15

 *


 家に帰るとカレンが玄関に座っていた。立ち上がって俺を抱きしめた。

「……ん」

 カレンは俺の胸に顔を埋めた。抱く腕には力がこもっており、そこから伝わる体温は夏の暑さで体温が高くなった俺の体より熱かった。

 胸のあたりがじんわりと濡れた気がした。

 カレンはそれからしばらく黙っていた。俺も釣られて黙っていた。

 顔を埋めたままカレンは言った。

「おかえり」

 何事かと思ったが、俺は察した。

 俺が呪いに掛かったと本気で思っていたカレンは、俺のことを心配していたのだ。

 カレンには迷惑をかけてしまった。せめて俺に出来ることは、黙って抱きしめ返すことだけだ。

 それから三分ほどカレンと抱きしめあっていた。

「んっ」

 カレンは急に抱きしめるのを止めて、後ろを向いて言い放った。

「急に何するの。抱きしめてこないでよ」

「……ごめんな」

 心からの謝罪である(抱き着いたことではない。騙したことである)。

 俺が謝るとカレンは自分の部屋に駆けて行った。


「どこ行くの」

 昼食を食べ終え、俺が出掛けようとするとカレンに声を掛けられた。

「霞ヶ関のお見舞い」

「そう。私もついて行こうか?」

 カレンは朝体調が悪かった俺のことを気遣いそんなことを言ってくれた。確かに朝体調は悪かったが、もう平気である。親切は嬉しいが、今から行く場所で話をややこしくしたくないのでカレンには家に居てもらう。

「いや、大丈夫だよ」

「でも体調悪いんでしょ」

「茜について行ってもらうから、わざわざカレンがついて行ってくれなくても平気だよ」

「茜さん……」

 カレンは茜と仲が良いはずなのに、名前を出すとなぜか不機嫌そうな声を出す。

「それよりも、カレンはカレンで予定とかないのか?」

「あるにはあるけど……」

 カレンは俺と違い、交友関係が広いので夏休みに何か予定が入っている方が自然なはずだ。

「あるならそっちを優先してあげな、俺なんかより友達といた方が楽しいだろ」

「それは……そうだけど」

「それに、中学の友達ってのは大事にした方がいいぞ」

 少なくとも俺は中学からの友人に命と人生を救われている。

「でも、そうじゃなくって」

 カレンは首を振る。

「兄さんが倒れられた方が困るから。優先順位くらいわかるから」

 カレンが親切すぎて言いくるめるのが難しい

 正直冷や汗をかいていた。本当にこのまま俺の嘘を信じてついてこられたら困るからだ。そもそも行先は病院ではないから面倒臭いことになる。

「お前は優しいな。心配してくれてありがとう。でも、いざとなっても病院の中だから、村瀬さんが助けてくれるよ」

 それでも何とかカレンを丸め込み、俺は外へ出た。


 茜と合流し、俺は赤津佳奈(あかつかな)の家へ向かった。

 赤津佳奈は霞ヶ関の親しい友人で、霞ヶ関が叔父に引き取られ東京に引っ越した後、中学生のお小遣いという少ない賃金の中で、何回も東京に遊びに行っていたらしい。

 こう言ったら悪いのだが、彼女は霞ヶ関に比べれば大分地味で、成績も俺よりは良いが中の下で、はっきり平凡な女の子と言い切れる。

 そんな彼女は俺のことを嫌っており、俺もできる限り会いたくはないが……霞ヶ関のためだ。会わないわけにはいかない。

 今回は赤津佳奈と話をするために、ある程度仲の良い茜がわけをうまい具合にぼかしながら話して間をつないでくれた。

「仲介ありがとな」

「それくらい、別に」

 と言った後、茜は急にため息を吐いた。

「佳奈、普段はおとなしいのに、なんであなたにだけあんなにあたり強いのかしら……」

 別にと言っていたが、仲介に苦労したみたいだ。申し訳ない。

「思い当たる節が全くないんだよな……」

 赤津佳奈とは普通のクラスメートとして、毒さず臆さず接してきたつもりだったが、なぜか嫌われている。一緒に遊んだことも無ければ喧嘩した覚えもない。せいぜい文房具を借りたくらいだ。怒らせるようなことはしていない。シャーペンの後ろの消しゴムを使ったり、芯を折ったりはしていない。

