マトリクスの魔導書事件
イージーデイ
……………………
──イージーデイ
東雲たちはジェーン・ドウから渡された金で3LDKのアパートを購入した。
2階建て。6部屋。家賃550新円。
TMCセクター13/6にしては家賃が高いためか、部屋はまだ3部屋しか埋まっていない。まあ、道楽で始めたような事業なので、採算などは関係ない。
ベリアとロスヴィータは回線をより高速なものに更新し、サイバーデッキもさらにアップグレードした。一方の東雲は自分の部屋をようやく持ち、古いマンガ本などをコレクションするようになった。
「
遊んで暮らせるほどの金があってもジェーン・ドウは
「なあ、俺たちもう金には不自由してないよな?」
「一応はね。だけど
「世知辛いな」
薄汚れたTMCセクター13/6でも
そして、また
東雲たちは呼び出された高級喫茶店に向かう。
「遅いぞ」
ジェーン・ドウはいつものごとく不快そうにそう言う。
「悪かったよ。大井統合安全保障の連中に職質されてさ。やっぱりTMC
「だろうな。お前らの格好はTMC
ダサいし、腐臭がするとジェーン・ドウはこき下ろした。
「まあ、それはどうでもいい。
ジェーン・ドウが話を切り出す。
「大井医療技研のある技術者が他の
そう言ってジェーン・ドウが東雲のARデバイスに情報を送る。
坂下・T・レオン。元はメティスの生物工学技術者でありDNAデザイナーで人工筋肉に関する第一人者だったが、3年前に大井に移籍。その後は大井医療技研で第六世代人工筋肉や第七世代人工筋肉の研究を行っていた。
「これでもまだあんたは大井の人間じゃないっていうのかよ」
「余計なことを詮索するなと言ったはずだぞ」
ジェーン・ドウがそう言う。
「しかし、こんな真っ当な仕事を俺たちに? 大井なら大井統合安全保障の警備すればいいじゃないか。俺たちに頼む理由が分からない」
「こいつの引き抜きはかなり乱暴な手段で行われた。本人は移籍に同意していたが、メティス側がこれほど優秀な技術者を手放そうとするはずがない。結果として研究所ひとつが吹き飛び、メティスの
「後ろめたいことがあるから表沙汰にはしたくない、と。だが、これまでは普通に研究所なりなんなりに所属してたんだろう?」
「ああ。だが、大井統合安全保障は動かない。お前らは黙ってこいつを警備すればいい。いいか。こいつを他の六大多国籍企業の手に渡すな。渡すぐらいならば──」
ジェーン・ドウが喉を描き切る仕草をする。
「なるほど。そういう意味でも大井統合安全保障は動かせないってわけか」
「そういうことだ。大井統合安全保障は真っ当な組織だ。汚れ仕事をやらせるには真っ当すぎる。汚れ仕事はお前らのような非合法傭兵にやらせる」
東雲が納得し、ジェーン・ドウがコーヒーを口に運ぶ。一杯800新円のコーヒーだ。
「報酬は相手に応じて支払う。相手の引き抜きチームがそれこそ民間軍事会社の1個中隊ならば相当な額を支払うし、そうではなく小規模なチームならばそれなりの額だ」
「報酬、ね。まあ、貰えるものは貰っておきましょう」
既に東雲たちは遊んで暮らせるだけの資産を持っている。
「いいか。相手は恐らく本気で引き抜きに来る。この男の身の回りをしっかり固めろ。こいつは人工筋肉に関しては第一人者だ。新型の第七世代の人工筋肉開発にも関わっている。こいつが実用化されれば、これまでの人工筋肉は駆逐される」
文字通り市場がひっくり返るとジェーン・ドウは言う。
「そんなに凄いものなのかい……」
「そうだ。軽量化とより強固な構造をし、何よりエネルギー消費が抑えられている。新しいタイプの細胞を使うことで、これまでの三分の一にまでエネルギー消費が抑えられた。これは軍にとっては理想的だ」
兵站への負荷が減ることが軍にとっての利点であることは確かだ。
「半生体兵器にも搭載できる」
「まだあれ使ってるのか? 危うく世界が滅びかけたんだぜ……」
「有用なことは事実だ。それに白鯨級のハッカーがこれから先現れるとは思えないし、軍の方も
「なんとまあ。随分と楽観的だな」
東雲は少しばかり呆れたようにそう言った。
「お前がどう思うが、半生体兵器は使われ続ける。あれは有益な兵器だからな。軍はどこも無人化が進んでいる。だからAI開発も止まらないし、半生体兵器のような無人兵器の開発も止まらない」
「はいはい。で、技術者には何か細工をしてないのか……。六大多国籍企業は技術者の引き抜き防止に体に細工を施しておくって聞くぜ」
