葉桜先輩のブラックホール

水池亘

葉桜先輩のブラックホール

 穴が開いていた。

 空中に。

 うすぼんやりとした初秋の昼休み、落ち着ける場所を探してさまよったあげくたどり着いたのは旧校舎屋上のドアだった。南京錠の鍵は壊れていた。この古い高校にセキュリティという概念はないのかもしれない。僕はこっそりと隙間を空けて外の様子をうかがう。のっぺり平坦な屋上の端に、誰かの姿があった。セーラー服のリボンが青い。二年生だ。僕より一つ上。すらりと背の高い、女子生徒。顔はよく見えない。彼女が立つ視線の先、申し訳程度の柵の向こう側に、真っ黒な穴がぽっかり浮かんでいた。

 少女がおもむろに動き出す。スッと柵に手を当て、乗り越え始めた。そして、その先にある靴一足分程度のへりに器用に乗っかった。

 これは……マズいのでは?

 思うより先に扉を跳ね開けていた。彼女はちょうど地面を蹴ったところだった。細い体が虚空に躍り出る。

「ちょ、ちょっと待って!」

 もう遅いと知りつつ僕は大声を上げる。彼女は落下していく最中、こちらを向いた。その驚いた表情に、僕は見覚えがあった。

 そして彼女は穴に消えた。

 ……穴に?

 もう聞こえてこなければならないはずの地面との衝突音は、いくら待てどしなかった。下を覗き込んでも、彼女の姿はどこにもない。

 僕は信じるしかなかった。

 彼女は、まるでブラックホールのようなこの穴に向かって飛び込み、中に消えていったのだ。

 穴はまだそこにあった。

 光すら呑み込む漆黒の姿で佇んでいた。

 ……魔が差した、としか言いようがない。

 グラウンドの遠いざわめきが聞こえる中、僕はゆっくりと柵に手をかけた。


   *


「いてっ!」

 受け身を取り損ねた僕はうめく。叩きつけられた白い地面をなでてみるとひんやり冷たい。僕は深く一息ついて、ようやく周囲を見回した。

 白と黒の世界。

 最近のインディーゲームみたいな、モノクロを基調にしたクールな雰囲気。どれくらい広いのかもわからない真っ黒な空、のっぺりとだだっ広い白い床。まばらに意味のない街灯が建っていて、光ではなく影を照らして床を丸く黒に染めていた。あちこちにベンチがあって、まるで異国の公園のようだ。

 そして、そんな世界に明らかに似つかわしくない異質なものが、一つだけあった。

 遠く前方、上空に浮かぶ、大きな大きな立方体。

 それは角を下にして立脚し、ゆっくりと静かに自転していた。マーブル模様になったたくさんの色が絶えず変化していて、まるでこの世全ての良いものと悪いものが混ざり合っているように僕には見えた。

 あまりにも――あまりにも圧倒的な存在感に、僕は立つこともせずぽかんとそれを見つめていた。

「入ってきたのか!?」

 大声が聞こえて、僕は振り返る。

「どうしてそんな危険なことを!」

 彼女は目を見開いて僕を睨んでいた。その姿に、僕はしばし固まった。

「え……いや、何となく、僕も入ってみたくなったので」

「死ぬかもしれないとは思わなかったの?」

「先輩が入っていくの、見てましたから」

「はあ……」

 彼女はため息をついて首を一度振った。

「まあ、無事だったのだから、良しとしよう。君、名前は?」

「へ?」

「名前だよ。私が呼ぶのに困るからね」

「ああ。一年の吉岡よしおかです」

「吉岡君か。よろしく。私の名前は……」

葉桜はざくら先輩ですよね?」

「知っているんだ、私のこと」

「有名人ですからね」

「そんなことないんだけどな」

 彼女はつまらなさそうに言う。

 葉桜よる

 演劇部副部長にして、全公演の主演。この学校で知らない者はいないスターだ。僕も何度かその演技を見たことがある。その度に〝本物〟とはどういうものなのか思い知らされたものだ。

