眠れない日曜日、窓の外を眺めて

暁帆

眠れない日曜日、窓の外を眺めて

 自分で言うのも何だけど、僕は規則正しい生活をしている。

 学校のない休日も朝十時までには起きるし、どんなに遅くとも日付が変わるまでには寝るようにしている。

 けれど何事にも例外はある。

 アナログ時計の音が一向に離れてくれない僕は、諦めて布団を抜け出した。最近の日曜日はいつもこうだ。

 立て付けが悪いせいで開閉音がひどい窓を、別部屋の両親を起こさないよう細心の注意を払ってそっと開ける。組んだ腕に頭を乗せてぼうっと窓の外、夜色に染まった街を眺める。

 三階の高さからは結構色々な景色を見渡せる。赤信号に捕まったテールランプの群れはさながらレッドカーペットのようだし、コンビニ店員のお兄さんはお客さんがいないのか店裏でタバコをふかしている。それらを秋の虫の音が包み込み、心地よい静けさとなって僕の焦燥を紛らわしてくれる。

「――眠れないの?」

 心臓が飛び出るかと思った。誰もいないはずのそばから急に声がしたのだからそれはもう驚いた。窓枠に腕を打ち付けた痛みも忘れて部屋の中を見回したけど声の主はいない。

「はは。上だよ、うえ」

 軽やかな笑い声は確かに頭上から響いてくるようだったけど、見上げても見慣れた天井があるだけだ。困惑に染まる僕に、声は「屋根の上」と答えを教えてくれた。僕はまたからかわれたと思った。なぜなら屋根の上には誰の姿もなかったからだ。

「そんなに窓から身を乗り出したら危ないよ。その高さから落ちたら普通、人間は死んでしまう」

 視覚はおかしいと訴えるけれど、聴覚は正常だと主張している。不思議と気味悪くはなかった。聞えてくる声が、ちょうど夜空を流れている薄雲のようにゆったりと落ち着いた中低音で耳に優しいからだろうか。

「うへっ。褒められた。嬉しいな」

 すごく俗物的な笑い方だった。固まりつつあった印象がぐるりとひっくり返されてしまった。あとどうやら彼は人の心が読めるらしい。

 冴え冴えとした頭はこれが夢ではないと囁いていて、僕はそら恐ろしくなった。彼ではなく僕自身に。

 だってこんなの、僕に都合が良すぎる。

「言っておくけどきみはおかしくなってないよ。知らぬ間にあぶない薬に手を出してもないし、おれはイマジナリーフレンドじゃない。目には見えなくてもちゃんとここにいる」

 僕の不安はすべて先回りして潰された。ますます怪しい。とうとう僕もここまできてしまったのかもしれなかった。

 僕は両腕の間に顔を埋めて瞼を降ろした。僕の内側から生まれた存在なら僕が意識しなくなれば消えるはずだ。すると、声の主は露骨に焦ったようだった。

「信じてくれてないね。いや、きみ自身を信じられないのか。うーん、困ったな。その可能性があるのを忘れていた。どうしよう…………あ、そうだ」

 何かに閃いた彼は身をかがめて下方のこちらを覗き込んできた。そういう声の響き方だった。浮き世離れした状況なのに、とても現実に即した芸の細かさだ。思わず居住まいを正す僕へと、とっておきを見せるように声は笑った。

「次に来るとき、きみが知らないことを言ってあげる。どうせなら面白いものがいいな。なんにしろ、それならおれが現実の存在だって認められるよね」

 確かに僕から生まれたのだとしたら、それが持てるのは僕の知識のみだ。高校数学なんてさっぱりだし『バラ』の漢字も書けない。理に適った言い分だ。でも準備が必要なことでもないのにどうして今ではないのだろう。

「きみが眠そうだからね。やっと寝られるのなら邪魔できない。たとえそれが寝落ちに近くてもね」

 強引なやり方は歓迎しない、と言い添える声がくぐもって聞える。彼の言う通り、さきほどから徐々に意識が薄らとしてきていた。まだ声の主の位置づけはわからないけれどその気遣いはありがたい。心の中で感謝を告げ、優しい頷きを受け取るや否やベッドに倒れ込む。その寸前に視界を過ぎった時計の針は四時前を差していた。



