第4話 齟齬と期待

 ──委員会に入るかどうかは希望制だからね。

 ──所属委員会、勝手に決めちゃってごめんね。みんな「名前がだしピッタリじゃーん」って言って聞かなくて。


(あれ……。なんか、噛み合わなくない?)


 しかし、その違和感は、速水の話を聞いてから沸き起こり続けているポジティブな感情の波に流されていった。



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 窓から差し込む光は、橙色に赤が混じり込みだしていた。速水にもらったジャスミン茶はまだ少し残っている。テーブルに置かれたそれの水面は、赤橙色の斜陽によって照り映えていた。

 おんぼろの時計の秒針が奏でる音に浸りながら放心状態になっていた祭里は、いい加減帰らなくては、と席を立つ。そしてプレハブの玄関扉を開くと、目の前に誰かがいた。扉が横方向にスライドしていくにつれ、その人の容貌が明らかになる。

 彼は速水と同じ鈴城すずしろ高校──祭里たちの通う学校だ──の詰襟の制服を着ていた。その一番上のボタンと襟のホックが外されており、細い首がのぞいている。彼の顔は祭里が無理に見上げてようやく見えるような高さにあり、短い髪と三白眼の目が怖そうな雰囲気を醸し出している。──しかし、なぜか穏やかな笑顔が容易に想像できた。


「……あれ?」

(どこかで見たことがあるような)


 祭里がそう思って首をかしげていると、彼の方も何か良いたげに「……アンタ、」と口を開いた。

 しばらく膠着こうちゃく状態が続く。それに終止符を打ったのは、聞き覚えのある猫の声だった。「ニアー」

 彼はものすごい勢いで声がした方向へと振り向く。


「あっ⁉︎ ポン助、お前、なんでここに!」


 彼はこれまたものすごい勢いで猫の方に駆け寄り、そのままそれをつれてどこかへ消え去ってしまった。祭里は呆気に取られていたが、最終下校時刻の五時半を告げるチャイムが存外に大きな音で鳴ったので、大急ぎでプレハブを後にした。

 正門への道中、彼女の脳は、さぼっていたところに突然鞭を叩きつけられたかのように俄然働きだし、これまでの記憶を高速で再生する。


 ──ニアー。


(あの猫の声……)


 ──あっ⁉︎ ポン助、お前、なんでここに!


(それに、あの人の顔……)


 ──アンタ、


(どっかで見たような気が……)


 ──あ? なンだよ、見世物ミセモンじゃねーぞ。


「あっ」


 祭里は思わず声を漏らす。


 目つきの悪さ。短い髪。粗暴な見た目。


「──あの人だ!」


 朝、通学路の公園で出会った、いかにも怖そうな見た目の男の子。先ほどあの男子を見たときになぜか穏やかな笑顔を想像できたのは、一度それを見ていたからだったのだ。猫と遊んでいるときに浮かべていた、あの優しげな笑みを。


(あれ……じゃあ、なんであの人はプレハブにいたんだろう。制服から、うちの学校の生徒だってことは分かるけど……)


 祭里が正門に着くと、そこに担任の安斎教諭がいた。何度見ても惚れ惚れするスタイルの良さだ。パンツスタイルのスーツがよく似合っている。


「あら、後野さん。お疲れさま」


 祭里と安斎は帰り道が途中まで同じだったらしい。二人は、ゆっくり歩きながら話す。


「そういえば、氷室くんとは会えた?」


「氷室……くん? 速水先輩のことじゃなくてですか?」


「あ、氷室くんわかんないか。とりあえず速水くんとは会えたんだね。じゃあ引き継ぎもできたんだ。よかったよかった」


 安斎は、祭里に教室で投げかけた問の答えを求めるそぶりを見せない。


(やっぱり、文実委員長辞めさせる気ははじめからなかったのかな?)


 プレハブでそのことに気づいたときはひどく憂鬱だったが、今はニュートラルな感覚でそう思える。引き継ぎを受けさせることで退路を潰そうとしていたのでは、などという疑いも今や抱かない。


「氷室──氷室祐介くん。文実委員の仲間だからさ、覚えといて。見たら一瞬でわかると思うよ。怖そうな見た目してるから。短髪で、三白眼で、でもよく見るとちょっとカワイくて、」


 ──短髪で、三白眼で。


 の顔がぱっと脳裡に浮び、祭里は一丁締めでもするようにパンと手を叩いた。そして先ほど例の少年の正体に気付いたときと同じよろこびに駆られ、安斎の言葉を遮って叫んだ。「──あっ!」


「会いました! 氷室くん!」


(なるほど、それでさっきプレハブの前に来てたんだ。でも、来るの遅すぎでしょう)


「あ、やっぱり会ってたんだ。よかった」


「はい。そっかあ。氷室くんっていうのかあ……」


 言いながら、祭里は少しだけ顔を曇らせた。


 ──ほんっとにタイミング悪すぎ! お前の名前、マジでピッタリだよな! クソが。くたばれ!


 氷室は、その言葉を祭里に投げかけた男の子とどことなく似ているからだ。

 

「……でも」そう呟いた安斎も、祭里の表情が伝染したかのように顔を曇らせていた。「……氷室くん。入学したばっかりなのに最近学校に来ないのよね。最初の方は来てたんだけど……何があったんだろう……」


 安斎は、しばらくの沈黙ののち、「そうだ!」と何か思いついたように右手の拳を左の手のひらに打ち付けた。


「後野さん、よ。氷室くんをきちんと学校に来させて」


「……えっ?」


 いま、安斎はしれっと、そしてごく自然に「文実委員長としての最初の仕事」と言った。


(やっぱり、そういうことなんだ)祭里の心の中で色々な感情が渦巻く。その中で一番強かったのは、──嬉しい──その感情だった。速水の話を聞く前の自分では考えられないと、祭里自身も驚く。


「やります!」祭里は力強くそう答えたが、その後、顔をやや下に向けた。「……でも」


「──なんで文実委員長をやめないかわかったのかって?」


 図星を指され、祭里は思わず安斎の方に顔を向けた。安斎の方がかなり背が高いので、自然と顔を上げる形になった。


「こうなることは分かってたから。しかも、結構いい顔してたしね。案の定、って感じ」


「……そうなんですか」


(この人は、何をどこまで考えていて、どこまで知っているんだろう。まったくわからない。口ぶりから察するに、やめさせるつもりがなかったというより、やめないと分かってた、ってことだよね……)

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