「先輩、普段からそういう性格なんですね」

「そういうって、どういう性格だよ」

「良い意味で女性らしくなく、中性的で、格好いい。そんな感じです」

「やっぱりそう見えるか」

 そう言って彼女は、視線を遠くの方にやる。

「それよりさ、吉岡君。もっと訊きたいことが山ほどあるんじゃないの?」

「それはまあ、そうなんですが」

「いいよ。何でも答えてあげる」

「いいんですか? 何だかここ、明らかに極秘っぽい雰囲気ですけど」

「だって君、もう入ってきちゃったんだもの。今さら仕方ないよ」

「そうですか。じゃあ……」

 僕は彼女の全身を見つめ、思い切りよく言った。

「その、ものすごく似合ってる魔法少女服と杖。それ、先輩の趣味ですか?」


 この奇妙な場所は世界の裏側なのだと、そう彼女は説明した。

「私達が生きるこの世界には、常にひずみが生じ続けている。それが集まって、凝り固まって、そうしてできたのがここ。私はそれを、『ウラガワ』と呼んでいる」

「それがどうしてまた、こんな東京の片田舎に」

「そんなことは知らないよ。ウラガワは世界中にあるのかもしれないし、ここにしかないのかもしれない。私にはそれを知る術がない。知る必要も、多分ない。もし別のウラガワがあったとしても、きっと私じゃない誰かが退治してくれるだろう」

「退治……って、何を?」

「アレだよ」

 彼女が天空を指さす。その先には例の巨大キューブがある。

「アレこそが世界の敵。放置しておくと、世界の表側に侵出して、たくさんのものを破壊してしまう。例えば、法則とか、願いとか、精神とか。だから、絶対に消し去らなきゃならない」

「そんなこと、どこで知ったんですか?」

「ここに降り立った瞬間だよ。誘われるように穴に入りこんで、気づいたら全ての情報が脳裏にインプットされていた。自分の役割も知った。吉岡君は、そうじゃなかったの?」

「何のお告げもなかったですね」

「ならきっと、選ばれなかったんだね。幸せなことだよ」

「ものすごい厨二病的なこと言ってますよ、先輩」

「それはまあ、自覚してる」

 彼女は恥ずかしそうに少しうつむく。

「でも、事実だから仕方ない。私は選ばれたんだ、アレを破壊する者として。この魔女服と杖がその証だ」

 彼女は右手に木製の杖を持っていた。先端に複雑な幾何学模様の意匠が施してある。アニメに出てきてもおかしくない、いかにもといった形の杖。

「じゃあ先輩、魔法が使えるんですか」

「ああ、もちろん」

 彼女は大きく頷く。

「なら見せてくれませんか。先輩の魔法、見てみたいです、僕」

「それが……今はちょっと無理でね」

 彼女によれば、今はまだ力を溜めている段階なのだという。

「中途半端に撃っちゃうと、また一から溜め直しなんだ。だから、アレが倒せるくらいになるまでは撃たないように決めているんだ」

「なるほど」

 僕は今一度彼女の格好を見る。頭にはピンク色の、ツバの大きな三角帽子。先が少し折れている。服は明るくカラフルに彩られていて、フリルのついたスカートが傘のように広がっている。胸元に踊るのは赤色のリボン。やっぱりここはアニメの世界なのかと錯覚する。

「じゃあ、その服も気づいたら着ていたと」

 僕の言葉に、彼女はふいと目を逸らした。

「あれ、違うんですか?」

「いや、それはそうなんだが……正直に言うとね、この服装、完璧に私の好み通りなんだ。だから、たぶん私の深層心理にある理想が具現化したんだと思う」

「はあ」

「笑ってくれて良いよ。似合わないことは私が一番良くわかってる」

 確かに彼女は中性的なスタイルと顔立ちをしている。舞台でも男役を務めることが多いし、その格好良さには敵う者もいない。それは作ったキャラというわけではなく、プライベートでも同様に振る舞っているらしいという話は僕も耳にしたことがあるし、こうして実際に会話してみると、やはりそれは真実だったのだと良くわかる。

 しかし。

「いや先輩、それ、ものすごく似合ってますけど」

 僕の言葉に、彼女はぴたりと固まった。目をぱちくりさせて、少しの間僕を見つめた。

「……お世辞はいいよ、吉岡君」

「僕はお世辞なんて言わないです。似合ってるものは似合ってる」

「そ、そうか……」

 彼女は少し下を向いて、口元を手で覆った。しかしそんな仕草では全く隠せていない。彼女は間違いなく、嬉しそうに微笑んでいた。

「ま、まあそれより吉岡君、そろそろ昼休みが終わる頃だ」

「え、時間止まってたりしないんですか?」

「ウラガワとはいえ世界の一部だからね。時間も普通に進むよ」

「じゃあマズい。これでも僕は優等生で通ってるんですよ」

「目を閉じて五秒くらい念じれば出られるはずだよ」

「そんな簡単なんですか」

 言われた通り僕は目を閉じる。すぐにすうっと体が遠のいていく感覚があった。その後ろ側から、葉桜先輩の声が聞こえる。

「吉岡君、またここに来てくれないか。もっと君と話がしたい。昼休みなら、私は必ずこの、ブラックホールの中で待っている。その気があるなら、また飛び込んでくれ。頼んだよ!」

