黒い果実

餅雅

黒い果実

 サークル仲間と集まって、トレッキングに出かけようと言い出したのはアウトドアが趣味の木村だった。木村は根が明るくて友達も多い。程よく鍛えた体は同性にも受けが良かった。そういう自分は、標準よりは少しぽっちゃりとはしていた。そんな自分に、一緒に体を鍛えようと誘ったのも木村だった。出不精だった俺は、片思いをしていた花園さんも来るのだと聞いて二つ返事で行く事にした。あとは彼女と仲の良い鈴木さん。鈴木は四人の中で一番背が低く、少し天然な所があった。そんな四人が山へ入ったのは、とある夏の終わりの事だった。

 木村は山を歩きながら嬉しそうに山の登り方を教えてくれた。歩幅は短く、こまめに水分を取る事。道なりの木々には道に迷わない様に蛍光色の紐が目印として付けられている事。

 秋の椛は色づき始めていた。見下ろす山の銀杏が蝶の様に風に乗って翔び立った。蜩の声に聞き惚れて、森の香りに身を委ねた。この世のものとは思えない景色が、自分達の心を綺麗にしてくれている様だった。

 日が傾き、下山する事になった。来た道とは違うコースで帰るのだと木村は言った。木村もこの山は初めてだったが、アウトドアが趣味の彼の言う事に反論する者などいない。けれどもそのうち日が暮れて、やっと木村は声を出した。

「道に迷ったらしい」

 この言葉の意味を都会育ちの俺達は深く考えなかった。山なのだから、下山すれば良いだけだろうとか、例え遭難しても、救助が来てくれるだろうとか、安気に考えていた。

「今日はここで野宿しよう」

「野宿なんて嫌よ!」

 叫んだのは花園だった。鈴木は状況が掴めていないのかあっけらかんとした顔をしている。

「非日常的ね! こういう展開が山登りの醍醐味よね! テントとかあるの?」

 木村は首を横に振った。携帯は圏外。日帰りのつもりだったので誰も大した食料は持ち合わせていなかった。   

 腹が減り、落ち葉で作った布団は底の硬い石ころの感触が背中に当たった。馬鹿に煩い虫の音と、姿の見えない蟇の声。蟻が服の隙間から入った。藪蚊が耳元を飛び、頬を刺した。

「もう、嫌!」

 叫んだのは花園だった。そりゃそうだろう。自分達は山を知らなさ過ぎた。予定ならとっくに下山して、街のラーメン屋で腹一杯食べ、それぞれ家に帰っている筈だ。何時もの安心出来る家で柔らかい布団に包まり、ネットサーフィンでもしながらそのうち眠りに落ちている。そんな毎日単調でつまらないとさえ思っていた日常が恋しくて仕方が無かった。

「今からでも下山しましょう?」

 これまた山を知らない鈴木が声を上げた。かく言う自分も、こんな虫だらけの山中に居るのは我慢ならなかった。取り敢えず道なりに山を降りて携帯の使える所まで行けばタクシーなり、警察なりに電話すれば済むと思っていた。

「夜の山は危ない」

 木村の言葉に、三人は暗闇の中で眉を潜めた。

「こんな所で夜が開けるのを待っていられないわ。せめてロッジとか、山小屋のある所まで行きましょうよ」

 花園の言い分に俺は頷いた。けれども木村は大きく息を吸い、周りに懐中電灯の灯りを這わせた。

「……おかしいんだ」

 木村の沈んだ声が漆黒の森に溶けていく。

「何が?」

「地図通りならとっくに山小屋に着いているはずなんだ。それに、山に入る時に説明しただろう? 山道には迷わない様に道なりの木に等間隔で蛍光色の紐が結んであるんだ。それがあちこち出鱈目に結んである。先に進むに連れてその数が増えているんだ」

 木村が森の奥へライトを向けると、そこかしこに細い紐が幾つも反射した。どう見ても道ではない茂みの奥の木々にまで結ばれたネオンカラーの紐が風に靡いている。

「道を間違えた所まで戻ったらよくないですか?」

 鈴木の提案に花園が直ぐに反論した。

「何言ってんのよ! また山を登るの? 兎に角その目印なんか当てにしないで下山すれば済む事でしょう?」

「下手に動き回らない方がいい」

 木村の返答に花園は納得いかないらしい。

「もう良いわ!」

 花園は叫ぶと獣道を進み始めた。鈴木もおずおずと周りを伺いながら花園に着いて行く。木村と二人っきりになるよりも、高嶺の花である花園さんと一緒の方が良いに決まっているから二人に着いて行くと、背後から舌打ちする音が聞こえた。

