▼16「新学期」
空はまだ暗かった。
少しだけ雪が降っていて、薄っすらと道路がコーティングされている。気温は氷点下を下回っているだろう。
けれど僕は、着込むコートを脱いでしまいたいぐらいに汗をかいている。
走っていた。
冬休みの間ずっと引きこもっていたから、突然の運動はすぐに痛みを呼んだけれど、次第に気にならなくなっていった。
それよりも早く教室へ、と。
焦りと欲求ばかりが頭の内を占めている。
学校に辿り着けば、不気味なぐらいに静まり返っていた。
校舎内に電気はついておらず、先の見えない闇が潜んでいる。鍵は開いているようだった。こんな時間でも練習を始めている部活動はあるのかもしれない。
頭や肩に乗る雪を払い落としながら靴を履き替える。屋内になったからコートは脱いだ。
階段を駆け上って、見慣れた教室の前へ。
3年2組。
その空間を視界に入れてようやく、この2週間でたまり続けていた不安が、一気に解放された気がした。その安心感は、自室にいる時よりもずっと大きかった。
がらりと戸を開ける。まだ時計は6時を回ったところ。
それでも、早く来すぎたとは思わない。
『早いわね、三戸くん』
安立さんこそ、早いね。
教室に足を踏み入れた途端、聞こえてきた声におかしくなって僕は笑った。
安立さんも笑っていた。考えることは同じだったか、ととても嬉しくなった。
教室には誰もいない。
僕は自分の席に座って、電気もつけずにぼんやりと外を眺めた。
見えていなければ、もしかしたら彼女の存在を感じられるかも、などとも考えていた。
「冬休み、長かったよ」
今は誰もいないからと声に出して、頭の中に語り掛ける。
それは、もっとちゃんと会話をしている気分を味わいたかったから。より近い場所にいたかったから。
すると、彼女の方も真似をしてくれているようだった。
『あたしも長く感じたわ』
「雪、少しだけ積もったね」
『ほんの少しだけね』
「これじゃあまだ雪だるまは作れないか」
『そうね。ところで勉強はしたの?』
「もちろん。休みの間はずっと机に向かっていたんだよ?」
『ふふ、あたしもよ。受かるといいわね』
「うん、安立さんも受かると良いね」
いつも通りの起伏のない会話。取るに足らない雑談。
それだけで胸の内には最上の喜びがあって、誤魔化しきれない頬の緩みに襲われる。
けれどこの時間もあと2か月。教室に来る日数なら40日もない。
だからか僕は、少しだけ踏み込んでいた。
「安立さん、そっちには僕がいないんだよね?」
『そうね。そっちには、あたしがいないんでしょ?』
うん、と声に出して頷く。
僕はそれから彼女の席を眺めた。相変わらずの空白だった。薄暗いからといって、亡霊を見るなんてあるわけもない。
「そっちの僕は、どうしていなくなったの?」
『交通事故で亡くなったんだって。あたしは?』
「海で溺れちゃったんだって」
お互いに、人から聞いたことでその現場を見たわけじゃない。それでも僕らの思考が繋がる理由はあった。
『じゃあ、あの日、あたしは三戸くんに助けられたのね』
「僕に?」
『そうよ。三戸くんは岩場にいるあたしに注意してくれたのよ』
そうだったのか、とその事実が嬉しいとともに、今の自分がとても惨めに感じた。
やはりあの時に僕は、彼女を救えたのだ。それなのに、なんとなく一歩踏み込めないというだけで、彼女を見殺しにしてしまった。
今話している安立さんは、きっとここではないどこかにいるのだろう。
それは、この星の、宇宙のどこを探しても見つからないような遠くだ。
僕らは、いくつもある可能性の内の、別々の一つだった。
もしかしたら、お互いに望むような関係になっている未来もあるのかもしれない。全く関わりないまま中学生活を終える僕たちもいるだろう。
けれど、どうやってもそこに行くことは出来ないのだ。
僕はここで、彼女はそこ。席はずっと変わらないままだ。
安立さんは細かな事情を語ってくれる。
『三戸くんは、注意だけしたらすぐどっか行っちゃったわ。あたしはとっさに感謝も言えなくて、何か言うべきだったかと思ったけど、まさか事故に会うとは思わず後回しにしたの。教室で顔を合わせた時にでも一言いえばいいかなぐらいに。でもあの日、三戸くんは車に轢かれて亡くなっていた。世界はあたしが見ていないところでもちゃんと動いているんだな、って初めて実感したわ』
その実感は、僕も思い当たりがあった。
現実はあまりにも平坦で、見えない内に色々終わっている。だから手を伸ばすべき時も分からない。不確かな後悔ばかりが残るのだ。