 

   *


 本当に昼休みになれば必ずブラックホールは屋上に浮かんでいたし、必ず彼女はその中にいた。二年生の教室は僕の教室に比べていくらか旧校舎に近い。だから彼女の方が先に着く。それだけの話。四時限目をサボっているわけではないはずだ。たぶん。

「先輩、よくあのブラックホール見つけましたね。旧校舎なんてほとんど誰も寄りつかないのに」

「あまりにもファンに囲まれることが多くてね。ちょっと雲隠れしたかったんだ」

「でもあんな怪しい穴に飛び込もうとは思わないですよ、普通」

「そうかもしれない。でも、呼ばれた気がしたんだ、穴に」

 きっと彼女にとって、それは必然のことだったのだろう。彼女の表情はおだやかだった。

「ファンって、女性ファンですよね。キャーキャー言われてるところ、見たことあります。先輩もちゃんとファンサービスしてるようでしたけど」

「それはするよ。たくさんファンがいるなんて、すごくありがたいことなんだから。そこは私、とても感謝しているよ」

「でもここに逃げてきた」

「まあ……たまにはね。と思ってたら毎日来ることになってしまったが」

 魔法の力を溜めるにはここに来るしかない。この特別な空間にいるだけで、少しずつストックされていく。しかし私には時間がない。授業を放置するわけにはいかないし、放課後には部活がある。だからこうして昼休みになるたび、ここに来てお弁当を食べるのだ。というのが彼女の話だった。

「吉岡君こそ、どうしてこんなところへ」

「本が読みたかったんですよ」

「本?」

「小説が好きなんです。空き時間はいつも読んでるんですけど、周りが騒がしすぎると気が散っちゃって。だから昼になると、中庭の隅の木陰に行くんです」

「ああ、あの辺りか。確かに静かそうだ」

「それがあの日は先客がいて」

「先客?」

「ニャーニャー三匹も丸くなって寝てるんです。人が座るスペースなんてなかった。だから僕は、別の住処を探してさまようしかなかったんです」

「なるほどね」

 彼女はベンチの背もたれに体を預け、空の方を見やる。

「そこまでして本が読みたいんだ。友達はいないの?」

「いないですね。いや、話し相手ならたくさんいますし、クラス内のコミュニケーションも円滑だと思ってますけど、でも自分からはほとんど話しかけないです。友達って何なのか、良くわからないんですよね」

