瑠璃色たまごは彼のもとへ帰する

佑佳

1 00:12

 しくじっちゃった――凍上とうがみ瑠由るうは苦い顔を作った。深夜零時を過ぎた住宅街の夜景は暗い。

「もーう、掴み損ねるなんて初心者の失敗じゃない。あーあ、マジ最低すぎ」

 独り言で吐き出したイライラと共に、高い位置で纏めていた漆黒の長髪をほどく。夜風がそれをなびかせる。

「ひとまずきょうに連絡……あ、ダメだ。さっきのでゴシャッてなっちゃったんだ」

 自身の腰に装着していた通信端末入りのポーチを覗くも、端末機の画面にヒビを認めて肩を落とす。電源ボタンも反応がない。

 闇夜に紛れる『送迎ヘリ』を上空に探し続けるものの、望みは薄そうだと瑠由はさとった。


 遡ること、一五分前。


 とある『業務』を完遂させた瑠由は、滞空している漆黒色のヘリコプターが下ろしていた縄梯子なわばしごへ、ビルの窓から飛び移ろうとして失敗した。縄とはいえ、それは伸縮性に富んだワイヤーや鉄紐で編まれた特別製であり、そう易々と切れたりはしない丈夫なものを使用している。

 いつものように上手く滞空してくれていたヘリコプターに非はない。飛び出す瑠由の身のこなし技術も申し分なかった。ただ、突風の煽りをくらって縄梯子が過剰にはためき、それに一瞬早く気が付いた相棒パートナーの声が風に掻き消されて判断を誤り、ビルの窓から飛び出してしまったことだけは、その場の全員の計算外だった。

 たかだか風に煽られて縄梯子を掴み損ねるなど、訓練生レベルのミスであり、熟練された瑠由らでは許されざることにあたる。撤収するつもりがまさか地上落下コースに陥っただなんて、『会社』に戻ったらどれだけの後ろ指を指されるだろう――瑠由は羞恥の気持ちと共に、使う予定の無かった装備品のパラシュートをワンタッチで開いた。そのまま強い秋風に右へ左へと流されながら、徐々に高度が下がっていく。

 やがて見えた住宅街のとある市営マンションの屋上が丁度良さそうだと見極め、やっとの思いで降下する。しかしやはり風が邪魔をして、転がるような着地となってしまった――というのが、冒頭までの経緯だ。

 その転がった衝撃で、腰の通信端末は壊滅。仲間たちとの連絡ができなくなってしまった。着替えや私用スマートフォンも、はぐれたヘリコプターの中。現在の手持ち荷物はベロベロになってしまったパラシュートのみ。

「んもうっ! このまま地上に下りてったら顔バレするし、どこにも行けないってぇの!」

 ダンと屋上の地面タイルをひと踏み。虚しさだけが瑠由に残る。

「ハァ。せめて明るくなるまでは、非常階段の中にでも隠れとくかぁ」

 ベロベロになってしまったパラシュートを小さく丸め、非常階段入口の影に置いておく。非常階段の入口扉は幸い鍵がかかっておらず、力一杯引くとギギキィーと錆び付いた悲鳴を上げた。

