次の日。私はいつもよりも早く起きて、テキパキと学校に行く準備を整えた。


「なに? 今日はなにかの当番?」

「う、うん。そう! お弁当も自分でつくったから大丈夫だよ!」


 とりあえず昨日の残り物のおかずを弁当に詰め、ご飯も入れておいた。私は急いで荷物をまとめて、学校へと向かう。

 萩本くんとちゃんと話をしないと。そう思っていたとき。

 私は通りを見て、目を見開いた。

 道路を挟んだ向こうに、女子校の制服を着た可愛い子と萩本くんが歩いている。萩本くんは私のほうに気付いたみたいだ。彼は周りをきょろきょろとしたあと、マスクを外した。


「ごめん、先に学校に行ってて」

「え……」


 隣の女の子は、萩本くんの端正な顔つきを見ても、なんの反応も示さなかった。ということは、彼女も萩本くんの素顔を知っているんだ。そう考えたら、またももやもやしたものが走ったけれど。

 萩本くんはその子と一緒に連れ添って出かけていった。

 そこで私は気付いた。


「……萩本くん、どこに行くんだろう」


 学校は反対側で、あちらの道は有名女子校の方角のはずだ。女子校の校則は知らないけれど、大概の学校は部外者と一緒に学校に行ったら困るんじゃ……。

 私はなにも言えずに、ただ黙って見送ってから、学校に向かった。

 もしかして私、勘違いしている? なにかに。

 上手く頭に入らず、ただもやもやしたものを抱えながら、私は学校へと急いで行った。


****


 学校に着くと、まだ教室に他の子たちがいないのを確認してから、私はいつもの階段へと向かう。学校の先生たちもまだまばらだから、階段に座り込んでいても誰もなにも言うことはない。

 私はひとりで膝を抱えてぼんやりとする。萩本くんとあの子。どういう関係なんだろう。

 ただの道案内とか……ただの道案内の子と一緒にカラオケになんか行かない。

 元同級生とか……萩本くんの中学時代の話を聞いている限り、ただの女友達がいたんだったら、マスクで顔を隠す現状はなかったと思う。

 元カノ……いくらなんでも、それは飛躍し過ぎかも。

 どうにか自分の中で都合のいい話をつくろうとすればするほど、「そんな上手い話なんてある訳ないよ」と却下されていき、心の中がどん詰まりになってしまう。

 萩本くん、まだかなあ……。そう思いながら膝に頭を乗っけて座っていたら。

 ゼイゼイという苦しそうな息が聴こえて、思わず顔を上げる。萩本くんが、息を切らしてゼイゼイと息をしていたのだ。苦しかったのか、普段はしっかりとしているマスクまで指を突っ込んで空けてしまっている。


「萩本くん……」

「……ごめん。全然、勘違いさせるつもりは、なくって……」

「えっと……勘違いってなに?」

「ごめん……羽仁花に言われるまで気付かなかった。勘違いさせているって」

「はにか……羽仁花さん?」


 さっきの可愛い女の子が頭に浮かび、途端にもやもやとしたものが胸にひしめくけれど、それは萩本くんの言葉で霧散した。


「羽仁花。俺の従姉妹」

「え……従姉妹……さん?」


 下の名前で呼んでいる。かなり親しげ。マスクを外した顔にも無反応。

 ……親戚だったら、たしかに当たり前の反応だった。でも……。従姉妹とは、普通に結婚ができるから……。

 私はなにか言おうか思案していた中、萩本くんが言った。


「あいつ、最近痴漢に遭ってたから」

「……はあっ?」

「……ごめん。そういう話って、いきなり言われたら驚くし、怖がるかもしれないから、黙ってた。そしたら羽仁花にものすごく怒られた。こういうところが、俺の誤解されやすい部分だから、きちんと説明したほうがいいって」


 そこから萩本くんは、淡々と説明してくれた。

 唐突に帰らないといけなくなったのは、羽仁花さんが部活帰りに痴漢されたから交番に逃げ込んだのに、迎えに行ける人がいなかったから迎えに行っていたこと。それからしばらくの間は、羽仁花さんが怖がって外に出られなくなっていたから、送り迎えをしていたこと。


「それは……」

「……山中さん、ただでさえ、アプリのコメント欄が炎上していたのに加えて、身内の痴漢騒ぎの話をしたら、余計に怖がって歌えなくなるんじゃと思ったら、それは駄目だろうと思って言えなかった。ごめん」

「……あのね、そこで謝らないで」


 むしろ謝られるほうがキツイ。


「私、萩本くんが思っているほど、心配性じゃないし、むしろ自己中だよ? 萩本くんほど、当たり前に気遣いできないよ?」


 そんなつもりはなかったのに、あまりにも自分が恋愛脳だったのかと思い知らされて、恥ずかしさでいっぱいなんだから、私は謝られる義理はない。

 清水さんは「萩本くんは山中さんに甘え過ぎ」なんて言っていたけれど、きっとそんなことはない。

 女性に対する不信感を募らせている萩本くんに甘えてしまっていたのは、むしろ私のほうだ。勝手に安心していたんだから。彼は誰かのことを好きになることはないだろうって。萩本くんの気持ちは萩本くんのもので、私のものじゃないのに、勝手に決めつけてしまっていたんだから。