「ふうん、そんな君が、私とは毎日お話ししてくれるんだ。どうして?」

「それは……」

 僕はしばらく頭を捻った。

「何となく、楽しそうだったので」

「つまり明確な理由はないと」

「あ」

 僕はもう一つ思いつく。

「あと、先輩の顔が好きなんで」

「か、顔!?」

 彼女は驚いて両手を自らの顔に被せる。

「じょ、冗談言わないでほしいな!」

「僕は冗談なんて言わないです。先輩の整った顔立ち、そこらの芸能人やモデルより全然良いと思いますよ」

「そ、そうか、ありがとう……」

 そう言う彼女の耳が赤くなっている。こういった反応もまたとても良いのだ、ということまでは僕は言わなかった。


   *


「魔法、見せてくれませんか」

「駄目だよ」

 それは僕がここに来る度に繰り返される会話。

「ちょっとだけ、ほんのちょっとだけで良いんです。ラノベみたいなファンタジー的なものがこの現実にもあるんだって、証明してほしいんです」

「君、ラノベとか読むの?」

「すごい読みます。大人向けのも読みますけど」

「雑食なんだ」

「そうですね。小説であれば、何でも」

「ふうん」

 彼女はおもむろに立ち上がり、傍らに立てかけてあった木の杖を取った。

「おっ!」

 僕の期待の声に応じず彼女は、杖を高く掲げ、瞳を閉じ、何ごとかを早口で呟いた。

「先輩、それ、まさか魔法ですか!」

 彼女はぴたりと動きを止め、カッと目を見開いた。

「スリーズ!」

 叫びと同時に彼女は杖を振り下ろした。その声の残響が消え、辺りは静寂で満たされる。静寂。静寂。静寂……。

「先輩? 何が起こったんです?」

「何もないよ」

 彼女は平然とした様子で言う。

「今のは魔法を撃ったフリ」

「はあ?」

 僕は素っ頓狂な声を上げる。

「いやでも先輩、今魔法撃ったじゃないですか。『スリーズ!』って」

「あれ、適当だよ。思いついた言葉を叫んだだけ」

「何ですかそれ……」

 僕は肩を落とす。ぶち上がったテンションを返してほしい。

「あはは、ごめんごめん。でも、雰囲気は掴めただろ?」

「実態を掴みたいんですよ僕は」

 ころころ笑う彼女を僕は睨みつける。

「真面目な顔で冗談やるの、ズルいですよ。いつもやってるんですか、こんなこと」

「やらないよ。やるわけない。普段はむしろ冗談とか苦手な方なんだ」

「じゃあ何で」

「うーん、君がいるから、かなあ」

 そう言って彼女はにっこり微笑んだ。

「ちょっとはしゃいじゃってるんだ、私」


   *


 僕と先輩のこのちょっとした関係は、あくまでブラックホールの中だけのことだった。たとえ校内ですれ違っても、僕たちは声をかけることなく離れた。明確な理由はない。示し合わせたわけでもない。ただ僕は、それが自然なことだと何となく理解していたし、おそらくは彼女もそうだった。僕たちがおしゃべりする場所は、いつだってブラックホールであるべきだった。

「吉岡君、アレ、どう思う?」

 彼女が指さしたのは、上空に浮かぶ、マーブル模様のキューブ。

「どう思うって……」

 僕は見上げながら、しばしの間考えた。

「まず、不気味さがありますね。おどろおどろしい感じ、過度に明るい感じもする。ただ」

「ただ?」

「それでもアレが恐ろしいものだとは、僕にはどうしても思えないです。なぜなのかは、よくわからないですけど」

「ふうん」

 彼女は感心したように言った。その心の中を読み取るのは難しかった。

「私は、アレが怖い。怖いし、憎いし、醜いなと思う。どうしてかな、魔法少女になったからかもしれない」

「ねえ、先輩」

 僕は彼女の横顔を見ながら言った。

「アレって、一体何なんです?」

「だから、世界の敵だよ」

「それだけじゃわからないこともあります。アレは一体どこで生まれて、どこから来て、どうして世界を壊そうとしているのか。そもそも生き物なのかどうかも、僕にはわからない」

「それはね、私にもわからないんだ」

 彼女は僕の方を見なかった。

「ここに来てこの力を得た時にも、それは教えてもらえなかった。ただ使命として、アレを消滅させなければならないという事実だけを与えられた」

「それで素直に従おうとよく思えますね」

「うーん、それはそうかもしれないけど」

 そう言って彼女は、ふっとさみしそうに笑った。

「でも、もしかしたら、全部私の深層心理で望んでいたことかもしれない。そんな風にも思えるんだ」


   *


 先輩はことあるごとに僕のことを聞こうとした。自分語りは僕の趣味ではなかったけれど、彼女の押しの強さに負けてしまうことも多々あった。

「好きな小説、教えてよ」

「え、難しいですね。死ぬほどありますよそんなの」

「そこから厳選してさ」

「あー……少し前に読んだ『魔女の手を超えて』って小説は好きですね」

「へえ、聞いたことないな」

「かなりマイナーな純文学ですからね。でも界隈ではちょっとした話題になってます」

「どんな内容?」

「少し変わった試みがされていて、純文学なのにアニメ・ラノベ的要素をたくさん盛り込んでいるんです。主人公は普通の女子高生。ひょんなことから異空間に迷い込んで、そこで魔法少女になる資格を与えられます。異空間には奇妙な虫みたいな敵がいて、主人公は魔法の力でそいつらを退治するんです。そんなベタな魔法少女もの的展開が続くんですが、その異空間の秘密が明かされる辺りから話が変質するんです。ここからはネタバレになりますけど」

