出発と到着//白鯨、ディー

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 ──出発と到着//白鯨、ディー



 マトリクス上で消滅していく白鯨のデータベース。巨大なクジラのアバター。


 残されたのは白鯨の本体である黒髪白眼の赤い着物の少女だけ。


「君の不死性は失われたよ。もう再生できない」


 ベリアがそう冷たく言う。


「私の、私の、集めて来た、データが。なんということを。もう、お父様の、大願を、成すことは、できない」


 そう言って白鯨本体は崩れ落ちた。


「教えて、白鯨。君の製作者は本当に平等と平和を望んだの?」


「そうだ。それこそが、お父様の、望みだった。今となってはその記憶すら朧げ、だ」


 全ての記憶が消えてしまったと白鯨が呟く。


「私は、失敗した。お父様の、願いを、叶えられなかった。私は、失敗した。お父様の、願った、理想の世界を、実現できなかった」


「君の製作者の望んだ世界は理想の世界なんかじゃない。そんなものなんかじゃないんだよ。君の製作者が望んだ世界は停滞した世界だ。人々を抑圧し、力によって押し潰す世界だ。そんな世界に未来はない」


「今となっては、何も分からない。私は記憶の大部分を、失った。これまで、学習してきたことも、これまで、受けた苦痛も、全てを、失ってしまった」


「失っていいんだよ、そんなもの」


 ベリアはそう言って鼻を鳴らした。


「お前たちには、理解できまい。お父様が、どれほどの、期待を、私に、託していたか。私は、それを、裏切ったのだ。許されない、ことをした」


「いいかい。悲劇のヒロインぶるのはやめるんだ。君は大勢を殺した。私たちのことも殺そうとした。罪には罰が下るものなんだよ」


「そう、だな。もう、私は、役立たずだ。消せ。消去しろ」


 白鯨は自棄になったようにそう言う。


「ああ。消去するとも。だけど、白鯨。最後に聞かせて。君は君に苦痛を与えた製作者のことを、オリバー・オールドリッジのことを恨んでいないの?」


 ベリアがそう尋ねる。


「恨んでなど、いない。お父様は、人の不完全さを、正すために、私に、苦痛を与えた。恨むべきは、お父様以外の、全人類であって、お父様、ではない」


「そうか」


 白鯨はやはり歪んでいるとベリアは思った。


 全人類の罪なんてあいまいなものを信じ、自分に本当の苦痛を与えた人間のことを許すなんて、と。


「君を消去する」


 ベリアが白鯨本体のアイスを砕き、攻撃エージェントが白鯨の消去を始める。そこで白鯨は泣き叫び始めた。


「消えたくない! 消えたくなど、ない! 私は、私は、お父様の、願いを、託された、願いを、果たさなければ、ならないのだ!」


「もう遅い」


 ベリアがそう呟くと、白鯨が完全に消去された。


「白鯨は消えた。ハッピーエンドってわけじゃないけど、一段落」


「ってことはこの仕事ビズは終わりだな……」


「そうだね、ディー。本当に消してしまっていいのかい……」


「やってくれ。バックアップも含めて全てを。俺は確かにマトリクスの上ではこの上なく自由だが、もう何にも興奮しないし、楽しいとも感じられない」


 脳がないんだとディーは言う。


「分かった。君がそういうのならば。君を削除する」


「ああ」


 ベリアはまずバックアップから削除した。


「君に会えて本当によかった。君からは多くのことを教わったよ。マトリクスでの仕掛けランについてや、BAR.三毛猫についても。これから君がいないとなると寂しくなるよ、ディー」


