である。実際、光一よりも一歳年下であるにも関わらず、喫茶店を経営しているという凄腕だ。
千晴は夢月を抱き上げ――「うん?」と首を傾げた。
「光一、ちょっとどいて。……えっと、すみません。どちら様でしょうか?」
後ろの夢月は「あ、あの、あ……」と言葉にできてなかった。この日のために打ち合わせをしていたのだが——やはり実の親を前にして、動揺しまくっている。
だが、それは織り込み済み。
下手したら泣いてしまう可能性があったため、光一は先手を打った。
「ああ、この子は
「で、あんたが預かることになったと?」
「まぁ、そういうこと」
「ふぅん……?」
まじまじと、十六歳の夢月と光一とを見比べている。
「失礼ですよ、千晴さん」と、やんわりたしなめたのは悟郎だ。
「ここで立ち話もなんですし、入りませんか?」
光一は内心で悟郎に感謝し、「では、お言葉に甘えて失礼します」
「……ます」
夢月もぎこちなく、一礼した。
まず悟郎にケーキを手渡し、「好みに合うといいんですが」
「いえいえ。光一さんの選んだものなら、なんでも喜ぶと思いますよ、夢月は」
朗らかに答えつつ、キッチンへと持っていく。
悟郎は光一にも千晴にも、そればかりか四歳の夢月にも、律儀に敬語を使ってくる。元々そういう性格らしく、「堅苦しいのよねぇ」と千晴から酷評されている。
キッチンからは茶葉のいい匂いが漂っていた。「無理して高級なものを使わなくても、淹れ方を知っていれば、誰でもこういう匂いは出せます」というのが悟郎の弁だ。
「ねー、こーいちー、あそぼー」
くいくい、と引っ張ってくる四歳の夢月。「わかったよ」と苦笑交じりに言い——肩越しに十六歳の夢月を振り返ってみた。所在なさげに鞄を持ったまま、ぽつんと立ち尽くしている。
「ほらほら、睦月さんでしたっけ? こちらの椅子をどうぞ」
「あ、す、すみません……」
見かねたのか、千晴が椅子を引いて睦月——もとい、夢月が腰かける。
光一は不安を感じつつも、四歳の夢月の遊び場に連れていかれた。今はお絵かきにハマっているらしく、書いては消して、スタンプも押して、と繰り返している。ただ、十六歳の夢月が気になっているらしく、ちらちらと窺う素振りを見せていた。
「紅茶を淹れました。舌に合うとよいのですが」
悟郎がトレイにソーサー付きのカップを運んできた。音ひとつ立てず、丁重にテーブルに置く姿は堂に入っている。
「あ、ありがと……ござ、います」
「いえいえ、そんな緊張しなくても大丈夫ですよ。何もあなたを取って食おうってわけじゃないんですから」
悟郎にしては珍しく、冗談めかした言い方だった。
「ケーキは今、食べますか?」
「あ、その……後で、大丈夫です」
「わかりました。光一さんは?」
「ああ、俺も大丈夫です」
そうですか、と悟郎は軽く一礼してキッチンに戻る。
ふと、席に着いた千晴がじぃーっと十六歳の夢月を見ていた。どこか探るような目つきだったため、光一の脳内で黄信号が鳴る。同じく、カップを持つ夢月の手が震えていた。
「あ、あの、な、何か……」
「失礼ですけど……どこかで、会ったことありませんか?」
千晴のストレートな問いに、二人とも一瞬息が止まった。
「き、気のせいじゃないかい、姉さん?」
「あんたには聞いてないわよ、光一」
「…………」
千晴は頬に手を当て、唸っている。
「うーん……ほんとにどっかで見たことがある気がするんだよね。でも思い出せない……あたしも歳ってことかなぁ?」
「そうですね……僕の目から見てですが、高校生の頃の千晴さんに似ていると思いますよ」
あろうことか、悟郎がとどめを刺した。
「あ!」と手を打ち、千晴が大きく目を見開いた。
「確かにそうだわ! あー、そっか……確かに似てるかも。髪型はあたしの方がずっと派手だったけど、抑えめにしたらこんな感じかもしれない」
不思議ねぇ、と夢月をまじまじと眺める。
「なんだか、他人の気がしない」
「あなたもですか? 実は、僕もなんですよ」
内心、冷や汗が流れていく。おそらくそれは夢月も同じはずで、さっきからカップを持った手が硬直したままだ。
そこに、意外な人物が助けてくれた。
四歳の夢月がいつの間にか光一のそばを離れて、十六歳の夢月を見上げていたのである。お互いがお互いの目を見て——四歳の夢月が、不思議そうに首を傾げている。
「おねーちゃん、むづきとおなじなまえなのー?」
「あ、えっと……わたしはむづ……じゃなくて、睦月っていうの」
「むつき?」
「その、一月に生まれたから。一月は、睦月って言ったりするの」
「ふーん、そうなんだ」
すると、もう興味をなくしたらしく、ててて、と光一の元へ戻った。いきなりおもちゃ箱から人形を取り出し、頭を撫でたりしている。
今だ、と光一は立ち上がった。
「悟郎さん、紅茶、ごちそうになってもいいですかね?」
「あ、全然構いませんよ。むしろ飲んでくれないと、腕の振るい甲斐がありませんから」
リビングに戻り、ソーサーを片手に紅茶にひと口つける。それに倣うように夢月も、ようやくカップに口をつけた。
