第1章 罠

一つのけじめ

 部屋の中は薄暗い。

 電気は一切ついておらず、窓から差し込む月明かりだけが優しく室内を照らしている。



 時おり吹き込んでくる春をまとわせた涼しい風がカーテンをはためかせ、床に伸びる影をゆらゆらと揺らしていた。



 しん、とした室内。



 夜の静寂に満ちた空気は自然と息をひそめさせて、どんな些細な物音もその存在をあらわにされるようだ。



 住宅地の奥まったこの場所では大通りの喧騒も届くことはなく、窓から見える外の道路には車どころか人一人いない。



 周辺の住宅は漏れなく明かりが消えており、この辺り一帯は夜のとばりに包まれて、ひっそりと静寂に沈んでいた。



 都市化が進んでいくこの街では、もう珍しい光景かもしれない。



「……うん。」



 その静寂の中に溶け込むように、実は一人たたずんでいた。

 その耳元では、携帯電話が光っている。



「うん……でも、ごめん。もう無理なんだ。」



 携帯電話から、微かに声が漏れる。

 その声を聞きながら、実は小さく首を横に振った。





「―――俺は、梨央にはもう関わってほしくない。」





 穏やかな、それでいて揺らぎない拒絶の言葉。



 耳に当てた携帯電話から、涙ぐんだ声が響く。



 どうしてという問い。

 心配しているのにという、怒りじみた言葉。

 複雑な感情に揺れる声。



 ―――離れたくないという願い。



 実はそれらを、遮ることなく全て聞いた。



 ささやかな相づちを打ちつつ、電話の向こうの梨央が話すことをやめるまで、静かにただ聞いていた。



「ごめんね。」



 実は長い梨央の言葉の末に、そう告げるだけだった。



 下した決断は固い。

 実の中で、答えはとうに決まっていた。



「全部俺の都合だ。身勝手なのは分かってる。でも……」



 実はあくまでも穏やかに、静かな口調で言葉をつむぐ。

 そこには、迷いを断ち切ったまっすぐな光があった。



「どうしたって、俺は梨央の気持ちに応えられない。それにこれ以上、無関係な誰かを巻き込みたくないんだ。」



 答えは変わらない。

 たとえそれが、梨央を深く傷つけることになるとしても。



「今まで、本当にありがとう。それと、ごめん。」



 実は目を閉じる。



「本当に、ごめん。」





 何度目か分からない、謝罪の言葉が静寂に溶ける―――……




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