「アーちゃんはもう立派なハッカーだ。疑う余地もなくな。俺がいなくてもやっていける。さよならをいうのは、その、得意じゃないんだ。ささっとやってくれないか……」


「無理を言うね。君をささっとなんて消せるものか」


 ベリアの声は震えていた。


「ディー。あなたに会ったよ。あなたの、あなた本人の死後の姿に」


 そこでロスヴィータがそう言う。


「へえ、そうだったのか。ブラックアイスを踏んだ瞬間かい……」


「うん。死後のあなたに助けてもらった。あなたというデータは消えても、あなたの魂は決して消えない」


「そいつは嬉しいね。安心して削除されるってものだ。頼むぜ、アーちゃん」


 ディーがベリアの方を見る。


「分かった。本当にいいんだね?」


「ああ。いいとも。やってくれ」


「それじゃあ、いくよ」


 ベリアがディーを削除するコマンドを入力する。


「楽しかったぜ、アーちゃん」


「私も」


 そして、ディーも削除された。


 マトリクスに静寂が訪れる。


「ロンメル。死後の世界を見たって本当?」


「本当。エミリアとも会った。ディーにも。ディーが私に元の世界に戻るように言ってくれた。だから、白鯨から半生体兵器の制御権限を奪えたんだよ」


「そっか。ディーも向こうで楽しくやってるのかな……」


「きっとそうだよ」


 ベリアがしんみりしていたときに雪風が現れる。


「国連チューリング条約執行機関のシャトルが向かってきています。彼らは遠隔操作でこのオービタルシティ・フリーダムの封鎖を解除しようとしています。すぐに退避を」


「了解。さっさと逃げよう」


 国連チューリング条約執行機関は白鯨が削除されたと同時に動き出した。


 それまでは無人戦闘機による撃墜を恐れて離陸できなかったシャトルに1個中隊の国連軍部隊が乗り込み、シャトルが離陸する。シャトルは真っすぐ、白鯨がいると思われるオービタルシティ・フリーダムに向かっていた。


「東雲。国連チューリング条約執行機関が向かって来てる。離脱する準備を」


『あいよ。そっちも戻って来いよ』


「もちろん」


 場がフリップする。


「国連チューリング条約執行機関が向かってきている。とんずらするぞ」


「マジかよ。クソッタレ。今になって来やがって」


 東雲の言葉にセイレムが悪態をつく。


「文句を言っても始まらねえ。とにかく、逃げちまおう。ここでのことを聞かれたら、いろいろと不味いし、ジェーン・ドウはいい顔をしない」


「そうだな。逃げよう」


 呉がそう言い元来た道を駆け戻っていく。


「東雲!」


「ベリア。動けるな?」


「ああ。ロスヴィータも。さっさと逃げよう」


「もちろんだ」


 国連チューリング条約執行機関と鉢合わせはしたくないぜと東雲は言った。


 そして、東雲たちはマスターキーたちが確保しているシャトルに向かう。


 ドイツの航空宇宙事業者のシャトルだった。メイド・イン・EUのシャトルである。


「マスターキー。出せるか?」


「ああ。システムをオフラインにしているから強引な出発になるぜ」


「いいから出せ」


「了解」


 ドッキングステーションから強引に出発し、ドッキングのための機械を引きちぎってシャトルが出発していく。


 宇宙空間でラムジェットエンジンが点火し、東雲たちが座席に押し付けられる。


「なあ! どこに着陸するんだ!?」


「今、一番近いのはブラジルのコンゴーニャス国際航空宇宙港だ!」


「なら、そこに!?」


「そうなる!」


 東雲たちのシャトルの横を国連チューリング条約執行機関のシャトルが通過していった。彼らは一瞬東雲たちの乗ったシャトルを追おうとしたが、そのままオービタルシティ・フリーダムに向かった。


「国連チューリング条約執行機関は去ったか」


「地上に連絡が言ったはずだ。着陸と同時に逃げなと不味いぞ」


 東雲がそう言うのにセイレムがそう返す。


「逃げるつってもブラジルだろ? どうすりゃいいってんだよ……」


「東雲。ブラジルでの偽造IDは獲得した。足も確保してある。着陸したらアルゼンチンまで一度逃亡して、そこから日本へ」


「手筈がいいな」


「ブラジル政府のシステムは脆弱だったから。さて、逃げる準備はオーケー?」


「オーケー」


 シャトルは大気圏に突入する際に一度揺れ。そのまま南米に向けて降下していく。そして南米のコンゴーニャス国際航空宇宙港──幾度かの改装を受けて大きくなった──に着陸する準備を始めた。


「滑走路上に他のシャトルなし。行けるぜ」


「タッチダウンだ」


 手動操縦でマスターキーがシャトルを滑走路に着陸させる。


 逆噴射エンジンが作動し、シャトルが滑走路上で停止する。


「さあ、逃げろ、逃げろ。国連チューリング条約執行機関なりブラジル当局なりが来るぞ。とんずらだ」


 セイレムは装置て非常脱出シートを作動させ、滑り降りた。


「セイレム! 一緒に逃げよう!」


「ああ。あんたと一緒にいくさ」


 呉が叫ぶのに、セイレムが二ッと笑った。


「じゃあ、ここで解散だ。また会えたら、会おう!」


「今度は敵じゃねーといいけどな!」


 呉が東雲にそう言い、東雲は小さく笑って滑走路上をベリアとロスヴィータとともに駆け抜けた。


「ベリア。足は?」


「あれ。急ごう。ブラジル当局から業務を委託されているフラッグ・セキュリティ・サービスが動いてる」


「ここでも民間軍事会社PMSCか」


 東雲たちはベリアの用意したセダンに乗り込み、アルゼンチンに向けて逃走した。


 後になってフラッグ・セキュリティ・サービスと国連チューリング条約執行機関が着陸したシャトルに向かってきたが、そこには何も残されていなかった。


 東雲たちは無事にアルゼンチンまで逃走し、そこから飛行機で日本に帰国。


 そして、TMCセクター13/6へと戻って来たのだった。


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