 もしかしたら綿雲さん――呼び名がないと微妙に不便だったから勝手にそう呼んでいる――は本当に実在するのかもしれない。声に会った翌日、僕は早くもそう考えるようになった。

 理由は大きく二つ。一つは、昨夜閉め忘れたはずの窓が今朝起きたら閉まっていたこと。僕が寝ている間に両親のどちらかが閉めてくれたのかもしれないと思って確認してみたけど、どちらも部屋には入っていないらしい。彼らが?を吐いているとみなすよりは、綿雲さんが気を利かせてくれたと考える方がしっくりきた。

 ちなみに今、僕は昨日と同じように窓枠に腕を乗せて夜を眺めている。そして綿雲さんが現れるのを待っているけれど、一向に来る気配がない。

 これがもう一つの理由だ。僕が念じるまでもなく手足は動く。綿雲さんが僕に付随するのであれば、手足と同じように自在に操れるはずだ。

 結局、綿雲さんが次に現れたのは日曜日。寝るのを諦めた僕が窓を開けてしばらくした時だった。

「綿雲さんっておれの呼び名? 声が綿雲みたいだからって……安直だなぁ。でもそのセンスは嫌いじゃないよ。……うん、気に入った。声の主とか呼ばれるよりずっといい。きみと話してる感じがする」

 どこかテンションの高い声だった。僕は公認をもらえて少しほっとしていた。その時点でもう既に答えは決まっているようなものだ。きっとそれは綿雲さんも分かっていたのだろうけれど、持ち込んだネタによほどの自信があったのか「これ、知ってる?」と披露し始めた。

 彼の話はどれも初耳で、有り体に言ってとても面白かった。お兄さんが夜勤をするコンビニの看板のライトが、大通りの常夜灯がいつにも増してきらきらと輝く。秋の虫が綿雲さんの軽妙な語り口に合いの手を入れるようにりーんりーんと鳴いた。

 ネタが出尽くした頃、答え合わせをするつもりで窓を閉めてくれたか尋ねた。すると二つ返事で肯定が返ってきた。僕は疑っていて申し訳ない気持ちと、改めて感謝を抱いた。

「そんなに気にしなくていいのに。はは。真面目だなぁきみは」

 心が読める綿雲さんにはそれだけで僕の思いが余さず伝わったようだった。

 

 

 その日のコンビニにいつものお兄さんの姿はなく、代わりに中年の男の店員さんがゴミ出しをしていた。傘を差しながらゴミ袋の口を閉めるのが難しいのか、ゴミ箱の前からなかなか動かない。

 雨音がぱたたたと激しく屋根を打ち付ける。窓際にいると時折雨粒が顔にかかってくるし足元のベッドも濡れてしまうけれど窓を閉める気にはなれなかった。

 僕は深く脱力した。このまま雨音に僕が溶け出してしまえたらなんて益体のないことを夢想した。無性に綿雲さんに会いたかった。涼やかに染み入る柔らかな声が聞きたい。でも今日は無理だろうなと、そう諦めていた。

「うわ、濡れちゃってるじゃないか……って、ふっ。間抜けな顔」

 こんなに夢だと思ったのは初めて会った日以来だ。中途半端に口が半開きになっているのをからかわれても、自分の顔でないかのように引き締められない。だって、今日はなのだ。

 届くはずのない僕の悲鳴を拾い上げてくれたみたいだ。不覚にも僕は嬉しくて泣きそうになった。

「部屋の中入って頭拭きなよ。人間はか弱いんだから風邪引いちゃうよ? きみがしんどい思いをするのはおれも嫌だ」

 苦々しい声で言うから、それが本心からの言葉なのだとわかった。けれど窓を閉めたら綿雲さんの声が分厚いガラスと壁に阻まれて聞こえなくなってしまいそうで、僕は窓の縦枠へと持ち上げた手を止めた。躊躇する僕の手を、綿雲さんの声が優しく引き上げる。

「心配いらないよ。きみが望むならおれの声はきみに届く。そういうふうになってる。……ああ、あとおれは雨に濡れても平気だからそのあたりも気にしなくていいよ。むしろその方が調子がいい。だから今日もきみが眠るまでここにいる。話し相手になってほしいならいくらでも聞くし、静かに外を眺めたいならおれも一緒に同じ景色を見る。屋根の上からならそれができるからね」