 ひやりとした風が、建物内から瑠由の足首へ弱く抜ける。室内灯はない。身を潜めておく場を探すため、瑠由は階段を降りることにした。

 コツーン、コツーン、と瑠由の六センチヒールが、一段降りるごとに鳴る。足音を消す歩き方をしていても鳴るので、瑠由の美的感覚を一音ごとに逆撫でする。

 屋上のひとつ下階――居住階としては最上階の通路を視察。壁を背に張り付き、鼻先だけを覗かせるように行く手を黙視する。

 誰もいない。

 身を低くとり、玄関扉の並ぶ通路を数歩進んでみる。見覚えのあるドアだと過るも、しかし記憶は曖昧だった。

 五戸進んだ先に古いエレベーターを見つけた。それの前まで辿り着くと、瑠由の曖昧だった記憶が高速で巻き戻り、たちどころに鮮明になる。

「えっ、ウソ……ここって」

 息を呑むように呟く瑠由。ヒヤリと鳥肌が全身を抜けた。

 足音を消し、来た道を数秒で戻る。音の響く非常階段を飛ぶようにいくつか下りていき、記憶に残っていた階数で立ち止まった。

 再度、壁を背に張り付き、鼻先だけを覗かせるように行く手を黙視する。そしてやはり、誰もいない。時間のせいだと安堵して、やはり再度姿勢を低くとった。

 エレベーターの左隣の玄関扉の前で立ち止まる。簡素な表札には恋しい名字が『あの頃』と変わらず印字されていて、瑠由は身を震わせた。

「懐かしい。ここだったんだ、あのときのマンション」

 数年前、瑠由は実の父親と共に、目の前の玄関扉の更に左隣の部屋に二週間だけ住んでいた。目の前の玄関扉の向こうを居住としている一人の男児に、瑠由は人生観を良い方向に変えられたことがある。

 あの頃、彼は小学生。いまはもう、すっかり成人しているだろうか――懐古感に、瑠由の胸は締め付けられた。

「なんでもなく、また会えたらいいのに」

 小さく小さく独り言ちた本音。まるで当時の瑠由の想いを代弁しているかのようだ。しかし『こんな格好』で、清らかな彼と堂々たる再会など出来るわけがなかった。

 瑠由は現在、黒いレザー生地のボンテージに似たものを着用している。表向きの仕事がグラビアモデルなので、この程度の露出ある服装に羞恥心や抵抗感は一切ない。

 しかし今回は、見られる相手として都合が悪い。加えてこれは『本職』の仕事着コスチュームだ。グラビアモデル時ならまだしも、本職時の肉感的で艶麗えんれいな姿で、かつて我が身よりも大切だと思えた清純な彼に会うわけにはいかない。彼にだけは、黒に染まっている自らを見せたくはなかった。

 得意の鍵開けピッキングで忍び込み、彼を一方的に目視することも考えたが、自慢の腕は動かなかった。万が一彼のご両親に見つかってしまえば、自身の所属するふたつの会社をもそれぞれ危険に晒してしまう。それはあまりにも軽率だ。これ以上『やらかし』を増やすわけにはいかない。

「……屋上、戻らなきゃ」

 肩を落とし、身をひるがえす。足音を消す歩みで戻ろうとしたところで、いままで突っ立っていた場所の玄関扉がゴガン、と鳴って開いた。

 唐突な物音に身がすくむ。咄嗟に、右手首のワイヤーを通路天井へ向けて射出させ、一気に縮めその身ごと移動し、腹を下に天井へ張り付き息を潜める。

「わ……」

 再会を望んだまさにその彼が玄関から出てきた。きちんと施錠し、エレベーターへ向かっている。

 立ち姿、横顔、何気ない仕草――成長はせど、あの頃のまま変わらない面影がある。バクンと心臓が打ち鳴った瑠由は、いてもたってもいられなくなった。

 ポーンと古い電子音が鳴り、エレベーターが到着。ゴウンゴウンと相変わらずのうるささで扉が開いたところで、瑠由はワイヤーを天井から外した。着地の音は、エレベーター扉の開場音で掻き消える。

「――たくちゃんっ」

 声をかけてしまってから、自らが何をしたかを再認識し、痛感する。

 後には退けなくなった。しかし今後をどうしたらよいかなどは後回しだった。目の前の彼と、もう一度笑って話がしたい――その一点だけで、瑠由の理性外が勝手に動いてしまった。

「ひぇっ?!」

 暗闇から唐突に呼ばれ身を縮めて驚いた彼は、声の方向をぎょっとして見やる。エレベーター内の明かりが彼の表情を煌々と照らし、あらわにした。

 骨張った頬骨、シャープになった躯体線。身構えたときの腕の長さや、ふくらはぎの筋肉感。そして、声変わりをしたであろう低テノールが、大人になりつつある男性性を意識付けさせる。

