第一章「来訪者」

第2話「養護教諭、狭間光一」

「先生には、たとえ世界中を敵に回してでも、守りたいものはありますか?」


 夕陽が差し込んでいる保健室にて、その女生徒は尋ねてきた。


 光一は眉を寄せ、くるりと椅子の向きを変えた。


「ずいぶんと変わった質問だね。どこかの小説か、映画からの受け売り?」

「あら、バレちゃいました?」

「……まったく、大仰な質問だな」


 言いつつ、光一はデスクの上にある写真立てを見た。


 光一の腕にしがみついている、三歳の頃の姪っ子の写真。何も知らない無垢な笑顔。それを見ていると、つい顔が緩みそうになる。


 女生徒の視線に気づき、光一は咳払いした。


「世界中を敵に回してでも、か……そもそも世界ってのがピンとこないな」

「文字通りで捉えていいんですよ。世界各国から狙われるとか。そんな状況になっても、それでも守りたいものがあるのかどうか知りたいんです」


 真剣みを帯びた口調だった。


 目の前の女生徒——黒乃くろのすみかは保健室の常連だ。今どき珍しく三つ編みにしていて、やや痩せ気味。実は美人であることを隠すかのように、縁の太い眼鏡をかけている。スカートも長く、アクセサリーも洒落っ気もない。


 一言でいえば、地味だ。あえてそうしているのかもしれないが。


 そして彼女は事あるごとに「ケガをした」だの、「具合が悪い」だのと理由をつけてやってくる。ただ、ケガなどどこにも見当たらないし、これといった持病があるわけでもない。ベッドに転がり、光一の仕事を眺めて、「お邪魔しました」と言って帰ってしまう。


 そういうことがほぼ毎日続くので、光一はすっかり慣れてしまった。


 教室にいるのが嫌なのだろうか。


 友達と話すよりも、空想にふけっている方が楽しいのだろうか。


 だから今のような、どこかのフィクション作品から引用した問いかけをしたのかもしれない。しかし、自分のようなアラサーの男性から何を引き出そうというのか。


 ひとまず、彼女の問いに答えることにした。


「まぁ……しいて言うなら姪っ子かな」

「出た、先生の姪っ子ラブ。そこは普通、自分の子供だって言いませんか?」

「それは僕が独身だと知ってのセリフかい?」


 ふふふっ、と黒乃は口に手を当てて笑った。


「姪っ子さんのためなら、命も惜しくないとか?」

「……そうだね」


 椅子の背にもたれかかり、虚空に視線をさまよわせる。その時、黒乃の目がすっと細くなっていたことに、光一は気づかなかった。


「どうしてそう思うんですか?」

「んー。それ以上は言えないな。プライバシーの侵害ってやつ」

「じゃあ……ちょっと失礼ですが、自分に子供がいないから可愛がってるとか?」

「あー……まぁ、そういうことにしておいてくれるかい?」


 ふぅん、と黒乃は気のない返事をした。彼女にとってはつまらない答えだったのかもしれない。


 光一は掛け時計を見た。黒乃もつられて——「すみません」と唐突に謝ってきた。


「先生のお時間、取らせちゃいましたね」

「いいや、気にすることはないよ。仕事だからね」

「……仕事だから、ですか」


 その口ぶりに、光一は引っかかるものを覚えた。


 黒乃が足元の鞄を手に立ち上がる。扉まで歩いて、「失礼しました」


「ああ。いつでもおいで」


 そう言ったものの、今の言葉が彼女に響いていたかどうか、光一には判断つかなかった。


 黒乃は扉を開け、振り返ってもう一度軽く頭を下げて——それから閉めた。


 しん、と静まり返る。


 光一は扉をじっと見——嘆息した。


「仕事だから、か。我ながら、壁を作る発言だな……」


 デスクの上の日報を取り出した。


 黒乃についての記述は毎日のようにあるが、大抵が「異常なし」だった。自分でつけた記録のくせに、肝心な部分が書いていないことに、またしても光一はため息をついた。大学時代からの、自分の日記は事細かに書いているくせに。


 光一は椅子の背に体重をかけ、天井を仰いだ。


「どこまで踏み込んでいいのやら」


 自分はあくまで養護教諭だ。たまに生徒から簡単な相談事を受けることもあるが、必要以上に聞き出すことはできない——そう思っている。


 だが、黒乃は光一に心を許してくれているようだ。


 それは嬉しくもあるが、同時に厄介でもあった。何かしら悩み事があった時に、適切な対応が自分に取れるのだろうか。


 ——余計な感情抜きで。


「こういう場合、話してくれるまで待つのが正解なのかね……」


 日報を戻すタイミングで、コンパクトなカレンダーが目についた。今日が大事な日であることを思い出した光一は、「おっと」と声を上げた。


「さっさと仕事を片づけるか」


 さっきとはうって変わって、その口ぶりは弾んでいた。

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