 なんて甘やかな言葉だろうか。心が読めるのは伊達じゃない。奥底で求めたほしいものたちに僕が言葉の枠を嵌めて形を与える前に、それらが掬い上げられていく。綿雲さんが丁寧に掬い上げてくれる。

 堪らなくなった僕は濡れるのも構わず窓から身を乗り出しばっと顔を上げた。気道に空気を通して喉を震わせる。唇を薄く開いて――けれど何も言わずに部屋の中へと引っ込んだ。唇を噛みしめながら綿雲さんの言に従って雨粒を窓で遮り、濡れた身体をクローゼットのタオルで拭く。目尻のそばを伝った水滴が頬を伝い落ちて白い生地へと吸い込まれていった。

「きみは大丈夫だよ」

 僕が拭き終わるまでの間、綿雲さんが喋ったのはその一言だけだった。見守る親のような、力強く励ます友だちのような声。他の人から何度も掛けられた言葉なのに、どうしてだろう。雨粒みたいな小さなそれは、けれどカラカラに乾燥した僕の心にじんわりと広がっていく。

 気付けば僕は、最も綿雲さんの声が近い窓の下に身を寄せて、明日の授業科目について話していた。木曜日は週一の音楽がある日だ。先生の気変わりでも何でもいいから、僕はそれがなくなればいいと不真面目なことを願っている。

「週一ってことは先週その前も音楽の授業はあったんだよね。でも確か眠れていた。明日は何か特別なことでもあるの?」

 先週はともかく、なぜまだ会ってもいない先々週も日付けが変わる前にきちんと眠れていたことを知っているのか。ふわりと疑問が浮かんだけれど、日曜日以上に気分が沈んでいる今の僕にとってはわりとどうでもいいことだった。立てた膝ごと自分の身体をきゅっと抱きしめる。

 僕の通う中学校の吹奏楽部は全国常連の強豪校だ。それを大事にしているからか音楽の授業ではおなじみのリコーダーと同じくらいフルートやトランペットを扱う。その分、歌の授業が削られていて、ちょうど明日は月に一度の歌の日だった。

 声が出せない僕は歌いたくても歌えない。

 先生の特別扱いも、クラスメイトのなんとも言えない囁きも、惨めさも申し訳なさもすべてが僕の上に降り積もってきて気道を塞ぐ。息が出来なくなる。

「……歌は好き?」

 ふいに、柔らかさの中に糸をぴんと張り詰めた声がそう訊いてきた。一瞬遅れてそれが綿雲さんのものだと気付く。おかしな話だけど、この時初めて綿雲さんの芯に触れた気がした。彼の今までが?ではないとわかっているのに。

 綿雲さんは僕の答えを待っていた。僕は一度自分に問いかけてみてから、見えない彼の方へ向けて、心が読めるのは十分に理解している上でしっかりと頷く。

 すると綿雲さんはとても嬉しそうに「そっか」と笑った。それから興味津々といった体でどんな歌を歌うのか訊いてきた。

 音楽の授業だから教科書に載っているありふれた歌ばかりだ。でも一つだけ、この地域ならではの歌があった。

「へえ。どんな歌? 学校長が作ったとか?」

 思わず口許が緩んだ。普通、校長は作曲するものなのだろうか。

 残念ながらこの歌に面白エピソードはない。地域の伝承を歌にした、どこの街でも一つはある類いのものだ。

 むかしむかし、内陸のある村の人々は長く続く日照りに苦しんでいた。それを見かねた海神は恵みの雨を降らせてあげた。深く感謝した人々は、海水の代わりに湖を丸ごと海神へ捧げたという話だ。ちなみにこの地域に海も湖もないのはそのためだとされている。

「そんな歌があったのか。おれもこの土地は長いけど知らなかったな」

 綿雲さんはたまに俗っぽいけど、たまに言い方が古風だ。

 捧げ物の湖を受け取った海神はこの地域一帯を護る土地神になり、以来人々を見守り続けていると歌は括られる。

 そういえば、図書室の文献に少し異なる説があった。神と人は切っても切り離せないものである。捧げ物はすなわち願いであり、それを押しつけられた海神はこの土地に縛られてしまったのだとかなんとか。

