第22話 卒業1/5
7月27日(木)10時24分
「病院内は走らないでください」
「すいません、すいません……っ!」
看護師に注意されて申し訳ないと思いながらも、俺はリノリウムの廊下を走っていた。
ここは都内にある総合病院。ばあちゃんの話では、母さんは一時間半前に救急車でこの病院に搬送された。
なんで倒れたのかは知らない。ばあちゃんも詳しいことは知らないようだった。
でも、俺には倒れた理由に心当たりがある。母さんは仕事のし過ぎだったに違いない。ハードなライブを跨いでからも毎日リスナーのためにお悩み相談をやっていたんだ。
……そんなの、倒れるに決まっている。
焦りと苛立ちに突き動かされて走る俺は、病室の前で足を止めた。
表札に『秋山様』とある。ここだ、間違いない。
すぐさまドアを開けて中に入ると、病室には医者とスーツ姿のお姉さんがいたが、俺の注意がその二人に向いたのは一瞬だけだった。
ベッドで母さんが仰向けに寝ていた。
青白い顔で点滴に繋がれている。浅い呼吸を繰り返す母さんの体は、最後に会った一日前よりほんの少しだけ、縮んで見えた。
「母さん……っ」
「息子さん、でよろしいかな?」
初老の医者が尋ねた。
「そうです」
「お母様のご病気について説明したいんだけど、今大丈夫?」
不安になりながらも「大丈夫です」と返事をすると、医者はスーツ姿のお姉さんに目を向けた。お姉さんはすぐに察して、ドアの前でお辞儀をしてから病室を出る。誰なのか知らないけど礼儀正しい人だ。
俺はベッドわきの丸椅子に座らされ、医者から母さんの病気について説明を受ける。
病名は、自律神経失調症。
医者の説明を俺なりに嚙み砕いて解釈すると……人の体には自律神経という生まれたときから動き続けている神経があって、それが過労などのストレスでおかしくなってしまうのが自律神経失調症らしい。
母さんは命にかかわる状態じゃないが、完治には一、二か月かかるとのことだ。それでも治るという話を聞けただけで、俺の不安はだいぶ軽くなった。
「それでは、お大事になさってください」
説明を終えて医者が病室を出ていった。
それから数分後、再び病室のドアがノックされる。
医者と入れ替わりに現れたのは、さっき席を外したスーツ姿のお姉さんだった。
「えっと、さっきの……」
いかにもな清楚美人のお姉さんは、きれいなお辞儀をして長い黒髪を揺らした。すごく仕事ができるキャリアウーマンに見える。
「先ほどはご挨拶もせず失礼しました。私、
「……メタライブの人ですか?」
俺が聞くと、狭間さんは驚いたように目を見開き、それから名刺を取り出した。
「ご存じでしたか……。お母様――天母マリアのマネージャーを担当しております」
差し出された名刺には、『メタライブ株式会社 狭間
マネージャー・はざまねね……〝マネちゃん〟と呼ばれてそうだな。
初めて受け取る名刺を前に下らないことに思いを馳せていたら、突如、マネちゃんが勢いよく頭を下げた。
「このたびはァ‼‼ たいへんン‼‼ もォしわけェありませんでしたァァア‼‼」
うるっせええええええええ!
