なんでも良くなるナノマシン

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 ──なんでも良くなるナノマシン



 東雲は吐こうとしたが、胃液すらでなかった。


「ここで吐いてもナノマシンは排出されないよ。診療室の床を汚そうとするのはやめてくれるだろうか?」


 王蘭玲はそう言い、吐くならこれにとガーグルベースを差し出した。


「悪い、先生。だが、ナノマシンが使われているなんて聞いてない」


「君に造血剤を与える前にテストしただろう? あれはナノマシンアレルギーがどうかを調べるためのテストだ。結果、君はナノマシンに対して何のアレルギーも持っていないということが分かった」


「だからって」


「単に血を作るのを促す成分が含まれてると考えておけばいい。実際にそれ以上の効果も、それ以外の効果もないナノマシンだ。世間で言われるようなハートショックデバイスが含まれているわけではない」


「ハートショックデバイス?」


「ナノマシンが企業の都合で操作され、心臓麻痺に見せかけて市民を暗殺しているという陰謀論の類だ」


「俺は信じそうだよ」


 体に妙な機械を入れられて、心臓麻痺を引き起こさせる。あり得そうな話だ。


「君が思っているほどナノマシンはそんなに応用の利くものじゃない。大きさとしては非常に小さいために、できることも小さい。君の細胞より小さな物体だよ。そこまで多くのことがこなせたら、革新的だろうね」


「だけど、機械なんだろう?」


「それはナノマシンというぐらいだからね。生物の細かな構造をバイオミメティクスで再現しながらも、機械として役割を果たすように作られている」


 ほとんど分子、あるいはそれ以下のレベルで設計されている王蘭玲はいう。


「身体をリアルタイムでスキャンしてくれる健康管理用ナノマシンもある。私も使っているが便利なものだよ」


「そいつは脳に入ったりするのかい」


「ああ。セロトニン分泌などについても調べてくれる」


「うげえ」


 東雲は脳にカビが生えるというBCI手術のことを思い出して吐き気がした。


「君はまるで平成から来た人間だね。ナノテクも、BCI手術もダメとは」


 平成生まれでもBCI手術は普通に受けるがととも王蘭玲は言う。


「いいかい、先生。俺はナノマシンも、BCI手術もごめんだ。ナノマシンの入ってない造血剤をいうのはないのかい?」


「ないね。今どきの医薬品でナノマシンを使っていない品などないよ」


 東雲は絶望に近い気持ちを抱いた。


「いいかい。ナノマシンは薬の効用を高めてくれるだけだ。人々の中の陰謀論を唱えるものたちはハートショックデバイスが仕込まれているというが、そういう彼らも風邪薬に入っているナノマシンを摂取しているんだ」


 なのに企業の陰謀を騒ぎ立てても殺されてはいないと王蘭玲は言う。


「風邪薬にもナノマシンが……」


「そうだよ。胃薬にも、ビタミン剤にも、咳止めにも、何なら絆創膏にもナノマシンが含まれている」


 東雲は身震いした。人々はよく自分ですら効果の分からない機械を体に入れようとしたものだと思った。


「実際のところ、ナノマシンは便利なんだよ。陰謀論者が言うように普通のナノマシンがハートショックデバイスに変わることはない。そもそも遠隔操作するにはナノマシンをマトリクスに繋がなければならないだろう」


「ハートショックデバイスを気にしているわけじゃない。目にも見えない小さな機械を体に入れるのは、家の中によく分からない虫を入れるようで、そのせいで寒気がするってだけの話なんだよ」


 実際のところ、そんな感じだ。東雲は虫が苦手だった。


 異世界の巨大な虫はどちらかというと平気だったが、地球に暮らすような小さくて物陰にさっと隠れてしまうような虫は苦手だった。それはあたかも攻撃のチャンスを窺われているようで、落ち着かなかった。


