スコップ

松井みのり

スコップ

 ザク、ザク、と私たちは永遠に穴を掘っています。もう何年も何年も、ザク、ザク、と穴を掘っているのです。夜、私たちが穴を掘る作業を終えた後、やっとの思いで、わらでできたベッドにつくのですが、あまりの疲れのためか、なかなか寝付けません。一時間ほど経つとやっと眠れるのですが、夢の中でも、スコップで土を突き刺す感覚が、手や腕、足、そして体全体に蘇り、嫌な気持ちでふと目が覚めるのです。それくらい毎日、毎日、ザク、ザク、と穴を掘っています。

 いつも、朝日が上る少し前に起床します。いつもそうです。そして、目覚めてからアラームが鳴るまでの十数分の間、女を抱くことを妄想するのです。妄想することができることは、神から永久的に与えられている自由と甘美の象徴だと思います。しかし、妄想を終えアラームが鳴ると、もう何年も何年も女と会話なんてしていないのですから、私が女を抱くことは生涯ないのだろうと落ち込み、なぜあんな妄想をしたのかと自己嫌悪に陥るのです。これが私の目覚めです。この部屋には、私を含めて、十二人の男たちが眠っていますが、きっと隣で寝ている男も、私とそう変わらないでしょう。所詮、私たちは同じ場所で働いている似たもの同士です。食べているものも、考えていることも、寝ている時間もいつも同じですから。

 アラームが鳴り終える頃には、朝食のために、食事場の席に着いていなければなりません。小麦をお粥のようにしたものを喰い、ぬるい水を飲み干します。そして、起床時の自己嫌悪は、飯を喰っている間も延々と続きます。そうして、飯を喰い終わる頃には、すっかり自分に嫌気が差しているのです。しかし、私たちの朝食に設けられている時間は四十秒です。この四十秒という時間は体内時計です。以前、必死に頭の中で四十秒を数えたので間違いないと思います。私たちは腕時計などを所持することを禁止されているのです。時間内に食べ切らなければ、帽子を被った男が、私たちの椅子を蹴り飛ばしにきます。朝食の時間が、短いと思われるかもしれませんが、慣れると楽なものです。それに、ある時、自己嫌悪の時間が短くなることに気づき、知らぬ間に私はこの四十秒間に救われていたのだと思うようになりました。不自由に救われているのです。

 朝食が終わると、五分で穴を掘る場所に着いていなければなりません。もちろんこの五分間という時間も体内時計です。繰り返しますが、私たちは腕時計などを所持することを禁止されているのです。カレンダーなども部屋にないので、時間感覚だけではなく、曜日、月日、年月の感覚がなくなっています。それぞれが、倉庫近くにある大きな錆びた鉄の籠から、スコップを持ち出し、梯子を下りて所定の位置につき、ザク、ザク、と穴を掘ります。積み重なった疲労のためか、それとも穴を掘る場所がだんだんと遠くなっているためか、五分でこの場所へ辿り着くのが難しいと思うようになりました。

 ですが、このスコップを持ってから、穴を掘り進める場所へ行くまでの時間が、毎日の中で最も楽しみな時間です。もちろん、穴を掘る作業が楽しみで胸が弾んでいるわけではありません。私たちの作業場は、錆びた鉄の柵で囲まれているのですが、その柵から見える自然の景色が美しいのです。何年も同じことを繰り返しているからでしょうか。季節や天候による自然の彩りの変化が心を揺さぶるようになったのです。暁闇に生命を吹き込む朝日。やわらかい太陽を纏っている白樺林。林の小鳥、レンジャクがうたう自由の歌。そして、どこかあたたかく感じられる地層が露出した真白い岩肌の断崖絶壁。そんな景色を見ていると、私がぼろぼろな靴で踏んでいるこの土さえもが、どこか雄大なもののひとつに感じます。これも神から与えられた想像の自由でしょうか。

 こうして、朝の作業が始まります。もう説明不要かと思いますが、作業内容は、ただただ穴を掘るだけです。私はなぜ穴を掘っているのか、この作業がいったい何のためにあるのかを知りません。もしかすると、以前に作業の目的を聞いたことがあるのかもしれませんが、それでも、ただ穴を掘るだけの毎日が永遠に続いたからか、そんなことは、とうとう忘れてしまったのだろうと思います。この穴が誰のために役立つのか知ったところで、私が何を食べるのかも、何を掘るのかも、どこで寝るのかも何も変わらないのですから。

