第4話「空に浮かぶ時計」
今日も街は相変わらずだった。往来を行き交う人々も、所々で点滅しているライトも、無数の車のガスの排出音も。
光一は人混みをすり抜け、駅へと歩く。上着がやや暑苦しい。そろそろ教職員向けにクールビズの呼びかけをしないといけない——そう思うと、多少面倒に感じられた。
「あれ、何?」
不意に聞こえた声に、光一は首を傾げた。
すぐ後ろの若いカップルの内、女性が空に向かって指さしている。つられてそちらの方を見ると——街の上空に、巨大な時計が浮かんでいた。
鎖のない懐中時計。
月の見間違いではない。何より、月に文字盤などあるわけがない。
縁は金色で、現在の時刻を克明に刻んでいる。
歩行者のほとんども気づいたらしく、足を止める者が多数いた。中には写真や動画をのんきに撮っている者もいる。
時計の針が八時四分を示している。
かち、かち、と秒針の音が段々と大きくなっていく。それを聞き、なぜか肌が粟立った。先ほどのカップルは「何が起きるんだろ?」と期待に声を弾ませていた。
八時五分まで残り、三十秒——
音がより大きくなり、もはや街中の騒音をかき消すほどだった。渋滞に苦しんでいるタクシーの運転手が、窓から乗り出して「うるせーぞ!」と声を張り上げ――空に浮かんでいる懐中時計を見て、ぽかんと口を開けていた。
十秒。九、八、七、六……
光一は我知らず、一歩退いた。
五、四、三、二、一……
そして——八時五分を指した。
その瞬間、懐中時計が——正確には文字盤が光った。その光は五分を指したばかりの長針に収束され、時計の外側に飛び出した。眩いばかりの光が剥離し、銀色の長針があらわとなり、くるりと針先を、車が密集している地面に向ける。
その長針が、落下した。
複数の車を巻き添えに、道路に穴を穿ったのだ。
衝撃で吹っ飛んだ車は四方に飛び、近くのビルに突っ込み、あるいは通行人を巻き添えにした。瓦礫や破片がそこら中に散乱し——いくつもの悲鳴が重なった。
我先にと逃げ出す者が続出し、光一の存在などお構いなしにぶつかってくる。だが、光一の意識は地面に落下したばかりの長針に向けられている。
その長針は、変化を起こしていた。
緑色の球体から、四本の触手が生えてきたのだ。最初は軟体動物のようにゆらゆらとしていたが、次第に明確な形を伴い、装甲をまとった手足になる。足を支えにした後で針先は縮み、前垂れのごとく腰からぶら下がっている。
そして緑色の球体の上部に、頭部としか呼べないものが出てきた。
円形で、縁は銀色。真っ黒な顔に赤い瞳がひとつ。そして頭頂部には
最後に、全身に赤色のラインが走った。時計回りに首、肩、腕、足にと発光していく。合計で十二本のラインが、その巨人をより鮮やかに輝かせていた。
銀色の——時計の巨人。
ビル五階ぶんに相当する高さの巨人は、ゆっくりと首を動かした。赤いひとつ目をぎゅるぎゅると動かしていて、何かを探しているように見えた。
そして、巨人と目が合った。
気のせいなどではない。光一の姿を認めた瞬間、赤い目が動きを止めたのだ。装甲をまとった巨体をこちらに向け、車を踏みつけにした。
(まずい——)
光一は鞄を両手に抱え、人々が逃げ惑う先とは反対の方向——人通りの少ない方向——に走り出した。予想通り、巨人が追いかけてくる。信号を紙切れのようになぎ倒し、無造作に振った腕がビルの一部を破壊し、光一の足元にも破片が飛んでくる。
「なんの冗談だ、これは……!」
その声に応えるかのように、巨人の目がひと際強く発光した。
反射的に、歩道の脇の植え込みに向かって飛び込む。きゅいん、と赤い光線が光一の後ろを走り、次の瞬間には波のような火炎が噴出。切り裂かれたビルの一部が崩落し、慌てて植え込みから脱出する。背後でビルの一部が落下するのを肌で感じながら、なおも光一は足を止めなかった。
(どうする、どうする——?)
走りながら、ふと、思いついた。ここから少し離れた位置に桜が見どころとなっている
(そこまで誘導できれば!)
