時が凍る―――

「………ひっく……」



 ユエはずっとすすり泣いている。

 その隣で、実は疲労困憊こんぱいといった様子で肩を上下させていた。



 あんな無茶な魔法の使い方は、初めてかもしれない。

 少しの後悔と、大部分の仕方ないという気持ちが心の中で交錯する。



 どれくらいの人間にユエの出現を見られたか分からないので、あのワンフロア全体に眠りと記憶改ざんの魔法をかけた。



 しかも、なんの準備もなく急にだ。



 いつぞやのサリアムのように、学校全体への暗示という広範囲の魔法もあるが、あれはそれなりの下準備があってこそできる芸当だ。



 今回とは訳が違う。



 魔法の出力は調整したので、おそらく眠った人たちはもう起きている頃だろう。

 本人たちは、自分がどうして倒れているのか分からないだろうが。



 一つ気になることがあるとすれば晴人のことだが、彼のことだからこちらを疑ったとしても、追及はしてこないはずだ。



 とにかく今は、地球では考えられない現れ方をしたユエの存在と、ユエと自分が知り合いだという事実を揉み消せればそれでいい。



 人々が一気に倒れたことは多少騒ぎになるかもしれないが、ユエと自分のことで騒ぎになるよりは遥かにマシだ。



 まあ、そんな理屈はともかく。



「つ……疲れた……」



 途方もない疲労が実の頭を埋め尽くす。



 焦りのあまり、思わず家まで逃げてきてしまった。



 不特定多数の人間に対しての昏睡と記憶の改ざん、それに加えての次元移動という魔法の連続酷使のせいで、体はひどい疲労感に包まれていた。



 本当ならもう動きたくないが、今はそんなことも言っていられない。



 実はなんとか呼吸を落ち着けて、椅子から立ち上がる。

 そして、未だに泣きやまないユエの前にしゃがんだ。



「ユエ、何があったの?」



 小さな体に問いかける。



「アティがあそこまで慌てるくらいだ。相当大変なことになってるんでしょ?」



 アティの焦った声。

 きっと、事態は急を要する。



 ユエは答えない。

 相変わらず、くぐもった泣き声が耳朶じだを打ってくるだけだ。



「ユエ!」



 実はユエの薄い肩を掴んだ。



「大丈夫だから!」



 驚いて見開かれた黒い瞳に、実は強く言い聞かせる。



「俺がなんとかするから、ちゃんと話してくれ。桜理に何があったんだ!?」



 最後は、悲鳴のような叫びになってしまった。



 本音を言えば、今すぐにでも向こうへ行きたい。

 それでもこんなユエを放っておけないと、必死に理性を保っているのだ。

 頭の中は焦りと恐怖と不安でないまぜになって、混乱しそうになっている。



 桜理に何か危険なことが起こること。

 それが、自分が何よりも恐れていることなのに。



「桜理……が……」



 実の雰囲気に気圧されたユエの唇が、微かに震える。

 そして―――





「桜理が、いなくなっちゃった。」

「―――」





 実の目が凍る。



 時間が止まる。

 音という音が、唐突に消え失せる。



 痛いほどの静寂の中で、ユエの声だけが反響を残して空気を震わせている気がした。



「捜しても、どこにもいないの。」

「………」



 実は口を閉ざす。



 広がる無音。

 深まる沈黙。



 ユエは目に溜まった涙を拭う。

 ふと、その頭に何かが被せられた。



 それは、実がさっきまで着ていた制服のブレザーだ。



「実?」



 何も言わずに立ち上がった実を見上げ、ユエは首を傾げる。



「ユエ。送るから、拓也たちの所にいて。」



 零れた声は、まるで深い水底のように静かだった。



 実が腕を振るうと、光の帯がその身を包み始める。

 ユエを自分の近くに呼び、実は深く息を吸った。



「拓也、尚希さん。」



 魔力を込めた声で、遠くに意識を飛ばす。



「緊急事態が起きたので、俺は行きます。俺から事情を話している暇はないので、拓也たちの家に一人置いていきます。詳しくは、その子に聞いてください。」



 言うだけ言って、実は一方的に繋がりを断つ。



「桜理、無事でいて…っ」



 その声は、悲痛な響きを伴っていた。


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