「……きみはどっちだと思う? なんて訊くまでもないね。きみ、悲しい話好きじゃないもんね。ハピエン厨だもんね」

 間違ってはいないけどなんだか認めたくない。僕がむくれていると、綿雲さんは取りなすように話題をずらした。

「で、でもデフォルメキャラのパンやら焼き菓子やらがやけに多いなと思ってたけど、あれって漫画か何かのではなくて海神を模してたんだね。やっと判明したよ」

 珍しく慌てた様子が面白くて肩を震わせた。

 妙にプライドの高いところがある彼が不機嫌になる前に話に乗ることにする。……まぁ、心が筒抜けだから結局むすっとした空気を感じたけれど。

 この地域には他にも色々な伝承がある。海も湖も観光名所もなくても町おこしはしたい観光協会はそれに目をつけた。海神を模した食べ物もその一環だ。あと大きなところだと、うつくしい歌で旅人を癒やす鳥が描かれたマンホールだろうか。各地に散りばめられた五枚のマンホールを繋げると一つのお話になるのだ。僕は他の四枚の位置は知っているけれど、はじまりの旅人の絵には遭遇したことがない。

「だったらこれから探しに行ってみる? おれもツバメの絵が気になってきたからついでに案内してよ」

 それはとても心躍る提案だった。綿雲さんと一緒なら見つけられなかった一枚を見つけられそうだ。いやそんなの関係なく、この小さな窓を飛び出して昼と様変わりした夜の街を二人で散策するのは絶対楽しい。

 はたして僕はしばらく悩んだ後に首を横に振った。なぜなら明日も学校がある。眠れないで夜更かしするのと、眠る気のない夜更かしは全然違う。せっかく誘ってくれたけどと謝る僕に、

「いや。きみらしいよ。じゃあ散策はまた今度にしよう。……ああ、でもマンホールは探していい? やっぱり気になるし……あと暇だからさ」

 それは全然構わない。なんなら旅人の絵までコンプリートしてくれて良かった。

「そう? ならもし見つけたらきみに教えるよ。期待してて」

 綿雲さんは自信満々な声でそう言った。親指を立てそうな勢いだ。

 いつの間にか窓の向こうの雨音は小さく、分厚い雲は薄くなってきていた。見えてもいないし声も聞こえていないはずなのに、どうしてか僕が徐々に船を漕ぎ始めているの綿雲さんは悟った。

「今日はここでさよならかな。……おやすみ。いい夢が見られるようにまじないをかけてあげる。安心して眠るといいよ」

 綿雲さんと別れてもぞもぞと布団に潜り込む。手放す寸前の意識のなか、先ほど首をもたげた疑問が再びやってきた。

 綿雲さんは日中、というより僕に会っている時以外は何をしているのだろう。そもそも彼は何者なのか。どうして僕に寄り添ってくれるのか。

 僕の疑問が届いているのは確かだったのに、綿雲さんはそれに関しては無言のままだった。



 このままではいけないと強く感じていた。綿雲さんに甘えっぱなしでは駄目だ。

 彼のお陰で眠れるようになるまでの時間が短くなった。窓の外を眺めて寝落ちるまでの時間稼ぎをしていた夜に意味が生まれた。あれほどゆったりと心地よい声は初めてだった。紡がれる話もまた面白く、一緒に過ごす時間は楽しかった。

 でも声の出せない僕の心を読み取って話を繋げてもらっているのが現状だ。会話一つとっても僕は頼りっきりなのだ。

 綿雲さんに出会った最初の方から、変わらなければならないという思いは心の片隅にあった。それが顕著になったのはやっぱりあの雨の水曜日だった。

 せめて自分の声で話せるようになりたい。でなければいつまでも綿雲さんと対等になれない。

 僕は本格的に声を出す練習を始めた。心因性ならやりようはあるからと医師から処方されたトレーニング方法を毎日欠かさずこなした。

 慣れないことをした疲れなのか、曜日にかかわらずベッドに入るや否や泥のように眠った。そんなだからあれ以来綿雲さんには一度も会えていない。

 僕は必死だったけれど、客観的に見ると都合が悪くなった途端に避け出したようでもある。僕はひどい薄情者だ。

 早く治さなければならない。これ以上綿雲さんの負担にならないように。何かを返せるように。早く、早くはやく。

 そうして気持ちばかりが急いてしまい身体がついてこれずに僕は熱を出した。高熱にうなされているとロクな夢を見ないもので、選ばれたのは声変わりを過ぎても女子みたいな歌声であるのをバカにされた日の夢だった。