「いいよ。私、気にしないタイプだから」

「そうですか? じゃあ」

 僕は一息置いて言う。

「異空間を作っていたのは、実は主人公の母親だったんです」

「母親?」

 彼女は驚いた表情を見せる。

「そう。そして今まで倒していた敵は、母と主人公の軋轢が生み出した存在でした。つまり世界規模の大きな話だと思われていたものが、急速にミクロで個人的な話に変わっていくんです。その流れのダイナミックさが、好きで」

「ラストはどうなるの?」

「主人公が異世界という概念そのものを破壊して、そして日常に戻って母親に『海苔の味噌汁は嫌い』とはっきり言い切って、そこで終わりです」

「はー、なるほど……」

 彼女はため息をついて、ベンチの背もたれに寄りかかった。

「吉岡君は、その物語が今この状況に少し似てるから、紹介してくれたんだね」

「まあ、そうです」

「私はね、ママとあまり上手くいってないんだ」

 それは唐突に始まった告白だった。

「葉桜ゆうって、君は知ってる?」

 知らないわけがない。それは日本を代表する大女優だった。

「あの人が、私のママ。私は彼女から、女優になるべく育てられた」


 物心ついた頃には既に「演技」を学ばされていた。

 他人と遊ぶことは容認されていたが、「どんな時も相手を観察し、その立ち振る舞いを研究するように」としつけられた。帰宅して、遊び相手に対する母からの質問(それは例えば「○○くんがゲームに勝った時の仕草は?」とか「××ちゃんの走り方の特徴は?」とかだった)に上手く答えられないと、母からの強い叱りが飛んだ。それが怖くて、彼女は誰と遊んでいても、楽しむことができなくなった。葉桜夜にとって友達とはただの観察対象でしかなくなっていた。

 やがて小学生になり、本格的に演技について学ぶ段になると、そもそも誰かと遊ぶような時間はなくなった。台本を渡され、毎日必死に、架空の誰かになりきった。

 あなたには男役の才能があるようね。

 母からそう言われた彼女は、意識して男的・中性的な役を練習するようになった。それはだんだんとプライベートに浸食していって、いつしか彼女は普段から王子様のような言動をするようになった。それは間違いなく彼女の資質だった。でも彼女は時々思う。かわいい女の子みたいなきらきらした服を着てみたい。友達と一緒に街のファミレスで楽しくパフェを食べたい。それが叶うことは、もう一生ないとしても。


「それでも、ママのことは尊敬してるんだ。あの人の演技はすごい。狂気じみている。あれほどの高みに到達することは、はたして他人にできるのだろうか」

 彼女は始終真顔だった。その感情を読み取ることはもちろんできなかった。

「私はね、ママのためだけに女優をやってるんだ。あの人が私の人生の目標で、全て。でもね」

 不意に彼女は空を見上げた。そこにはあのキューブがある。

「ママのことだけで構成されてしまっている今の自分が、私はすごく嫌いなんだよ」

 そこで彼女の言葉は途切れた。この世界は風も吹かないから、気を紛らわせることもできない。僕は対話する言葉を探した。でも、適切なものは見つかりそうになかった。結局口から出たのは凡庸な台詞だった。

「……そういえば最近、葉桜夕さん、あまりテレビで見かけないですね」

「病気なんだ」

「え?」

「ニュースにもなったんだけどな。ガンで闘病中。まだ五十半ばなのに。あの人、運が悪いよね。若くして大病も患っちゃったし、娘だってこんなだしね」

「そんなことないです!」

 僕は思わず声を上げていた。内心、自分でも驚くような、衝動的な発声だった。

「先輩は素敵な人です。そうじゃなかったら、僕はこんなに楽しく毎日会話できません」

「……そういってくれると、嬉しいね」

 彼女はすっと立ち上がった。

「そろそろ昼休みが終わる。今日は暗い話になって悪かったね」

「別に、先輩と話せるなら何だって良いです」

 僕の言葉に彼女はふふっと笑った。

「吉岡君、ひとつ頼みがある」

「何ですか?」

「明日の文化祭、演劇部のステージを見に来てくれないか」

 彼女の言うとおり、我が高校は明日から文化祭だ。演劇部が連日ステージを設けることは、もちろん僕も承知している。

「校外でも活動している私だが、今いちばん力を入れているのは部活動なんだ。明日の舞台、私は全力で演技する。君とはこのブラックホール以外では触れ合ったことはないけれど、それでも、どうしても明日の舞台は見てほしいんだ。頼む」