……僕は、車に轢かれてしまったのか。
それなら今後は気を付けないといけないなと思いながら、確かにあの日、そんな危険があったことを思い出す。少しだけ、あの砂浜を去る時間がズレただけで、そんな結果になったのだろう。
『そう聞くと、あたしのせいよね』
「そんなことないよ。完全に僕の不注意だ。それに僕だって安立さんを助けられなかった」
『それこそ、あたしがあんな所にいたから悪かったのよ』
そんな風に、責任をどうこう言い合ったところで意味がないとは分かっていた。
過去には戻れない。やり直しはきかない。
それは、ちゃんと理解しているつもりだ。
「それじゃあ、なんで安立さんはあんな所にいたの?」
『友達に誘われて海に行ったら、話したことない男子がいて、なんだか空気が合わなくて逃げていたの。本当に何かをしていたってわけじゃなくて、ただ時間が過ぎるのを待って、ぼーっとしていただけよ』
「そっか。あんまり大したことじゃなかったんだね」
なんとなく安心した。もしかしたら、彼女は僕の知らないところで重たいものを背負っていて、自ら沈んでしまったのかとも考えていたから。
『まあそうね。うん、大したことじゃなかったわ。それで、三戸くんはゴミ拾いをしていたの? 火ばさみとか持っていたわよね』
「うん。急に仕事が入った親の代わりに町内会のボランティアに参加していたんだ。と言っても暑すぎて中断されたんだけどね」
お互いに事情を知って、そこに大きな因果も何もないと知った。
あの場所にいたのは単なる偶然。
いくつもある分岐の一つがそこなだけ。
安立さんに声をかけられなかった僕と、声をかけた僕。
きっと、他にももっと別の僕たちがいるのだろう。
『あたし、三戸くんに感謝の一つでも言えれば良かったって後悔していたわ』
「僕も、声をかけていればって後悔していたよ」
その後悔が、僕らを繋いだ。
でもそれが解消されることはない。
僕らが本当に話をしたいのは、いなくなったお互いだった。
顔を見て語らい合いたかったのだ。
とは言えこの関係だって、すっかり尊いものになっている。
『卒業したら終わり、なのよね』
「この教室だけでしか聞こえないしね」
先のことを考えるとどうしても切なくなった。
時間が止まればいいのにと願ってしまう。
それと同じくらい、彼女に会いたい、とも。
僕はもう、彼女を好きになっている。
それは、どのタイミングだっただろう。
向こうの気持ちを知った時か。話している内にか。もしかすると、あの日横顔を眺めている頃にはもう惹かれていたのかもしれない。
この気持ちはすっかり膨らみ切ってしまって、隠すことなんて出来なかった。
けれどそれ以上に、実らせることだって出来はしないのだ。
『ねえ、いつも通りにしましょう』
安立さんが言った。
その裏側には諦めや願望や、僕が浮かべたものによく似た声が浮かんでは消えていたけれど、ハッキリと向けられた、声に出して告げられた言葉にだけ、耳を傾けた。
『この声はあくまでも妄想。そう割り切りましょう。そして、楽しみましょうよ。卒業までの、期間限定の遊びってことで』
これ以上、近づくことは不可能だから。
そうやって線引きをして、気持ちに整理をつけようというのだろう。
きっとそれが正しい。
この声を聞かないようにするには、教室を出なければいけない。この時期に反抗的になる勇気は生憎となかった。
だから、線を引くのだ。割り切ってしまうのだ。
この苦しさは、3月になれば消えてくれるはずだから。
その後に別の苦しみを味わうのは分かっていたけれど。
「うん、そうだね」
僕は頷いた。
ちゃんと発声出来ていたかは分からない。
けれど彼女には声の震えは届かないから、大丈夫だろう。
僕らの繋がりはどうしたってこの頭の中だけにしかない。
お互いに姿を見ることも出来ない。
髪を切っても指摘出来ない。糸屑がついていても払ってやれない。
顔を見て、笑い合うことは出来ないのだ。
僕らはそれから、今までのように、なんてことのない会話を繰り広げた。
二転三転する話題を更に転がして、途切れることなく談笑する。
ただし、もう声には出さなかった。
教室はまだ僕以外に人はいなかったけれど、その行為はやめた。
少しでも近くに感じようとすれば、もっと求めてしまうから。
好きな人の声が聞こえる。死んだ人と会話が出来る。
それは結局、妄想の範囲でしかない。
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