 僕が鈍感だったのだ。それまで自分の声が周りとズレているなんてこれっぽっちも思っていなかった。『初めて』の威力は半端ない。自分の声を信じられなくなった僕は、その時初めて過呼吸を起こした。

 ところで、当然だけど発熱していると体温が上がって暑苦しい。見かねた母が窓を開けて風を通してくれていた。

 悪寒と気持ち悪さと悪夢のトリプルパンチで朦朧としていたし気のせいだろう。内陸地だからありえないのに潮騒の匂いがしたのは。

「きみはえらいよ。よく頑張ってる。……焦らなくていい。おれはいつまでも待ってるから」

 聖母が万人に向けるそれと異なる、ひとりがたったひとりへ向ける深い慈しみの声音だった。とても聞き覚えのある声だったけれど、夢うつつだった上に錆び付いた頭が回らなくて誰かまでは分からなかった。ただ、優しい手つきで頭を撫でるのは母くらいのものだろう。

 自分の体温が高いからか、額に降りてきた手は水に浸したようにとてもひんやりしていて気持ちよかった。

 

 

 一ヶ月後。僕は窓枠に腕を乗せて夜に沈む街を眺めていた。コンビニ店員のお兄さんがなんだか懐かしい。いいことなのかは微妙だったけれど、僕は時計の針が十二時を過ぎても起きていた。

 空を流れる薄雲が月の光をぼやかし、夜の色が一層濃くなった。

「やあ、久しぶり。少し顔つきが変わったね」

 ゆったりとしていて落ち着いた、綿雲のような中低音。ともすれば暴れ出す心臓を押さえつけながら待っていた声だ。僕はいつぞやと同じくがばりと身を乗り出して屋根の上を見上げた。案の定姿は見えないけれどそんなことは関係ない。

 こちらの気持ちなんてお見通しな綿雲さんは僕がしたいように任せてくれた。最初以来、一言も発されないのがその証だ。やっぱり心が読める関係上どうしたって綿雲さんが一段上にいる。それなら僕に差し出せるものは一体何だろう。

 見当も付かないけれど、差し当たって僕に出来ることはひとつだけだ。

 僕は一度瞼を閉じ、不安を散らすべく深く息を吸って吐いた。胸元のシャツを握りしめる手は情けなくも震えていた。自分に聴かせるだけと誰かに聴かせるものは全然違う。相手は恐れる必要なんて欠片もない綿雲さんなのに怖い。すうっと血の気が引いていく。うまくできなかったらどうしよう。

「気にしなければならないことなんてない。時間なら十分にあるし、今日が駄目なら別の日にすればいい。焦らなくてもおれは逃げないよ」

 優しい言葉がナイフのように鋭く僕を突き刺した。ここまできて僕はまた助けられようとしている。この一ヶ月半を無駄にしようとしている。僕は何も変われないままだ。

 お陰で覚悟が固まった。

「きみ……」

 綿雲さんが息を呑んだ。僕は見えない綿雲さんをしかと見据えたつもりで萎縮した喉を開いていく。最初の言葉は決めていた。

「わ、たぐも、さん」

 か細く掠れた、やっぱり女子みたいな声。でも僕は達成感で胸がいっぱいになった。誰かの前で声が出せた。万全にはほど遠いけれど、これが今の僕に出来る精一杯だ。

「……もう一度。もう一度呼んでみて。いや別に言葉はなんでもいいんだけど」

 僕に匹敵するくらい感極まった声で綿雲さんがせがむ。僕は小さく声を出して笑った後、僕がつけた呼び名を呼んだ。こんな程度では全然足りないけれど、眠れない夜にずっと傍にいてくれたことへのめいいっぱいの感謝の心を込めて。