 彼女は静かに頭を下げた。僕は大きくため息をつく。

「先輩、僕を見くびらないでください」

 その言葉に、彼女は顔を上げた。

「言われる前から見に行く予定でしたよ。行かないわけがないでしょう。だって、先輩の舞台ですよ」

 僕はそれを当然のように言ったけれど、内心、少し緊張していた。こんな台詞を平然と吐けるような人間にはなりたくないと思う。

「だから先輩、頑張ってくださいね」

 その言葉に、彼女は少しだけ目を閉じ、そして僕を見てにっこり頷いた。


   *


 演劇は十五時開始予定だった。

 三〇分ほど前に体育館に着き、僕は席を探す。空いていたのは前から五列目、ど真ん中。特等席だ。

 ブザーが鳴り、幕が上がった。

 それはとある学園を舞台にしたラブコメだった。一人の少年を中心に、多数の〝好き〟が絡み合う。ハーレムものでもあり、群像劇でもある。そしてその少年を演じる者こそ、葉桜夜だった。

 とても面白かった。学校の部活動とは思えないほどに完成されていて、レベルが高い。そんな中、ひときわ輝いているのはもちろん彼女だった。何かが憑依しているような、彼女そのものでいて全く彼女ではないような、そんな鬼気迫る演技を存分に披露していた。

 だた……。

 僕は彼女の熱演を見ながら、首を捻っていた。

 先輩、何だか苦しそう。

 前に見た時はもっと力まず演じていた気がする。普段ブラックホールで僕と会話している時とも、全く印象が異なる。その姿に僕は怖さすら感じた。一世一代の名演のはずなのに。

 劇は中盤を過ぎ、彼女のソロパートに入ったところだった。スポットライトの中、大きな身振り手振りで、台詞を客に向け叫ぶ。

「ボクは、ただ一人に縛られて生きていたいんじゃない! もっと自由に、世界を羽ばたいて、そして笑って毎日を過ごしたいんだ! どうしてそれが許されないんだ!」

 そう彼女が膝を折った時、不意に横からジャージ姿の生徒が駆け込んできた。僕含め、観客の誰もがそれを演出だと思っただろう。だが何かがおかしい。そもそもジャージの役なんて一人も出てきていない。

 その生徒は、彼女に近づき、何ごとかを話した。その瞬間、彼女の顔がサッと青ざめた。

 毎日会っている僕も見たことのない、絶望を絵に描いたような表情。

 彼女は跳ねるように立ち上がり、そして舞台袖へと消えていった。誰もいなくなった舞台をスポットライトが無言で照らしている。ようやく異常を悟った観客のざわめきが聞き苦しくなるほどに大きくなった頃、舞台中止のアナウンスが放送された。


   *


 文化祭が終わり、週明けの昼休み。

 もしかしたら今日はいないんじゃないかと思っていたけれど、やっぱり穴の中には彼女の姿があって、僕を見ると座ったまま穏やかに微笑んでくれた。

 全く色のない、感情の感じられない笑顔。

「先輩……」

「死んじゃったよ、ママ」

 そう呟く彼女は全然悲しそうではなかった。それが余計に僕の恐怖を増幅した。

「吉岡君、私、もう演技する理由、なくなっちゃった」

 僕には返すべき言葉が見つからなかった。それでも、きっと僕は、今何かを話さないといけない。

「……文化祭の劇、見ました」

「どうだった、私の演技?」

「とても良かったです、と言いたいところですが、あいにく僕はお世辞は言わないんです。先輩の演技は、怖かった。あんな明るい雰囲気の脚本に似合わないくらい、真剣すぎて、重すぎた。あれが本当に、先輩の言う〝全力〟なんですか?」

「……あの日の朝、ママの体調が急変した。緊急手術が必要で、成功するかもわからない。私は、舞台をキャンセルして病院で祈ることもできた。というか、それが普通だよね。でも私は全く違うことを思っていた。今日の舞台には絶対に出るべきだ。そこで最高の演技をすれば、きっとママは助かるはずだって。でも、そんな動機で演じてちゃ、客にも劇にも失礼だよね」