 作業はただ穴を掘るだけなので、作業中は、ほとんど誰も口を開くことはありません。それに、帽子を被った男から作業中の雑談は禁止されています。ただ穴を掘るだけの作業に意思疎通は不要と判断したからです。きっと、連絡も報告も相談も、よほどの緊急事態がなければする必要がないからでしょう。毎日そう過ごしているから、作業する男たちの顔は覚えていても、その口から一体どんな声が出るのかは覚えてなんかいません。

 帽子を被った男から報告しろと言われていることは、誰かが柵を登り、この穴掘り場から逃げ出そうとしている場合だけです。私はこれまでに四度報告しました。柵は、どれほどの高さがあるのかはわかりませんが、きっと登りきるには三十分以上かかるであろうということはわかります。柵に棘が絡まっているわけではありません。とても高い高い柵があるだけなのです。それに、私がここから逃げ出そうなんて考えるよりもずっと以前に、逃げようとした男がいたのですが、柵につかまり、さて足をかけ登ってやろうという時に、報告され、連れていかれ、明くる日には、目の上に火傷でできた腫れ跡がある状態で作業をしていたのです。それを見て恐ろしくなった私は、何があっても、この柵に手を触れぬようにしようと思いました。

 朝の作業が始まって何時間か経つと、黒パンと水が、帽子をかぶった男によって支給されます。昼食に、黒パンが支給される理由は、私たちが食事場に戻らなくても働き続けられるように、持ち運べるからです。そうして、また作業がはじまり、空の色が薄暗くなり、更に闇に支配された頃、帽子を被った男がロウソクを灯したランタンを持ち、私たちを食事場へ集めます。この時、腕や脚はもうほとんど動きません。どれだけスコップの使い方が上手くなっていても、やはり、どうしようもなく疲れてしまうのです。そして、十分間でまた朝食と同じ食事、小麦をお粥のようにしたものを喰い、ぬるい水を飲んで、寝室に向かわされます。こうした日々が永遠に続いているのです。繰り返しますが、もう何年経ったのかもわかりません。そして、この生活が何年続くのかもわかりません。いつから始まり、いつになったら終わるのかわからない苦しみに、永遠に耐えなければならない。これが、私の人生です。

 毎日同じような日々を過ごしているので、きっかけは全くわかりません。しかし、ある朝、ここから逃げようと決意しました。あるいは、逃亡に失敗して、殴られて、殺されようと思ったのかもしれません。とにかく逃げようと思ったのです。逃亡を決意した理由はとても簡単なものです。生きていても、死んでしまっても何も変わらないからです。私一人が死んだところで、悲しむ人はいません。同じように、私一人が生きたところで、誰も喜ぶ人はいないのです。

 丸一日かけて計画しました。丸一日という時間が短いのか長いのかはわかりません。ただ私が持っている情報はあまり多くないので、計画するための時間がどれだけ多くても、計画するための時間がどれだけ少なくとも、結論は変わらなかったに違いありません。逃亡は雨が降る新月の夜に決行します。月明かりがない夜の暗闇と、不快なほどの雨の騒音を味方にすることにしたのです。

 雨が降る新月の夜がくるのに、おそらく四ヶ月ほど待ちました。毎晩毎晩、作業を終える時に、月を眺めました。そして、満月が終わり、下弦の月になると、夕日を見つめながら作業をするのです。雲で夕日が隠れている時は、これは明日には晴れている可能性があるので、とても危険です。しかし、全く雲がない空であった場合、明日は晴れであることが明らかなので、私は深い深い絶望を味わうのです。そして、そろそろ新月という日に、夕方の雲を見て、翌日、雨が降ることがわかりました。人間たちが何をしているのかなんて、全く考えたこともないような空に浮かぶ雲たち。うろこ雲なのか、ひつじ雲なのか。どちらなのかは、判別することができませんが、とにかく明日は雨が降ることがわかりました。ようやく、この人生が終わると思うと、急に指が震えてしまい、手に力が入らなくなりました。その日の夜のおかゆは、よく噛んで食べたのを覚えています。少しだけ、味を感じました。味です。舌の上に味を感じたのです。不思議な感覚でした。何年も前に、ここへ来た頃を思い出したのか、それとも、私がそれを思い出したかったことにしたかったのかはわかりませんが、肉体が少し若くなったような気持ちになりました。その日の夜、私はスコップで作業する夢を見ることはありませんでした。雨が降り続いていたから安心したのかもしれません。不思議とぐっすり眠ることができたのです。