「琢ちゃん、だよね? 琢ちゃんでしょ?」

 エレベーター内の明かりが届く範囲に瑠由が踏み入れると、彼はようやく瑠由を認識したらしい。持っていた自身のスマートフォンをスコーンと落として、あの頃と変わらぬ純朴で清らかなまなざしを瑠由へ向けた。

「るっ、る、瑠由ちゃん?! 瑠由ちゃんじゃ――」

「――しーっ!」

 彼の口を、慌てて両手で塞ぐ瑠由。

 彼は身長がぐんと伸びた。頑張って腕を伸ばさなければ、瑠由の掌はその口元へ届かない。

「真夜中だから、静かに。ね?」

 平静を装いコソコソと告げると、彼はガクガクと頷いた。そっと手を離し、彼は無言でスマートフォンを拾う。

「どこか行くところだったの?」

 彼の視線が戻ってきて、すると瑠由の心拍がより速くなっていく。

「こ、コンビニ、行こうかなって、出たとこ……」

「そっか。すっかり一人でコンビニに行けるようになったんだね。エライエライ」

「いや、瑠由ちゃん。そんなことどうでもいいよ」

 声変わりの彼の声が、瑠由を激しく揺さぶる。片や、彼は眉間を詰めて静かに正論で訊ねた。

「あの、何してるの? こんな時間にこんなところで。しかも、その……その格好、どうしたの?」

 黒のレザー生地の上下はセパレートデザイン――つまり、その豊満な胸や引き締まった上腹部はレザー生地のトップスで覆われているが、つるりとした肩や細い二の腕、そしてあばら下から下腹部分はバッチリ露出している。

 浅履きのタイトミニスカートからは、適度に引き締まった太ももが惜し気もなく見せびらかされており、膝上丈のロングレザーブーツがクールな印象で締めている。

 つまり。一般住宅街を出歩くには不相応な格好でしかない。彼の疑問はもっともだった。

「あー、その――」

 苦笑いと共に、視線を逸らす瑠由。

「――近くで撮影があったんだけど、かなり長引いて、夜中になっちゃって。手違いで着替えもスマホも財布も事務所の人に持ってかれちゃったから、夜が明けるまでどこかで隠れてようかなって思ったんだけど。たまたま通りかかったのが、琢ちゃんのマンションだったの。それで、あの、懐かしくなっちゃって、入ってみたっていうか……」

 よくもまぁそれらしいことがペラペラと列べられたものだ――自らのデマカセに、瑠由が最も驚いていた。

「そ、そんな格好でうろうろしてたら、また中学生のときみたいに嫌な想いするかもしんないよ? ここ来るまでの間、誰にも何もされてない?」

「う、うんっ。平気っ」

「本当に?」

「ほんとにほんと!」

「そう、ならよかった」

 痴漢や強姦まがいの被害を心配してくれている彼に、かつてと変わらぬ温もりを感じる。

「じゃあとにもかくにも、明るくなるまでウチに入ってなよ」

「えっ、でもそれじゃ、琢ちゃんに迷惑が」

「瑠由ちゃんに何かあってからじゃあ、そっちのが困るんだって!」

 声を殺して切に迫る彼。垂れ気味の目尻が、瑠由の身を一番に案じてると伝わってくる。

「ウチん中、父さんも母さんも居るから、マジでこっそりね。いい?」

「あの……ごめんね、琢ちゃん。突然こんなことになって」

「ううん、瑠由ちゃんに何かある前でよかったよ。ほら、中入ろ」

「コンビニは?」

「いいよ。だって瑠由ちゃんが表紙の雑誌買うつもりだっただけだもん」

「え? 真夜中だよ?」

「店頭に陳列されてすぐに買うようにしてるから、俺」

 人懐っこそうな柔い笑みの彼に、瑠由の胸の奥がぎゅうぎゅうと絞まっていくようだった。

「ありがと、琢ちゃん」


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