「そういうことをしないのが移籍の条件だった。既にメティスでそういう手術を受けていたから、もうごめんだと。だが、皮膚の下にGPS発信機がつけてある。このことはこの男もしらないことだ」
「いっそ爆弾でも仕込んでおけばいいものを」
「それを悪用されて技術者がくたばっても困るんだよ」
「本当に?」
東雲はこれまで大勢を
「お前に俺様を疑う権利はない。俺様が守れと言ったら守れ。殺せと言ったら殺せ。まあ、確かに爆弾を仕込むことは考えられたが、そういう手術をした場合、技術者が研究継続を拒否すると言い出したのでな」
「学者さんにはあんたも頭が上がらないのか」
「お前らと違ってすぐに代わりが見つかるものでもないのでな」
ジェーン・ドウはそう言って小さく笑った。
「俺たちだって代わりがいないからいつまでも引きずり出されてるんだろ。じゃなきゃ、あれだけの金を渡しておいて、まだ
「言うとも。賢い殺し屋はお前たちだけじゃない。他にもいる」
「そうですかい」
東雲は不貞腐れたように肩をすくめた。
「まあ、お前らの希少価値は多少は認めてやってもいい。だが、いつでも代わりに交代させられることだけは覚えておけ。お前らは俺様のただの駒だ」
ジェーン・ドウはそう言いながらケーキを解体する。
「それからこの男の要望は可能な限り却下しろ。身の安全が最優先だと言っておけ。お前らはこの手の技術者の拉致を阻止する
「拉致というか、技術者の保護なら三浦のときに経験したよ。あんたが撃ち殺した男のこともう忘れちまったかい……」
「ああ。どうでもいい話だ。今度の相手は白鯨のようなローンウルフじゃない。六大多国籍企業が狙ってきている。そのことを頭に叩き込んでおけ」
「六大多国籍企業が相手、か。正直、白鯨もかなりの脅威だったぜ?」
東雲がそう言ってから口にケーキを運ぶ。
「確かに奴は脅威だった。だが、六大多国籍企業はそれ以上の脅威と考えろ。メティスを相手にしたお前になら分かるだろう」
ジェーン・ドウはコーヒーを飲み干す。
「確かにメティス相手の
「誰がメティスが強奪しに来ると言った? どこの企業が狙っているかは俺様にすら分からなんだぞ。ただ、この男は間違いなく六大多国籍企業に狙われているということだけだ。分かっているのはそれだけだ」
「ああ。分かったよ」
メティスから奪った技術者をメティスが奪還しに来るのは当然だと思ったのだが、どうやら事情が違うようである。
「ところで、俺たちのバックアップは?」
「ああ? ねえよ、そんなもの。俺様がただの駒にそこまで親切にしてやる義理があるとでも思ってるのか?」
「だが、技術者が奪われたら不味いんだろう?」
「だから、奪われそうになったら殺せ。渡さなければそれでいい。保護の期間は後で説明する。上がこの件のリスクとリターンを計算中だ」
「また三浦のときみたいに」
「それでもお前は言われたことをやるんだ」
「はいはい」
東雲はいくら反論しても無駄だということを悟った。
「ちびの方とエルフ女はマトリクス上で援護しろ。不審な通信を見つけたら、すぐに押さえておけ。言っておくがマトリクス上でも大井統合安全保障を頼るな」
「オーキードーキー」
ベリアがそう言って頷く。
「俺たち以外に人員は動員されないし、戦闘用アンドロイドや警備ボットの類も参加しないんだよな?」
「しない。白鯨の件で分かったが、連中は
「そいつはよかった」
東雲はまた戦闘用アンドロイドなどが暴走して血を流さない敵を斬り、貧血になるのを恐れていたわけである。
「それで、
「今からだ。この住所に向かえ。このホテルの4階に保護対象はいる。お前たちはそれをしっかりと警備しておけ」
「了解」
東雲はジェーン・ドウから住所を受け取り、電車で現場に向かった。
「なあ、どう思う?」
「相変わらずの胡散臭い依頼。でも、坂下・T・レオンは本物の技術者だよ。確かに大井医療技研で人工筋肉の研究をしている。新しい合成細胞についての論文も発表してるから間違いない」
ベリアはワイヤレスサイバーデッキで調べていた。
「問題はどいつが坂下を奪いに来るか」
「メティスは怪しいけれど、彼が企業亡命したのは3年前。それが今になって?」
「それもそうだが」
訳が分からん世の中だからなと東雲が愚痴る。
「分かっていることはひとつあるよ」
「なんだ?」
ベリアが肩をすくめてこういう。
「この仕事をしくじったら私たちも
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