 逃亡する日の朝になりました。目が覚めてから天気の確認をしました。窓を見ると、昨夜から雨は降り続いていたのであろうと思います。どれだけ雨雲が空を覆っても、朝日は私たち人間のもとへ届くものだと、私らしくない哲学的なことをぼんやりと感じていました。しかし、一方で私の呼吸は少し荒く、落ち着くことは全くありませんでした。もちろん逃亡を決行するからです。天気によって私の決心は背中を押されたようにも思います。私は、いつも通り、いつも通り、と頭の中で反復しながら、ぬるい水を飲み、おかゆを喰い、錆びたスコップを持ち、土砂降りの中、作業場につきました。

 朝の作業の途中、私は急に緊張の限界を迎えました。その結果、嘔吐しました。土の上に吐きました。豪雨でしたので、吐瀉物が目立つことはありませんでしたが、口の中いっぱいに広がる気持ち悪さは、私を苦しめました。焦りながら、ぼろぼろな靴で吐瀉物を必死に隠しました。帽子を被った男によって、昼食が支給されるまでの間、私はずっとこの緊張と吐き気と戦いながら、いつも通りの作業をしました。そして、昼食が支給されました。私は、支給されたパンをポケットにしまい、再び作業をはじめました。このパンを受け取る瞬間は、手と、それから心臓が震えていました。もちろん緊張のためです。しかし、帽子を被った男は、寒さによって震えていると思ったのか、それとも私の様子がおかしいことに気づかずにいたのか、私の手のひらの上に黒パンを乗せて、ただ目をジッと見つめてくるだけて、質問することはありませんでした。目は口ほどに物を言うという言葉がありますが、この帽子を被った男の目は、何を意味しているのか全くわかりませんでした。

 昼食が支給され、何時間かが過ぎましたが、雨は降り続けており、少しずつ空は暗くなってきていました。いよいよです。今、私の周りで作業をしている人間は二人です。

 私は、一人目の男の後頭部を、スコップで大きく振りかぶって殴りました。土しか掘っていなかった私の体に、明らかに今までと違う衝撃が響きました。おそらく鈍い音がしたのだろうと思います。しかし、私の耳には男を殴った音は聞こえませんでした。私は殴った反動と濡れた土で体勢が崩れました。それでも、私はもう一撃。もう一撃。もう一撃。もう一撃。なんとか、一人目は倒れました。泥が睫毛の上に乗り、視界が悪くなりました。それでも、この男にとどめをささなければ、いけません。私はスコップでもう一撃。もう一撃。もう一撃。これで、もう動かないと確信したので、スコップによる攻撃はやめました。それに、スコップが脆くなってきていることに気がついてしまったのです。

 もう一人の男は、私が人を殴っていることに気がついているようでした。男は固まったままでした。私は泥のせいで視界が悪くなっていたので、この男が驚いているのか、それとも怯えているのかはわかりませんでした。私は、帽子を被った男に報告されてはいけないと思い、この男も殴ることにしました。脆くなったスコップで顔面を殴りました。不思議なことに、この男は無抵抗でした。理由はわかりません。ひょっとすると、殴られた時の対応を、帽子を被った男に教えられていないからかもしれません。私は目の周りについた泥を拭うと、スコップは泥と血で汚れていることに気がつきました。血を見て、気持ち悪くなり、もう一度嘔吐してしまいました。雨に打たれている寒さに、ようやく気がつき、身震いしました。そして、ようやく二人目の男を殴った時に、私がつい漏らしてしまった声が、私の脳内を反芻しました。さらに、無抵抗だった男が最後に吠えた声も、私の脳内を反芻したのです。私は、震えが止まらなくなってしまい、しばらく休んでしまいました。

 それから、私は雨に濡れた柵を溺れるように必死で登りました。もう腕に力が入らなくなっていましたが、雨と汗で濡れた柵を必死に掴みました。腕に力を込めるたびに、声にならない声が、喉から漏れました。喉から血が出るような痛みさえありました。この柵から落ちるのは、どんなことがあっても避けなければならない。ぼろぼろな靴は何度も滑りました。手の皮は、もうすでにボロボロにやぶけていました。顔中に大量の雨がぶつかりました。空がどれほど暗くなっているのか、それから帽子を被った男が近くにいるのか、何も周りを見渡す余裕はありませんでした。どんなことよりも、とにかく柵から落ちないように、自分の体力が尽き果てる前に、力の限り、とにかく精一杯登りました。闇は夜明け前が一番暗いのですから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

スコップ 松井みのり @mnr_matsui

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説