 ナノマシンも似たようなものだ。何を考えているか分からずに、体の中という家の中よりも身近なものに潜む。落ち着かなくなるというものだ。


 まして、ハートショックデバイスの話などされては。


「ナノマシンは疫病を媒介したりしないし、目に見えるような不快さもないだろう。君は乳酸菌飲料を買ったことはないのかい。乳酸菌とナノマシンは同じようなものだよ」


「乳酸菌は……。機械じゃない」


「やれやれ。機械というだけでそこまで警戒するのかい」


 王蘭玲は猫耳をカリカリと掻く。


「それを言い出すとだね。このTMCの大気清浄化プロセスにもナノマシンが使われていて、我々は知らぬ間にそれを摂取し──そして、様々な形で排出しているんだ。君はそういうことまで気にするのかね?」


「く、空気中にもナノマシンが……」


「そうとも。諦めたまえ。我々とナノマシンは今さら切って離せるものじゃない」


 君が未開の大地にでも行かない限りは、と王蘭玲は言った。


「畜生。どうかしている。みんな、どうして平気なんだ」


「私からすればどうして君はそこまで気にするのかということの方を訪ねたいね。まるで価値観が大昔で止まってしまっているようじゃないか」


「実際に止まっているんだよ」


 東雲の価値観は2012年のままだ。2050年の最新版には更新されていない。


 彼はこれまでも、そしてこれからもローテク人間であり続けるだろう。


 何せ2012年の段階でようやくガラケーからスマホに変えて操作に戸惑っていたぐらいのローテク人間なのだ。それがいきなりBCI手術だとか、ナノマシンだとか言われてついていけるはずがない。


「まあ、君のようなノスタルジーを感じさせる人間は世界にひとりふたりはいるものだがね。だが、ナノマシンには慣れたまえ。造血剤をまた処方しておくが、ナノマシンへの不快感より、血が足りないことの方が深刻だ」


 そう言って王蘭玲は造血剤を差し出す。


「分かってるよ、先生。だが、造血剤にナノマシンが入っていることは黙っていてくれてもよかったじゃないか」


「説明義務というものがある。まあ、闇医者の気にする義務でもないがね」


 王蘭玲はそう言って肩をすくめた。


「テクノフォビアを治療するつもりはあるかい?」


「ない。俺はこのままでいい」


「そうか。それなら自由にしたまえ」


 そこでふと王蘭玲が尋ねる。


「八天虎会について何か知っているかね?」


「……いいや」


「聞かぬが仏か。彼らの構成員が運ばれてきてね。どうやら抗争が起きているらしい。君の仕事ビズともしかしたらと思ったが」


「治したのか?」


「医者は誰だろうと治療するものだよ。払えるものがある限りは」


 王蘭玲はそう言ってにやりと笑った。


「BCI手術を受けた子はその後どうだい?」


「マトリクスに籠り切り。ネット中毒だ。仕事は手伝ってくれるが、家事は手伝ってくれないよ」


「君が面倒を見ている子だと思ったのだが」


「対等な立場だよ」


 魔王と勇者。それ以上でもそれ以外でもない。


「君もBCI手術を受ければ、ネット上の彼女を引き戻すことができるだろうに」


「嫌だね。なあ、ナノマシンも、BCI手術もバグが起きたらどうするんだ? それこそ脳みそにカビが生えるようなことにならないのか?」


 あるいはもっとひどい可能性かと東雲は言う。


「あれは古い承諾書だ。実際に脳にカビが生えた例なんてのはない。衛生にまるで気を使わない電子ドラッグジャンキーですらBCI手術を受けているのだよ?」


 王蘭玲はそう言う。


「バグなんて遠い昔の話さ。今は技術は確立されている。BCI手術もナノマシンも、使い慣れた技術だ。なにひとつ心配することなどないのだよ」


 王蘭玲はそう言ってから、東雲を見つめる。


「君は“毒蜘蛛”ではないか?」


 東雲はその問いに何も答えなかった。


「また知らぬが仏か。だが、それならば四肢を機械化しているだろう。サイバネティクス技術を受けているはずだ。BCI手術抜きのサイバーサムライというもの奇妙な話だが。神経系にはナノマシンが使われていると説明されなかったのかい?」


「俺の四肢は機械じゃないよ。生まれ持ってのものだ」


「それはまた」


 王蘭玲が目を丸くする。


「ふむ。君は生まれ持っての身体で……。いや、驚異的だ」


 そう言って王蘭玲はただただ納得していた。


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