 萩本くんはそんな私の言葉に、本当にキョトンとした顔をしていた。


「山中さん?」

「私、萩本くんのことが……好きです」


 萩本くんは黙って私をマジマジと見ていた。

 世の中の人は、どれだけ人に好意の言葉を口にしているんだろう。私はいっぱいいっぱいになって、先の言葉はまるで言い訳じみていてみっともない。


「【カズスキー】さんの歌が素敵で、ずっとアプリで聴きながら、一緒に歌っていたの。ゴミ捨てのときにたまたま私の歌を聴いて声をかけてくれたのが、その……よかったなあって思ってる」


 みっともない言葉。


「私、褒められるところなんてちっともないって思ってたのに、萩本くんがどんどん褒めてくれて……嬉しくなっちゃってね。歌を歌うのが、前よりも楽しくなったの……だから、コメント欄が炎上したのも、調子に乗ったからだって、思い詰めていた。多分萩本くんがいなかったら、私また歌えなかったと思う」


 みっともない気持ち。


「……大変そうなのを見て、勝手に安心して、不安になったから口にして、ごめんなさい。本当に……ごめんなさい」


 みっともない告白。

 告白した直後に謝るのは、あまりにも無神経だ。

 口にした途端に、綺麗な告白と一緒に、汚泥のような言い訳が纏わり付いた。みっともなさ過ぎて、一分前に戻れるんだったら、今すぐにでも取り消してしまいたい。でも、取り消すことなんて当然できなくて、私は思っていたことを一気に吐き出していた。

 それを途中で中断させることなく、黙って萩本くんは聞いていた。

 ……ほら、私の自己満足に、萩本くんが困っている。本当に私さえ我慢していたら上手くいくはずだったのに。そう思っても、清水さんの鼻で笑う声が頭に残る。


『山中さんと萩本くんの関係は、山中さんの犠牲で成り立っている訳だ』


 私も萩本くんも、どちらが我慢しても、どちらが犠牲になっても、どうしようもないんだと思うよ。

 しばらく黙って聞いていた萩本くんは、「山中さん」とようやく口を開いた。マスクを完全に外して、ポケットにねじ込んでいる。

 浮かんでいる表情は、困惑のひと言。視線は戸惑うように揺れ動いているのに、それでも私のほうに向けている。

 ……そうか、私。フラれるんだな。萩本くんは、周りが勝手に人間関係を悪化させていたと言っていた。あのときも、萩本くんの気持ちは置いてけぼりで、勝手に周りが盛り上がってしまい、勝手に周りが炎上し、彼ひとりを残して焼け野原になってしまったらしい。

 今は私ひとりしかいない。今だったら、初めて萩本くんもフることができるだろう。

 彼からしてみれば嫌かもしれないけれど、私は初めて彼にフラれた人間となればいいのにとぼんやりと思う。

 汚泥のような言い訳でズブズブになっている私は、覚悟して彼を凝視した。

 やがて萩本くんは、唐突に私の手を取ってきた。

 ……へ?

 今まで、どれだけ近くに寄ったとしても、せいぜい一緒にスマホで音楽を聴いたり、肩を寄せ合って一緒にカラオケをしたくらいだ。それでも。手を取られたことなんてなかった。


「……俺、多分重いと思う」

「重いって?」

「……周りが勝手に盛り上がって、周りが勝手に喧嘩して、結果として誰も残らなかったから。前に【カイリ】さんのコメント欄が炎上したのだって、勝手に盛り上がって、勝手に妄想の中で【カズスキー】を祭り上げてしまっただけで、俺の気持ちなんて丸無視されたし。そんな勝手に人間関係が悪化して、勝手に浮くしかない状態で、俺だけを見て欲しいなんて虫のいい話、無理だと思うから」

「……私、萩本くんに、気持ちを押しつけたりしないよ?」

「でも、山中さん言い逃げしようとしている」


 そう釘を刺されて、私は喉の奥で呻き声を上げた。図星だ。私は自己満足で告白して、それでおしまいにするつもりだった。

 でも……これはどういう意味で萩本くんは言っているんだろう。

 私はフラれるの? それとも……諦めないでいいの?

 やがて萩本くんは、私の手を掴む力を強める。


「逃げないでよ。一緒にいてよ。もう俺、また勝手に盛り上がってひとりで放置されるのヤだよ」


 その吐き出すような言葉。

 彼はかなたんさんにも、マキビシさんにもさんざん「図太い」って言われていたけれど、もしかして図太いというよりも、人に対して期待するのを諦めてしまったから開き直っていただけなのでは……とふと気付いた。

 顔のせいで、勝手に周りから遠巻きにされていた。歌声のせいで、勝手に周りが祭り上げてしまった。……どちらも、萩本くんが寂しがっていることに気付きもせずに。


「……あのね、萩本くん」

「なに?」

「私、好き以外に全然上手い言葉が思いつかなくって」

「うん」


 私は漠然と思ってしまった。


「でもね……歌うことはできるよ」


 彼をひとりぼっちにしたくないなあと。

 私は萩本くんにできることはあまりにも少ない。私はようやくランキングに乗るようになった歌い手で、力は全然及ばないし。

 教室でも可もなく不可もない成績だし、人の顔と名前が一致しないくらいには、物覚えも悪いし。

 そんな私が唯一できることは、歌うことだけだ。

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