私たちが取った部屋は、少人数用の少々手狭な部屋だった。

 それでもふたりで使うには充分の広さだった。そこに辿り着いた途端に、私はとうとう声を上げて泣き出してしまった。

 それを清水さんは困ったように眉尻を下げてこちらを見つめてくる。


「……山中さん、泣くほど萩本くんが誰かとカラオケに行くの嫌だったんだ?」


 そう尋ねられ、私は小さく頷いた。


「……入学したら、知らない人ばっかりで。上手くしゃべれないから、友達も全然できなくって」

「うん」

「歌を歌うことだけだったんだよ……自分のこと好きになれたのは」

「それを、萩本くんと?」


 さすがにアプリのことや歌い手のことは、清水さんには言えなかったけれど。私は大きく頷いた。

 萩本くんは歌い手として、いろんな人と歌ったり舞台に立ったりコラボをしたりしているけれど、私はそうじゃないんだよ。

 私はひとりで勝手に歌っていて、その勝手に歌っていた私を褒めて、コラボに誘ってくれたのは萩本くんだけなんだよ。

 萩本くんにとっては大したことなかったかもしれないけれど、私にとっては本当にかけがえのない時間だったんだよ。


「ひとりで歌ってたら、その歌をずっと褒めてくれて……嬉しくって……一緒にカラオケで歌うようになったの……楽しくって……大切な時間だったんだけど……でも……」


 萩本くんにとっては、そうでなかったのかもしれない。

 私が清水さんとカラオケに行くように、萩本くんだって誰かとカラオケに行ける。そう突きつけられたことが、そんなにショックだったなんて私も気付かなかった。

 清水さんは「なんというか」と口を開く。


「恋愛ってもっとギラギラしているものだと思っていたから、山中さんと萩本くんを見ててそれだけじゃないんだって、今知って驚いている」

「……ギラギラ?」

「ふたりとも、そういうのじゃ全然ないじゃない。女子も男子も、タイプの子がいたら肉食獣が草食動物追いかけるみたいにグイグイいくのに、ふたりとも互いのことを周りに全く話さずにこっそりと一緒の時間を築いていって、そういうのっていいなと思ったの。私、家の都合で多分そういう恋愛なかなかできないだろうから、余計に羨ましく思えた」


 そう清水さんは頬杖をついて言った。

 私は思わず自分の目尻を拭う。


「……私、萩本くんのこと、好きだったのかな」

「違ったの? 他の人と歌うのが泣くほど嫌がるのは、もう好きなのかとばかり思ってたけど」


 言われてしまったら、ストンと腑に落ちてしまった。

 私にとって大切でかけがえのない時間に、できるだけ名前を付けたくなくて、見て見ぬふりをしていた。でも……。


「……萩元くん、中学時代大変だったんだって」

「大変って……?」

「人間関係壊れまくって、各方面から恨まれてたって。その……もて過ぎてて」

「なるほどね……好かれた女子を狙ってた男子にも、振られた女子にも恨まれて、嫌な噂を撒き散らされたっていう奴ね」

「……うん。だから私……抱えているのがつらいからって理由だけで、言えないよ。萩本くんがつらいのは、嫌だから」

「なるほどねえ……山中さんと萩本くんの関係は、山中さんの犠牲で成り立っている訳だ」


「へっ?」


 意外過ぎる感想に、私は思わず声が裏返る。清水さんはドリンクバーで汲んできたアイスティーを流し飲みしてから告げる。


「だって、高校生活って三年間しかないのよ? 恋愛するのがしんどいから、好きと絶対言わない相手をキープとして置いておくって、そんなひどいことある? もしかすると山中さんが他の人のこと好きになるかもしれないのに」

「えっと……大袈裟じゃないかな。多分萩本くんも、私のことなんとも思ってないから、教えてくれたんだし……」

「尚のこと駄目よ。人の気は変わるものなんだから。人の好意や善意に甘え過ぎてる」


 本当に思ってもいなかったことを言われてしまい、私は途端に挙動不審になる。自分ではそんなこと考えてもみなかったから。好きだからと言って、これでどうこうするつもりはなかった。