窓ガラスがビリビリと震え、眠っている母さんが呻くほどのクソでかボイスだった。
「こ、声でかいですよ狭間さん……!」
「ハッ⁉ し、失礼しました……学生時代に焼肉屋でバイトしながらオペラを嗜んでいたもので、緊張すると120デシベルで喋ってしまう癖が。鼓膜、無事でしょうか……」
「なんとか無事っす……ハハ」
外見だけで清楚だと思った俺がバカだった。メタライブはマネージャーまで変人揃いなんだろうか……。
喉にトランペットを飼ってるマネちゃんは、また頭を下げて謝る。
「大変申し訳ありませんでした。お母様の不調を見抜けなかった私の責任です」
「別にマネちゃ――じゃなくて、狭間さんのせいじゃないです。母さんが仕事のしすぎだっただけで……」
「いえ。担当タレントの体調にもっと気を配り、無理にでも休んでいただくべきでした。それと、マネちゃんで構いませんよ。お母様にもそう呼ばれてます」
「あ、そうですか……」
ひとしきり謝った後、マネちゃんは帰った。
帰る直前、「お母様が目覚められたら、名刺の連絡先にご一報いただけますか」と頼まれた。母さんが日中に目覚めるとも限らないけど、「24時間、対応可能ですので」とマネちゃんは不穏なことを自信たっぷりに言っていたし、連絡はいつでもいいだろう。
とりあえず、今は目が覚めるまで待つしかない。
俺はベッドわきの丸椅子に座ったまま、祈るように母さんの傍に居続けた。
何もせずにじっと待つ。もし俺がスマホさえ触らず真剣に待っていれば、どこかで見ている神様がご褒美に母さんを目覚めさせてくれる……そんな根拠のない考えに縋るしかなかった。
静かな部屋でどれだけ待ち続けただろうか。
背もたれのない丸椅子に腰が痛くなって身じろぎした、その瞬間。
ベッドの上で母さんの指が微かだが、動いた――
「っ、母さん……!」
即座に立ち上がって呼びかける。
すると母さんの目元がぴくりと引きつり、瞼がゆっくりと持ち上げられ、眩しそうに瞬きを繰り返す。その瞳の中には、安心して今にも泣きそうな俺がいた。
「……しょう、ちゃん」
そう呟いた途端、母さんの目尻から涙が零れた。
「翔ちゃんだぁ……っ、よかった……もう、帰ってきてくれないって思ってた……っ」
「なに言ってんだよ。帰るに決まってるだろ」
「うん……っ」
「……本当にごめん、母さん」
「いいのよ。帰ってきてくれたんだから……もういいの」
家出を怒られるどころか泣かせてしまったことに死にたいくらいの罪悪感を覚えながらも、俺は笑みをこぼすくらい安堵していた。
よかった。目が覚めてくれて、本当によかった……。
7月27日(木)16時45分
「お母様が目覚められたんですね‼‼‼ よかった‼‼‼」
電話越しにマネちゃんが嬉しそうに叫んだ。病院の入り口わき。せわしなく人が出入りするのを横目に俺はスマホを耳から遠ざけ、鼓膜を騒音から守っていた。
母さんが目覚めたため、頼まれていたとおりマネちゃんに連絡を入れたのだった。
「翔さん。ところで今ですが、お母様は何されてます?」
「え? 俺が病室を出たときは医者から病気の説明を受けてましたし、まだ話してるんじゃないですかね」
「すみませんが病室に戻っていただいてもいいですか。どうやらお母様、お仕事されちゃってるみたいでして……」
「はいィ⁉」
可能であればやめさせてくださいと頼まれ、俺はすぐに電話を終えて大急ぎで病室に駆け戻った。
ドン、と勢いよく病室のドアを開け放つ。
「ひゃんっ⁉ ……しょ、翔ちゃん?」
目を丸くする母さん。点滴に繋がれた手にはスマホが握られていた。
俺はずんずんと近寄り、母さんからスマホを取り上げる。
「あっ――、ダメよ翔ちゃん! 見ちゃダメ!」
画面には天母マリアのツイッターが表示されていて、一分前にこうツイートされていた。
〈本日17時の配信ですが、具合が悪いためお休みします……楽しみにしてたみんな本当にごめんなさい‼ ちょっと体調を崩しただけだから心配しないでね!〉
ため息で全身の空気を吐き出しそうになった。
倒れた直後だというのにファンを最優先で考える母さんは、プロというより職業病なんじゃないだろうか。ちょっと体調を崩しただけじゃないし……。
「あのね翔ちゃん、違うのよ? こ、これは……そうっ、お母さんはマリアさんのファンだからツイッターを見てただけなの! わー、配信お休みで残念だなー」
「マリア本人としてツイートできるみたいなんだけど」
「あ……アカウント乗っ取ったのよ!」
「それアンチだろ!」
「ウッ、たしかに……」
アホな言い訳をかます母さんに呆れつつも、俺はありがたくも思った。母さんは一対一トークで話したから俺がファンであることを知っているわけで、必死にごまかそうとしている理由は、俺の幻想を守るためだろう。
でも、幻想ばかり見るのは、もう終わりでいい。
マリアが映るスマホ画面を消し、俺は母さんと向き合う。
「もういいんだよ母さん。俺、全部知ってるんだ――」
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