誘導できたとして、その後どうするのか——その懸念こそはあったが、今は逃げることに専念するしかない。
巨人の方を振り返ると、道路に足跡を残しながら、執拗に追いかけてきている。断続的な振動が何度も光一の体を揺さぶり、危うく足がもつれそうになった。
その時——子供の泣き声が聞こえた。
ばっと首を動かすと、道路を挟んだ向かい側に男の子がいた。逃げるしか頭にない人々は、その子の姿が見えていない。
そのまま逃げろ、と——光一の中で誰かが叫んでいた。
助けろ、とも。
「——ええいッ!」
迷う間もなく道路を横切って——赤い光を間近に感じながら——その男の子の元に駆けつけた。下からすくい上げるように抱え、背中を地面に向けつつ、思いきり前に飛んだ。
赤い光が、光一と男の子のいた位置を横なぎに焼いた。立ち昇る火の壁の熱さに足を焦がしそうになりつつも、光一はかろうじて立ち上がる。
泣いているのか、呆然としているのか微妙な表情をしている男の子は、ただ光一を見上げていた。小さな眼鏡に亀裂が走っていたが、他に目立った外傷はないようだった。
「大丈夫か?」
小刻みに震えつつも、こくりと男の子はうなずいた。
「強い子だ」
光一は不器用ながらも、口の端をつり上げた。そしてビルとビルの合間の小路の存在に気づき、男の子を下ろす。小路の方を指さして、「あっちまで走れるか?」
男の子はまた、こくこくとうなずいた。
「俺は向こうに行く。怖いだろうが、とにかく逃げろ」
迷いと怯えをあらわにする男の子の背を、光一はぱん、と強めに叩いた。その勢いに押されてしまったように、そのまま逃げていく。
息をついたのも束の間——巨人が間近にまで近づいてきていた。誘導するどころか、逃げるのも無駄だというように。
(まずい——)
巨人が拳を振りかぶる。
無意識に光一はポケットに手を伸ばしていた。
中にはパスケースが収まっていて、その中には姪の——
巨大な拳が迫る。
(ここで死ぬのか……?)
俺が死んだら、あの子は悲しむだろうか——
もうすぐ五歳になる。まだ誕生日を祝っていない。
死というものを直感的に理解できる歳だ。
もう、どこを探してもいないということが理解できる歳なのだ。
(——死ねない。死ぬわけには……!)
だが、足が動かない。もうすでに巨人の拳が目の前にあるというのに、動いてくれない。
光一は目を閉じた。
(ごめん、夢月——)
しかし、想像していたような事態は起こらなかった。
金属と金属とがまともにかち合った音が、光一の鼓膜をしたたかに打った。
それに伴う衝撃と突風が、光一にしりもちをつかせる。
目をしばたたかせていると、巨人の胸部に、黒い槍が突き刺さっていた。柄も含めて、巨人の全高を超える長さだ。
唖然とする光一の背後でふわりと、風が舞う。
おそるおそる振り返ると——そこには翼を広げた、ロボットがいた。
街灯によって、女性的なシルエットが照らし出されている。
先端の尖った黒みがかった青い羽が六枚。胴体、手足は白く、細い。頭頂部から胸部にかけては青紫色で、首筋は赤い。足先はヒール状になっており、非常に鋭い。
何より目を引くのは頭部の形状だ。鳥のくちばしを連想する口部と、頭頂部から突出したブレード状のアンテナ。目の周辺、そしてくちばしの周りは赤色に染まっていた。
さらに、尻尾のようなものも生えていた。それも二又。
これらの特徴から、光一はほとんど直感的につぶやいていた。
「ツバメ……?」
その時、光一の脳裏にある記憶がよみがえった。それは幼い頃の記憶で、好き勝手にロボットの絵を描いていた時のものだ。鳥の図鑑を参考にして、色々な武器を持たせてみたり、空を飛ばせてみたりした――遠い過去。
その過去に描いたものと、目の前のロボットの外見が酷似していた。
『大丈夫、おじさん?』
突然聞こえた声は、まだ若い——少女のものだった。
『下がってて。こいつらはわたしがやるから』
そう言ってロボットは光一の頭上を飛び越え、巨人目がけて翼を広げた。
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