「……心を読むのと声を聴くのとではやっぱり違うね。二重に聞こえたとしてもこっちの方がずっといい。……頑張ってくれてありがとう」

「それは僕の台詞、だよ。あの日、声を掛けてくれて、ありがとう。綿雲さん」


「そういえば見つけたよ。前に言ってた絵の描かれたマンホール。旅人のも含めて五枚全部」

「すごい。どこにあったの」

「することもないし暇だったからね。東の商店街わかる? あれを一本外れて、入り組んだ道を杉の木を目印に抜けると拓けた場所に出る。そこにあった」

 なんというか、それはもはや迷路探索の域だ。観光協会の狙いは分からないけれど間違いなく観光客向けではない。

 呆れた僕ははっと我に返った。最も気になっていたのは設置場所ではなかったのだ。

「旅人は? どんな姿だった?」

「ああ。あれはおれも驚いたな。時代によって服はどうあれ、てっきり人間だと思ってたから」

「人が描かれてる、んじゃないの? 僕、砂色のマントを羽織った旅人、想像してた」

「そう思うよな。でも簡略化されてたけど、四本足の蛇のような体躯だった。あれは――」

「え……?」

 最後まで聞くまでもなかった。この地域の人なら大抵は察せられる。

 僕はぱちりと目を瞬かせた。一瞬止まった思考が急速に回り出す。堰を切ったように綿雲さんと過ごした日々が溢れ出す。答えは全てそこに詰まっていた。

 姿の見えない不思議な綿雲さんの正体も、僕に寄り添ってくれた理由も、僕が差し出すことの出来る最も価値あるものがなんなのかも。

 ――蛟(みずち)という妖怪がいる。水中に棲む、蛇に似た四本足の生き物だ。水神であるとも言われていて、雄々しい角ととてもうつくしい鱗を持つ。

 そう、ちょうど今の綿雲さんのように。

 光の粉を輝かせながら屋根の上に顕現した大きな蛟が、綿雲さんの声で困ったように苦笑する。

「バレちゃったか。できればおれは正体不明のままでいたかったんだけど。もしくは人間だと誤解していてほしかったな。きみとは同じ景色を見ていたかった」

 そう願っていたのは僕の方なのに、綿雲さんも同じだったなんておかしな話だ。逆説的に、綿雲さんにとって僕はこれまで隣にいられたことになる。

「……僕は嬉しいよ。もらってばっかりだったけど、やっと僕からあげられるものがあるってわかったから。だから……」

 僕は両の足でしっかりと床を踏み、ぴんと背筋を伸ばした。お腹に手を添えて、喋るのとは異なる息の吸い方をし――そして、紡ぎかけた音をふつりと飲み込んだ。

 綿雲さんいわくハピエン厨の僕は好きではない伝承の一説。けれどきっと大昔のそれは真実だ。

 僕は躊躇いを見せた。綿雲さんとはこれからも話したいし、健全な時間に夜の散策にも行きたい。けれど縛り付けたいわけではない。

 よほど僕が酷い顔をしていたのか、人が肩を揺らす代わりに綿雲さんはすらりとした尾をくるりと回した。

「歌ってよ」

 呼び名をせがんだ時以上の、心底からの願いの声だった。

「実はおれ、きみの歌が好きなんだよね。だから、あんなことがあっても変わらず歌を好きでいてくれてとても嬉しかった」

 蛟にとっての一ヶ月半はどれほどの長さをしているのだろう。

 あっという間であればいいと思った。

 僕は夜の街を眺めた。ぽつぽつと灯る街灯の明かりは、信号機の青はまるでペンライトの光だ。秋の虫もどこかへ行ってしんと静かな夜は思いの外声が響いてしまうから、まだ大きな声は出せないとはいえ気をつけなければならない。

 綿雲さんが身じろぎして、僕と同じ景色を瞳に映した気配がした。いまここにいるのは僕たちだけだ。多くを望む必要はない。唯一のオーディエンスに届けばそれでいい。

「……――」

 声をバカにされる前によくそうしていたように。

 綿雲さんと話すうちに徐々に掠れが取れてきた、けれど変わらず女子みたいに高い声で、僕は滑らかに歌い出した。

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眠れない日曜日、窓の外を眺めて 暁帆 @__akiho

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