第5話 ダイヤの鬼人《前編》

 鈴城すずしろ町に住まう少年少女ならば、

 誰しも一度は『それ』を耳にしたことがある。

 ──轟木とどろき中学野球部には、がいるということを。



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 月曜日の朝は、土曜日と比べて少しだけ道の人通りが多かった。目覚めた鳥たちの啼き声も、こころなしか急いでいるように感じる。

 今日祭里が受ける授業は六時間だ。土曜日よりも二時間分重たくなった学生鞄の重みが、持ち手を介して右手に伝えられる。腕がもげそうになるほど重い、というわけではないが、徐々に腕を蝕んでくるような意地の悪い重さだ。

 歩くこと十数分、今日も例の公園に通りかかった。祭里は、歩行スピードは落とさず、顔だけ左に向けて公園内部の様子を観察する。しかし、そこに氷室祐介の姿はなかった。ただし「ポン助」なる猫はそこにいて、心なしか困惑しているように見えた。


(……あれ? じゃあ、土曜日はたまたまいただけだったのかな。……いやでも、安斎先生は「最近学校に来ないのよね」って……。それに、すごい親密だった猫もあんな様子だし……)


 思索にふけっているうちに、曲がるべき角に差し掛かってしまった。祭里は顔を正面向きに戻し、学校へと続く下り坂の一本道を小走りで駆け出す。その幅の広い暫定二車線の並木道では、桜の花びらがまばらに舞っていた。



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 桜の並木道の少し奥まったところの、例の公園から見て左側に学校はある。

 鼻唄が歌えるくらいのペースで走っていた祭里は、校門の前で安斎教諭の背中を見つけた。彼女の視界に入らないよう、スピードを落として歩く。後ろからゆっくりついていく形になった。


(ふつうの文実委員長なら気軽に話しかけられるんだろうけど、私には無理……)


 とはいえ、今日の祭里は、これまでの彼女とは少し違っていた。

 文実委員長に向いていない、という確信めいた不安は相変わらずあるが、それはそれでいいと受け入れられていたのだ。


(私は……私のやれること、やるべきことを精一杯やろう)


         *


 教室につくと、祭里は自分の席に鞄を置いた。そして勇気を振り絞り、クラスで一番地味そうな女の子たちのグループに声をかけた。手も足も小刻みに震えていた。


(これが、今の私の限界……)


「え、何……?」

「めっちゃ震えてんだけど」


 女生徒たちは目に見えて困惑していた。


(やっぱり、引かれてる……でも)


「あの……さ、氷室祐介くん、って、知ってる?」


 祭里は訥々とつとつと問う。言い終えると、──言えた!──と内心でガッツポーズをした。

 しかし、女生徒たちは「え……あなた、あの人と関係あるの?」と警戒心をむき出しにしてきた。


「えっ……?」


 困惑していると、突然柔らかないい香りが鼻腔をくすぐった。するとそのとたん、化粧の施された真っ白な顔が、左肩の上からにゅっと飛び出してきた。


「なーにいじめてんのよ。この子、文実いいんちょーだよ。氷室も文実委員じゃん。変な詮索すんなし」


 そう言った彼女の顔に、祭里は見覚えがあった。派手でこそあれ、ごちゃついた印象のない、清潔感のある見てくれだ。ブロンドのロングヘアーを毛先の方でうねらせ、右肩のところでシュシュを使ってまとめていた。


(あっそうだ。土曜日に、唯一声をかけてくれた人だ。たしか、名前は……)


「やめてよ勅使河原てしがわらさん、私たちいじめてなんかない。ただ……」

 

 そう言われた彼女は苦手な虫を投げつけられたかのように身を竦めた。「げ、その呼び方やめてって! 可愛くない! いじめてるって疑ったのは悪かったよ、ごめん。でも、テシガワラはやめて! マリナでよろしく!」


 勅使河原麻里奈てしがわらまりな。すさまじくいかつい名前である。


「……てしが──マリ、麻里奈さんも知ってるでしょ? 『』の話。氷室くん、野球場で、金属バットつかって小学生をボコボコにしたらしいじゃない」


「え?」女生徒の話を聞き、祭里は目を剥く。とたん、彼女の脳裡で、氷室がいたいけな小学生を金属バットで暴行している様子のビジョンが再生された。


 ──くたばれ!


 いつの間にか、小学生は祭里の姿に、氷室は保育園時代に同じ組だった男の子の姿に変わり、彼の持っているバットは紙製の剣になった。


 ──おまえのせいで、おまえのせいで!!


 ──いたい、いたいっ……。ごめんね、ごめんね……許して、お願い……。ああっ……。


 遠い目をしている祭里は、マリナからの呼びかけで、ようやく我に帰った。


「いいんちょー、大丈夫?」


「あ、あ……」祭里は口がうまく回らなくなっていた。かろうじて「だ、大丈夫」と言うと、マリナは「よかった」と胸を撫で下ろしたのちに、語勢を強めてあの女生徒たちとの話に戻った。どうやら祭里の意識がうつつから飛んでいた間にも、彼女らの話は続いていたらしい。


「とにかく、そういうわけで。氷室は、」


 その瞬間、ガラッと扉が開かれた。


「──えっ⁉︎」マリナが叫ぶ。


 そこに立っていたのは、土曜日とは大きく異なった様子の、氷室だった。

 髪は変わらず短いものの、土曜日のように無造作ではなく、整えられていた。着ているのは、詰襟の学生服ではなく、ところどころに白いラインが入った紺のカーディガンだ。

 柔らかい印象になった服装と髪型が、彼の三白眼をかわいらしいチャームポイントに演出していた。


「……勅使河原。俺に、なンか用かよ」

 

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