 だから、あの女子校の女の子のことを、本当だったら私はとやかく言える立場ではないんだ。だって、付き合ってもいないのに、人が誰かと一緒にいたことについて、なにも言える訳ないじゃない。

 私が押し黙っている中、清水さんは続けた。


「だからさ、一度きちんと萩本くんと話し合ったほうがいいんじゃない?」

「……なにを言えばいいんだろう。私、付き合いたいとか、そんなんはちっともないのに」


「一緒に歌いたいって素直に言ってみたら? あ、私も山中さんの歌を聴きたい。曲どんなもの歌うの?」


 そう言いながら、清水さんはようやくタッチタブレットを持ってきて私に見せてくれた。迷った末に、私は萩本くんと初めて会ったときに歌った曲を入れた。清水さんが入れたのは本当に懐メロで、90年代の曲だった。

 ふたりでカラオケを歌って帰って行く。

 萩本くんとだったら、どんな歌い方とか、どんな練習をしているとか話ができるけれど、清水さんとは歌の方向ではちっとも話が弾まなかった。

 それでも清水さんは会計を済ませたあとに「また行こう」と誘ってくれた。


「あんまり歌えないから、懐メロを歌うと古臭いを連呼されて」

「そんなことは……」

「だって私たち生まれてくる前の曲じゃない」


 そう言われるとグーの音も出ず、私たちは家に帰っていった。


****


 家に帰ってからというもの、私はゴロゴロとベッドを転がっていた。

 アプリを確認するべきか、しないべきか。一応萩本くんがメッセージ出す手はずになっていたけれど、本当になんとかなったんだろうか。

 私は見るべきか見ないべきかで、スマホに手を伸ばすのを躊躇っていたら、いきなり通信アプリの着信音がついた。

 確認してみると、かなたんさんからだった。


【カイリさんのアカウント、だいぶ綺麗になったと思いますよ】

【あまり気負いせずに歌ってくださいね】


 そのひと言に、じんわりと胸が熱くなる。

 別に閲覧数が増えなくっても気にしなかった。別に閲覧数が増えたからと言って、どうこうする気なんてこれっぽっちもなかった。それでも、誹謗中傷のコメントが怖かった。

 私は恐る恐るアプリを起動させると、自分のアカウントの感想欄を眺めてみる。


「あ、あれ……?」


 あれだけ誹謗中傷で賑わっていた私のアカウントは、コメントが綺麗さっぱりなくなっていた。萩本くんやマキビシさんが言っていたコメント欄を見えなくするアプリも使っていないのに、思いっきり。

 私はびっくりしてかなたんさんにメッセージを送信する。


【あれだけたくさんあった誹謗中傷コメントが全部消えたんですけど】

【これってどういうことでしょうか?】


 すぐにかなたんさんから返事が来た。どこかのアドレスも送付してある。


【あれねえ、カズくんがメッセージを流したら、慌てて削除したみたいで】

【一応アドレスは載せておくけれど、ちょっとびっくりするかもね】


 びっくりするようなことって、萩本くんはいったいなにをやらかしたんだろう。私は怪訝な思いで、かなたんさんが上げたアドレスを押してみた。

 押して出てきたのは、【カズスキー】さんのひと言SNSのホームだった。SNSがよくわからなくって未だにアカウントを持っていないけれど、そこの一番上に固定されてあるメッセージを見て、私は思わず目が点になってしまった。


