虚数の国
百舌
第1話 虚数の国
今朝は初夏の陽光が差している。
風力は低め、今日の午前中は仕事になりそうだ。
あのウィルスが世界に蔓延してから、ひとは個別生活を営むようになった。そして世界大戦は、世界政治も分断し、もっと小さな単位に切り分けた。
社会というものはない。誰もが他人の責任を負えないからだ。
上水道だけは政府が意地になって維持しているが、電力は自然任せになった。原発再稼働の機運もあったが、開戦に巻き込まれたら標的になるといった野党に潰された。結果として国家財政のお荷物にしかなっていない。
原発再稼働反対を錦の御旗に据えたマスコミは、電気を失い自壊した。世界には新聞もなければ、電波もない。空は広くなった。
生活の基盤は、各自に配給された小型冷蔵庫大のリチウム蓄電池に依存する。それを細々と太陽光か風力、高低差のある地域は揚水発電を使って充電する。蓄電池は発火する危険性も孕むから気が置けない。
夜陰に乗じて、皆が少しでも高い電圧が流れるように送電線に細工を施すので、寝ずの番をすることもある。
仕事は全てPCに送られてくるプログラミングで、誰が何のシステムを作っているのかも分からない。給与は全てネット通貨のクレジットで支払われる。その仕事を得るためには、毎日が電力の争奪戦になる。
たとえ整備不良で蓄電池が発火しても、消防も警察も来ない。化石燃料も輸入されていないからだ。行政は水利と蓄電池と肥料の配給しかできていない。国民は個別に受け取りに行くが、全ての運搬は人力か家畜の脊に頼むしかない。
生きていくためには家庭菜園の維持を欠かせない。し尿などの汲み取りもないので、政府支給のコンポストに投下して肥料にする。その野菜で物々交換をして、運がいいと缶詰や肉類にありつける。全く最小の食物連鎖のようだ。
「電源は〜!」
「おお、電源は。久しぶりだね」
という挨拶は、国家の危機に検討しかしなかった首相の置き土産だ。「こんにちは」という挨拶の電気量も勿体無いので、まずその残量を問うことを礼儀としようと始まった。彼の功績としたらそれくらいしか思いつかない。
「最近はどうしてる。お野菜の出来はどう」
「やっとトマトが育ってきて、市場で売ろうかと思っている。ネットで販売なんて贅沢はできないね」
「え。もう値崩れしてるよ。交換してもどうかなあ。口コミが伝わってないの」
「参ったなあ。風力発電と揚水発電に有利と思って丘住まいを選んだけど、市場まで遠くなってしまって。こんな丘まで登る物好きがいないんだよ」
みんながネットで繋がり、PCで仕事をしているのだが、生活は口コミで動いている。彼女と話をするのも2ヶ月ぶりだ。春一番の時期は風力は使えないし、曇天続きで太陽光も使えなかった。
「誰も仕事も受けられない時期で、春先は家庭菜園に没頭していた。初夏となってやっと収穫期が来たのに冴えてない」
とこぼしていたら彼女はくすくすと笑う。
「あのさあ。今度こそ何処かで逢えないかな」
「またその話。一体どうやって来てくれるのよ。歩いて往復したら半月はかかるわ。途中にどんな障害があるかわかんないし。中間地点で待ち合わせなんて言わないでね。ちょっと怖いわ」
そう道路や橋が、どの程度維持されているのかもわからない。それよりもこの話している相手が、本当に女性なのかどうかもわからない。それも怖いことだ。モニターに映る姿も真実かは判らない。
虚数が虚数と話しているとしたら、負の連鎖が続くだけだ。
「あ。電力をそろそろセーブしないと、じゃあお別れをするわね」
お互いにスマホ画面にキスの音を立て合って、通話を切る。それが約束だった。デジタルに変換されているが、極めて肉感的な音だ。
次に会話できるのは何日後だろうか。私を含めバイオチップを持つ肉体、つまり素体全てはいわば機械のハイブリッドに宿っているただの精神体に過ぎない。このモニターに出しているのも、誰かが制作したプログラムを利用しているだけだ。
電源の安定している午後は、自分の脳核に埋め込んだバイオチップに自己修復プログラムを掛けて再起動するとしよう。
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