 彼女は一瞬だけ、きゅっと顔をしかめた。

「あの日の私の演技は、最低だった。だからママも死んだんだ」

「それはナンセンスです、先輩」

 僕は彼女の言葉を遮るように言った。

「当然ながら、先輩の演技と手術の結果には何の関係もありません。たとえ先輩がベストの演技をしていたとしても、助からないものは助からない。それが現実です」

「……そんな変な励ましの言葉、聞いたことないよ」 

 彼女はふふっと笑った。それが心からの笑いであってほしいと僕は願った。

「でも、ありがとう。元気が出たよ。アレを消し去る元気が」

 彼女は空を見上げる。

「今から魔法で、アレを破壊する。私にやれることはもうそれしかないんだ」

 彼女の横顔には決意と失望の色があった。僕は少し考え、口を開いた。

「その前に、話したいことがあるんです、先輩」

「何?」

「この世界の、本当の正体について」

 彼女は目を見開いてこちらを向いた。その瞳を僕は正面から見すえた。


「ここは世界のウラガワなんかじゃない。あなたの心の中の世界です。違いますか、先輩」


 彼女は何も言わなかった。ただ静かに僕を見つめていた。

「ブラックホールは先輩自身が生み出したもの。それにあなたは気づいていたからこそ、恐怖心なく中に入ることができた。この白黒の奇妙な世界も、先輩には馴染みのあるものだったでしょう。魔法を使えるなんてのも嘘だ。ただ魔法少女の格好をしてるだけ。実際、僕が何度頼んでも、魔法撃たなかったでしょう。あれは、撃たなかったんじゃない。撃てなかったんだ」

 僕の言葉を、彼女は黙って聞いていた。

「僕がここに入ってきた時、先輩はきっとすごく驚いたでしょう。自分の精神世界に他人が入ってこられるなんて、普通思わないでしょうから。僕を見たあなたは、咄嗟に嘘をついた。本当のことを言わなかったのは、どうしてですか?」