千晴もそれ以上の追及はせず、「あんた、仕事はどうなの?」
「まぁ、ぼちぼちかな」
「来る度、そればっかり。なんか面白いこととかないの?」
「いや、どうかな……」
まさか夢月と黒乃とで引っ張り合いになっている、とは口に出せようもない。
「姉さんこそ、どうなのさ」
「今のところは、相変わらずよ。夢月を保育園に預けて、時短勤務。悟郎と二人で働いてた時よか給料は下がったけれど、満足してるわ」
「そう?」
「そうよ」
千晴は四歳の夢月に、愛情のこもった眼差しを向けていた。その顔つきは実家にいた頃からは考えられないほどに、優しかった。十六歳の夢月はその横顔を見——「いいな」と光一にしか聞こえない声でつぶやいた。
悟郎も戻り、ふわりと平穏な空気が流れ始めたところで——
「そういえば睦月さん。あなた、どこで寝泊まりしてるの?」
ぶふっ、と光一は紅茶を吹き出した。
千晴が眉をひそめたが、それどころではない。聞かれるかもしれないという懸念こそはあったが、よりにもよってこのタイミングでとは。
「あ、おじ……いえ、光一さんの家で寝泊まりしてます」
それまでの空気が一瞬にして凍りつく。
光一の脳内で黄信号から、赤信号に切り替わった。まずい、と思った時には——すでに千晴はもはや般若といってもいい形相でこちらに首を向けていた。
「……光一。あんた、まさか……」
「いや、何もない! 俺はこの子に勉強と、寝る場所を提供しているだけ! 神に誓って何もしてない!」
「嘘おっしゃい! 神なんか信じてもないくせに! それにあんたの家、1Kでしょうが! あのよくわかんないロボットだらけのクソ狭い部屋で、二人で寝られるだけのスペースなんてあるの!?」
「千晴さん、失礼ですよ。あと、言葉遣いに気をつけた方が……」
「黙らっしゃい! どうなのよ、光一!」
「その、えっと、光一さんは椅子で寝てるんです。一緒に寝るのはまずいからって……」
「当たり前よ! どう見たって十代の子じゃない! あんた、曲がりなりにも養護教諭でしょ! 学校にバレたらどうなるか、わかってるんでしょうね!?」
「わ、わかってる! だから、彼女の両親が来るまでの間だって……」
「その間になんかあったらどーすんのよ!」
「なんかって、なんだよ!」
耐えきれず、とうとう光一も声を荒げてしまった。唸り声を出さんばかりの千晴の目がはっと開き——視線の先には、怯えた様子の、四歳の夢月がいた。
千晴はとっさに光一の横を通り過ぎ、夢月を抱え、「なんでもないのよー」
「ごめんね、大きな声出しちゃって」
「こーいち、いじめられてるのー?」
ぐ、と千晴は言葉を詰まらせた。それまでの激昂が一瞬にして冷めてしまう。
さすが、泣く子は強い。
「い、いじめてなんかないわよー? 仲良くケンカしてるだけよ?」
「いや、それはそれでどうかと思うんだけど……」
「黙ら……」
「ケンカ、いやー」
「わ、わかってる。わかってるから。ほらほら、泣かないの」
ほろほろと涙を流す四歳の夢月。
それを必死にあやす千晴。
今、十六歳の夢月はこの光景を見てなんと思うのだろうか。羨ましい、とか懐かしい、とかそんな風に思ったりするのだろうか。
ただ、もしかしたら——この子には残酷な光景かもしれない。
連れてきたことを後悔しかけた時。
「ケーキを出せば、機嫌が直るんじゃないですか? ……光一さん。悪いのですが、少し手伝ってもらえませんか?」
「あ……はい」
悟郎が立ち、一拍遅れて光一も立つ。キッチンにて「そこに皿がありますので」と指示を出してもらい、光一は人数分の小皿と、フォークを用意する。
悟郎はケーキの箱をじっと見たまま、動かなかった。
「どうしたんですか、悟郎さん?」
光一の呼びかけに、彼はゆっくりと首を向けた。思わず背筋が伸びるほどの鋭い眼差し。
悟郎はリビングに届かないよう、静かに訊ねてきた。
「光一さん。半分好奇心でお訊ねしますが……なぜ、睦月さんを連れてきたのでしょうか?」
「それは……」
「いや……違う。連れてきたというよりは……そう、彼女がここに来たがっていた。それが正確なところのような気がするんです」
「…………」
「なぜでしょうね。先ほども言いましたが、あの子はとても他人とは思えない。むしろどこか……懐かしさを覚える。変なことを言っているとは思いますが——」
続きの言葉は、激しい衝撃音によってかき消された。
二人はとっさに身を屈めた。小皿が落下してしまったが、それどころではない。
「地震……?」と悟郎が口にする。
いや、と光一は反射的に否定した。断続的な衝撃が何度も家を揺さぶっている。
光一が腰を上げかけた時、とっさに家から飛び出す影があった。
床に散らばった小皿の破片に気をつけながら、リビングに戻る。千晴が四歳の夢月をひっしと抱えて、テーブルの下に潜り込んでいた。
そして——その場に、十六歳の夢月はいなかった。
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