【カイリさんの誹謗中傷について


 先日コラボ動画をアプリにアップした際、コラボ相手のカイリさんに突撃する方々がおられて困惑しておりました。

 彼女はとても歌の上手い僕のパートナーです。彼女への誹謗中傷はお止めください。

 もしそれでも続ける場合は、弁護士に相談します。】


 弁護士に相談するなんて、マキビシさんの提案に真っ向から萩本くん本人が否定する話だったはずなのに。どうして。


【カズスキーさん、私のこと思いっきり庇ってくれたんですねえ……】

【いやいやいや、カイリさん。もうちょっと調子に乗ろうね? だって朴念仁のカズくんが、コラボ相手の歌い手のことをパートナーって呼ぶのは、よっぽどのことだから】


 そうかなたんさんに指摘され、私はもう一度【カズスキー】さんのコメントに目を通す。

 歌ってないことにはとことん無頓着な私は、こんなことを考えていたのかという軽い衝撃を覚えていた。


【カズスキーさん、コメントしたこと、後悔してないでしょうか……】

【あれ? カイリさんはどうしてそう思うのかな?】

【カズスキーさん、最近仲のいい女の子がいますんで。その子のことを最優先にしてますから、彼女さんに勘違いされたら、困るんじゃないかと】

【ええ? 朴念仁のカズくんが?】


 それにはかなたんさんも意外みたいだった。かなたんさんはポンポンとスタンプと一緒に言葉を送ってくる。


【この辺りは直接通話で聞きたいけど、通話は大丈夫?】


 そう尋ねられて、私は【はい】と送信したら、その直後に私のスマホはブワンブワンと震えた。


『もしもし、通話でごめんね。大丈夫?』

「ええっと……大丈夫です。はい」

『ごめんね。この手の相談って、本当だったら直接会ってしたほうがいいと思うけど、私もなかなかそっちには行けないから。メールやアプリだと、咀嚼違いで大変なことになっちゃうと思うから、そこでは相談しないほうがいいと思うから』


 かなたんさんの優しい気遣いに、こちらもじんわりと胸が熱くなる。思えばかなたんさんは炎上騒動のときもずっと気遣ってスタンプを送ってくれてた人だった。


「……最近【カズスキー】さんと全然お話しできてないんです」

『うん? 確か【カズ】くんと【カイリ】さん同じ学校だったよね?』

「はい……最近全然会わないんで、話もできてません。それに最近、地元だと一番有名な女子校の子と一緒にいてばかりで……」

『はあ? 【カズ】くん女子と本当におしゃべりできない子なのに?』


 かなたんさんの声は裏返っている。旧知の仲らしいかなたんさんから見ても、この数日の萩本くんの行動は不可解に思えるらしい。

 それにかなたんさんは『んーんーんーんー……』と考え込むように唸り声を上げてきた。


『あの子顔を見られるの嫌がるでしょう? でも未だにマスクを取らないと失礼、みたいなマナーが普及されてる。意味わかる?』

「ええっと……ごめんなさい、よくわかりません」

『学校以外でだったら、慣れた相手にしかマスク姿でずっといたくないってこと。学校でマスクをしてるのだって、喉だけじゃなくって人避けの意味も込められてるんでしょうしね』


 それは思い当たる節があった。

 クラスでも特定の人と一緒にいたがらないし、派手な子たちとは完全に距離を置いていた。私は既に萩本くんの素顔を知っているけれど、あれをずっと隠し通したいほどには、萩本くんは追い詰められているようだった。

 かなたんさんは続ける。


『歌い手のライブのときも、スタッフさんからさんざんマスクを外すよう懇願されたけど、最後まで外さなかったの。自分の素顔が原因でトラブル発生して、ライブを台無しにしたくなかったんでしょうしね』

「でも……マスクを続けてますね?」

『仲のいい相手はマスクをしていても許しちゃうから。多分【カイリ】さんだったら許してくれるという甘えがあったんでしょうね。でもクラスの子たちはそうじゃないから、距離を置いてたんじゃない?』

「多分……あの、つまりは」

『これ以上はこちらの当てずっぽうになっちゃうから、直接【カズ】くんに聞いたほうがいいと思うな。大丈夫、悪いようにはならないから』


 趣味も見た目も背景も違うのに、かなたんさんの温かい励ましは、清水さんのものとよく似ていた。

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