愛しながらの戦い
珊瑚水瀬
雄二の告白
雄二にとって女らしさは母の象徴であった。
雄二の家は厳格な家庭であったが、母だけが柔和でこの家に光を与える存在であった。習い事をひっきりなしに入れたがる父の親族らの中で、唯一雄二のことを尊重し、やりたいことをさせてくれる人であった。ただ、体がたいそう弱く、少し出かけてはすぐ熱を出し、ベッドにいることの方が多かった。
そんな母は、歯医者を経営する父に見つからないように、禁止されていたチョコレートをひとかけら雄二に渡すと、「雄二、秘密よ」ふふっと笑いながら小さい身長には不釣り合いなほどのロングのウェーブがかった髪をサラッと揺らし、きんもくせいの香りを振りまいた。母はそのチョコレートを喜んで食べていると思っていたが、雄二はチョコレートを食べることなく引き出しの奥の宝物入れにしまった。
食べてしまうのが惜しかったのだ。母のことを忘れたくなかったからかもしれない。勿論チョコレートは暑い常温の場所にあると溶ける。
ある日、宝物入れを出しっぱなしにして学校から帰ると、宝箱の中身は空になっていた。ハウスキーパーがどうやら捨てたらしかったことは、秀才である雄二が推測することは当然であった。賞味期限が切れた溶けたチョコレートが沢山あり、尚且つこの家には父の言いつけで甘いものを置かぬように指示されていたのだからこの行為は当然であったのかもしれない。
ただ、この時、一番初めに浮かんだのは、母だった。当然、このチョコが見つかったからにはそれを与えていた人物への追及が始まるだろう。
案の定、ハウスキーパーは父へ言いつけ、母は食事の際に弾劾されることになった。そして、お前は偉い、こんな母の誘惑に勝つことが出来てと父に褒められる次第になった。
雄二は何度も「そうではない。誘惑を絶つために食べなかったわけではない」と言い返そうと思ったが、母を守る言葉も真実も言い出すことはついにできなかった。
いつも雄二のことに関しては父に文句を言う母もこの時は「雄二、ごめんね」と伏し目がちに謝った。そんな母を見て心底心が痛めつけられた。そうではないんだよ。嬉しいからそうしたんだ。という言葉はなぜか声に出すことが出来なかった。喉の奥まで出かかっているのに何かがせき止めているようだ。父の偉大さに委縮したのかもしれない。父は、そんな様子の母を責め続けた。
この弱い女を養ってやっているのは誰だ。と。普段は芯が強く何を言われてもしなやかに言い返す母を一方的に支配することに快感を覚えているらしかった。「全く君はだめな女だな。こっちへ来なさい」母をそのまま無理やり自室へ連れていくと性行為を行っている様だった。雄二は父に激しく嫌悪感を覚えるとともにこの弱さは雄二自身の手で守らなくてはいけないようなものに感じた。雄二にとって弱さは母であり、女らしさの象徴であった。
そう決意した次の日から母は花のようになった。綺麗だったから余計にそう思ったのかもしれない。何も食べず、何も笑いかけず、その美しい瞳に雄二の姿を映すことはもうなかった。父も初めの方は、そんな様子の母に文句を言っていたが、そのうち母に興味を示さなくなったのか、家に帰ってくることが少なくなった。
母は、ある日突然死んだ。ただでさえ体が弱かったのに、死んだ様に動かなくなったために心労がたたったのかもしれない。
原因がわからずただ、心不全と簡潔にカルテに書かれた文字を見て雄二は、泣いた。体中の水分が抜けてなくなってしまうのではないくらい泣いた。あの時「そうではない。母は悪くない」と言い返すことが出来ていれば母は死ななかったかもしれない。優しくしなやかで可憐な母を壊した原因は僕にあるのかもしれないと思った雄二は、その日にした決意を自分の信念のようなものに変えた。
弱いものを救うのは、雄二にとって定言命法となり雄二自身も、父を超える偉大さを身に着けさせる原動力とした。
順当に名門大学へと進み、そこで出会った桃子に雄二が恋をする決め手になったのが、彼女の弱さであった。いつも笑顔で人に気を配る割にはその表情は寂しそうで心はここに存在しないように見える。風が吹くと折れてしまうのではないかと思えるような精神の儚さ、一音一音の響きに間違いがないかと不安げに周囲を見つめる黒い瞳。化粧っけがなくかすかにベビーパウダーをはたいたような青白い頬。
そこに母の弱弱しさを見た雄二は、桃子の手を取り合うことを決意した。
桃子と初めて寝たホテルで、彼女の青白い肌が赤色に染まるのを見て、雄二は母にできなかった思いを晴らすことができるような気がした。次はこの弱さをきっと自分の手で守ってやれるとそう思った。彼女の黒い髪から香るかすかな花のような香りも母を思い出させた。
「桃子、君は本当に女らしいね」
桃子はそういうと体をびくっと震わせた。それから数分した後、桃子は雄二のペニスを思いっきり右にひねった。
「うっ」「じゃあ、あなたが男らしいと言えるのこれだけじゃない」
雄二には何が何だかよくわからなかった。ただわかるのはこのペニスの痛みと桃子は何かを思い、ここから去ろうとしていることだけだ。
「待ってくれ、桃子、桃子」
そう懸命に話しかけたが、桃子は、今まで来ていた服を足早々に着て、さようならも言わずホテルを立ち去った。
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