「わかったよ……」

 木村が重い腰を上げた。自分が誘った手前、バラバラで行動するのは良くないと考えたのだろう。丸い懐中電灯の灯りを頼りにゆるゆると山を下りて行く。

 暗い山道を一晩中歩いたのに、山小屋どころか県道に出ることすら出来なかった。

 そうこうしながら日が登って暮れてを七回繰り返した。何処をどう歩いたのか知れない。同じ道を行ったり着たりしている様だった。携帯はとっくに充電が切れていた。四日前に雨が降って歓喜したが、雨宿りに入った木陰で蛭に噛まれ、全身雨に濡れて夜は酷く寒かった。

 三メートルくらい上の枝に木通が一つついているのを見つけ、四人が我先にと取り合い、その時に俺は右足を挫いた。落ちた木通を早々に貪り食ったのは木村だった。

 いつまで待っても救助は来ない。どの辺りに居るのかも解らない。食べ物もない。夜もまともに寝られない。その場に居た全員が正気を失うのはさして不思議な事では無かっただろう。

「ねえ、あれは何?」

 不意に鈴木が声を上げた。もう歩く気力も無くなり、俺は木々の間から細く降り注ぐ茜色の光を眺めていた。あの赤い夕陽が、もうとっくに心を癒やす清浄な光ではなくなっていた。

「果物だわ!」

 花園も叫んだ。木村も勇んでその方向へ駆けて行く。花園と鈴木もその果実に向かうが、石や草に何度も足を取られて転んでいた。俺が四人の中で一番最後に、地面を這ってそこへ辿り着いた。

「大きいな……」

 木村が果物に手を伸ばした。大きな櫟の樹の枝から太い蔓が何本かからみ合い、大き目の瓜が垂れ下がっていた。ラッパの形の花が鈴生りに咲き誇り、まるで花束の様に瓜に纏わりついている。丁度木村が手を伸ばした位置にそれが成っていた。夕日が逆光になって、瓜を覆う蔓草も花も、真っ黒に見えた。

「ちょっと! また独り占めにするつもり?!」

 手を伸ばしかけていた木村に向かって花園が叫んだ。

「独り占めも何も、早い者勝ちだろ!」

 飢えから、皆苛立っていた。

「私が最初に見つけたんですからね!」

 鈴木は叫ぶと、思いっきりストックを振り回した。木村がストックを押さえると、花園は木村のリュックサイドに入っていたサバイバルナイフを取った。

「あんたはさっき木通食べてたんだからお腹一杯でしょう? 私達は何も食べてないんだから!」

 刹那、花園が持っていたナイフが木村の腹を貫いた。驚いた木村がストックから手を離すと、鈴木が容赦なくストックで木村の頭を何度も叩く。木村が倒れると、花園は紅玉に染まったナイフを果実の蔓を切る為に振り翳した。

「私が最初に見つけたんだから私のだって言ってるでしょ!」

 鈴木のストックが、花園の鳩尾を突いた。ふらつき、ナイフを落として蹲った。鈴木が果物に手を伸ばすと、倒れていた木村が刺された傷口を押さえ、足にしがみついた。

「助けてくれ。死にたくない」

「離せ! 気色悪い! 大体、あんたのせいでこんな事になったんでしょう? 責任取れ!」

 鈴木が何度も足にしがみついた木村の頭をストックで叩いた。

「あんたってそういう女だったのね」

 花園は石を掴むと、思い切り鈴木の頭を殴った。

「痛い!」

 鈴木の額から赤い蜜が吹き出し、顔を濡らした。鈴木が振り回していたストックが花園の綺麗な顔に当たる。花園が落としたナイフを拾い上げたのは木村だった。

 地面を這っていた俺はその三人の異様な光景を横目に、漁夫の利にあやかろうと思っていた。けれども、その黒い果実を底から見上げて愕然とした。日が暮れ、辺りも暗くなった闇の中にすっかり溶け込んだ果実には細い幾つもの黒い蔓が巻き付き、橙色の凌霄花が仄かに色を放っている。そして俺は果実の丁度真下に落ちていたあるものに気付いた。

「……」

 灰色の作業服を着た首の無い死体を前に、悲鳴を上げる気力も無かった。そして三人が、人間の首を取り合って争っている姿を呆然と見つめている事しか出来なかった。辺りが暗くなったので誰がどうなったのか解らないが、取っ組み合って坂を転げて行く姿を見送り、争う声が聞こえなくなったのでもう三人共死んでしまったのだろう。救助のヘリの音を微かに聞きながら、俺は自分達の運命を呪った。

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黒い果実 餅雅 @motimiyabi

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