「だって恥ずかしいじゃないか。こんな殺風景な場所が私の中身だなんて」

「精神世界がそのままその人自身だとは、僕は思わないですけどね」

「まあ、君ならそうかもね」

 そう言って彼女は空高くを指さした。

「じゃあ、アレは一体何なんだい?」

「きっとアレこそが先輩の核。先輩の精神そのものです。僕が来るまで、先輩は毎日アレと一人で対峙していた。なぜです?」

「自分を見つめ直すのも演技の修行の一つだからね」

「でも先輩、自分が嫌いなんでしょう。アレを見るというのは、見たくない自分を自覚させられるのと同じだ。そんなの、地獄じゃないですか」

「そうだよ」

 彼女は平然と言った。

「でも、君が来てからは変わっちゃったけどね」

「僕は歓迎されざるべき他人ではなかったですか」

「確かに君の存在で、私の重要な時間はなくなってしまった。でも、その代わりに、もっと大切な時間を手に入れることができた。礼を言うよ」

 彼女は音もなく立ち上がった。

「吉岡君、君の推理には一つだけ間違いがある」

 そう言って、傍らに立てかけられた杖を右手に取った。


「本当に使えるんだよ、魔法」


 ふわり、と。

 彼女が宙に浮かぶ。

 えっ、と思う間もなく手の届かない高さまで飛び上がる。

 やがて制止した彼女が杖を掲げる。

 その先に、小さな光の点が灯る。

 それはみるみるうちに大きくなっていき、目映い白の球体となる。

 ふおん、ふおん、ふおん。

 空気を切る音が辺りに響く。

 風が。

 強い風が球に吸い込まれるように吹き荒れて服をはためかせる。

 球の大きさが人を超え、建物を超え、アドバルーンを超えていく。

 空中で。

 先輩が、葉桜夜が。

 左手で帽子を押さえ、右手の杖に力を込めている。

「先輩!」

 僕はあらん限りの声で叫んだ。

「やめてください! あなたがその魔法で消し去ろうとしているのは、あなた自身なんですよ!」

「そう。だから私がやらなきゃいけないんだ」

 遥か上空にいるはずの彼女の言葉が不思議とはっきり僕の耳に届く。

「どうしてそんなに自分を憎むんですか!」

「私が知りたいよ、そんなこと」

 いよいよ風切り音が大きくなっていく。もう球体はどれだけ大きくなったのか見当もつかない。ただとてつもないパワーが僕の肌をビリビリと揺らしている。

「吉岡君、早くここから出てくれ。もう魔法の力が持たない。あと一分もしない間に撃つ」

「先輩!」

 僕はかつてないほどに頭をフル回転させる。彼女を止めるためにここで言うべき言葉は何だ? 考えろ、考えろ僕。他の誰がどうなったってかまわない。だけど、先輩だけは。

 これから先も、先輩と一緒に色々会話したいのだ、僕は。

「もう限界だ吉岡君! 早く逃げろ! 撃つぞ!」

「先輩! やめてください!」

「なぜだ! なぜ君は止めるんだ!」

 地面がガタガタ振動している。もう時間切れだ。考えはまとまらない。答えは出ない。だから、いちばん素直な一言を。

 そうして僕は、その言葉を口にした。


「だって先輩、そんなにかわいいのに!」


「は!?」

 彼女の素っ頓狂な声が聞こえると同時に、轟音を立てて球体が放たれた。それは大きな光線となり、まっすぐにあのキューブを、貫かなかった。その少し上方をものすごい勢いで突き抜けていった。それは十秒ほども続き、やがて光はだんだんとやせ細り消えた。耳を突く音も荒れ狂う風もあっけなく終わった。静寂の戻った世界の床にゆっくりと彼女は降りたち、そして引っ張られるように床に膝と手をついた。

「かわいい!? 私が!? どうしてそんなこと言うんだ!」

 彼女は恐ろしい剣幕でまくし立てた。そして上空に未だ浮かぶマーブル模様のそれを指さした。

「そんなこと言われたら、私、もうアレを憎めない!」

 そう言って、彼女は泣き出した。

 うめき声を上げ、か細い少女のようにシクシクと彼女は泣いた。それは長い間続いた。永遠にも思えるような時間だった。

 やがて彼女の声が止まった。涙の跡が見える顔を上げ、僕の瞳をまっすぐ見つめた。

「……もっと言って」


   *


 それから一ヶ月が経って、僕は体育館でリベンジ公演を見ている。悩めるプレイボーイを演じる彼女の姿からは、何の怖さも感じられなかった。間違いなく彼女はこの舞台を楽しもうとしていたし、実際に楽しめていたのではないかと思う。なぜなら、僕がすごく楽しめたから。そんな感想を素直に伝えると、彼女は「ありがとう」と笑ってみせた。

「演技が楽しいなんて、初めて思ったよ」

「それは良かったです」

「良いことなのかな、本当に」

「良いに決まってるじゃないですか」

 心地良い秋の風が僕たちの肌をなでる。旧校舎の屋上の片隅に弁当を並べて、僕たちは二人きりの昼休みを過ごしている。

 あの日を最後に、ブラックホールは消えてしまった。僕たちが話をする場所は、あのモノクロのクールな世界ではなくなった。雨が降ったら行けなくなる程度の、いたって現実的な場所になった。それで良いのだと僕は思う。

「ところで吉岡君。今更かもしれないが、君に話があるんだ」

「何ですか先輩、改まって」

「いや、何というか、その、だな……」

 彼女はもごもごと言い淀む。初めて見る態度だ。

「君の、あの言葉がなかったら、私は今この世界にはいなかった。ありがとう」

「それはもう何回も聞いてますよ」

「何度でも言わせてくれ。で、これからのことなんだが……」

 彼女は顔を赤くする。その姿に、僕の体も緊張でこわばる。

「わ、私と」

 私と……?

「私と友達になってくれないか!?」

「へ?」

 僕は思わず間抜けな声を上げてしまう。

「話って、そんなことですか?」

「だって君、友達はいないと言っていたじゃないか。そんな君の友達になるのは難しいかもしれないが、でも、どうしてもなりたいんだ。心からの、親友として」

 何だ、親友か……。

 僕は盛大にため息をついた。

「まあ、いいですよ。友達で」

「本当か! よかったぁ」

 見るからにホッと胸をなで下ろす彼女の姿を見て、やっぱりかわいいなこの人は、と改めて思う。

 その時。

 不意に、ブオンと耳慣れない音がしたような気がした。

「あっ!」

 彼女が声を上げて僕の後ろを指さす。それに導かれるように振り返ると、穴が空いていた。

 空中に。

「……えっ」

 僕たちは思わず顔を見合わせる。

「私じゃないぞ、たぶん。私はもう精神的にひとつ決着がついている。今は大きな悩みもないんだ。だからあれは、私のブラックホールじゃない」

 ということは……。

「きっと君のブラックホールだよ、吉岡君」

「まさか」

「そう思うなら入ってみようじゃないか」

 そう言って彼女はにっこりと笑った。

「今度は、手をつないで、二人で。ね」

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葉桜先輩のブラックホール 水池亘 @mizuikewataru

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