 そんなこんなで赤津家に着いた。

 茜がインターホンを押す。「はーい」という変声期真っただ中の男子の声がして、しばらくするとドアが開く。

 中学生くらいの男の子、と言うか実際の中学生、赤津佳奈の弟の赤津(あかつひかる)が出迎えてくれた。姉に嫌いな奴が来るから行けと命じられたのだろう。

「姉のクラスメートのですね、どうぞ中に入って下さい」

 光君は茜の方ばかり見ている。美人が来たと思って内心興奮してるのだろう。どうだ、俺の彼女だぞ。可愛いだろ。

 俺たちはそのまま赤津佳奈の部屋に案内された。

 部屋に入ると、赤津佳奈がベッドに座っていた。俺たちが来たことを確認すると、立ち上がって、「いらっしゃい」と笑顔で言った。

 勉強机だと思われる場所に置いてある麦茶を二つあるコップに両方注ぎ、茜の方だけに差し出した。残りの一つは自分の分らしい。カンカン照りの暑い夏の日だからこそ効果てきめんである。

 数秒ほど沈黙が続いたが、茜が言いだした。

「今日は佳奈に聞きたいことがあって家に来たの、できるだけ時間は取らせないから」

「あれ? 私は大滝さんが私に聞きたいことがあって来たって聞いたんだけど。だからそれは茜じゃなくて大滝さんが言うべきことじゃないの?」

 赤津佳奈がじろりとこちらを睨む。邪魔者を見るような視線だ。

「……ああ、そうだ。俺が赤津さんに聞きたいことがあって来たんだ」

「うん。知ってるよ。だからそういうことは君が言うべきだよね? なんで自分で言わないのかな? 言いにくいから? ずいぶん女々しいんだね」

 …………。

 といった具合で、俺は赤津佳奈に大分嫌われている。

 本当はこういうのも逆効果なのだが、あくまで俺のためではなく、霞ヶ関のためであることを自覚させるために、茜と打ち合わせた嘘を再度赤津佳奈の前で言う。

「多分、茜から聞いてると思うけど、霞ヶ関は精神の病気で寝込んでいて、その原因を探るために赤津さんに霞ヶ関のことを聞いて来いと村瀬さんに頼まれたんだ」

 俺の存在を隠して、赤津佳奈から霞ヶ関のことを聞くのは茜に任せれば良かったと少し後悔する。

 しかし、こうやって緊張感を出した方が大切なことをはぐらかされずに聞ける。

 茜と赤津佳奈は友人同士で、友人同士が別の友人、つまり霞ヶ関のことを聞こうとすると、赤津佳奈は霞ヶ関の名誉を守ろうとして、霞ヶ関の大事な部分をぼかしてしまうかもしれない。特別嫌っている人が居ることと、非常事態であること、この二つの緊張があれば嘘なんか吐けないだろう。

 実際、冷房で冷えた部屋の中で赤津佳奈は汗をかいていた。緊張している証拠だ。

 このやり方が最適解だとはわかっているが、それでもこんなにも冷たくされると心が揺らぐ。

「香澄のためだもんね。いいよ」

 仕方ないと言いたげな口調で、赤津佳奈は頷いた。

 正直なところ、俺も彼女のことは、あまり好ましく思っていないので、できるだけ早く終わらせたい。

「香澄が中学生の頃について聞かせて欲しい」

 簡潔かつストレートに言った。

「つまり、香澄が東京にいた頃の話をしろってこと?」

「うん」

 赤津佳奈は麦茶をごくりと一口飲んで話し出した。

「香澄は東京では上手くやれてなかったみたいだよ。東京って勉強のレベルも違うらしくて、授業について行くのも一苦労だったらしいよ。あの香澄がだよ。想像つかないよね」

 それは明也さんからも聞いている。にわかには信じがたい話だ。

「それに友達もあまりできなかったらしくて、学校つまらないって言ってた。私がたまに遊びに行くとすごく喜んでくれた」

「友達が出来ない?」

 早く終わらせたかったので、話の腰を折るつもりはなかったが、意外過ぎる言葉につい反応してしまった。

 百歩譲って勉強についていけないはわかるが、霞ヶ関に友達が出来ないはわからない。

 あんなに明るい性格をした霞ヶ関に友達が出来ない? なんの冗談だそれは。

 性格だけじゃない、顔だって可愛いじゃないか。

「出来なかったらしいよ」

「なんで?」

「自分が田舎者だから趣味が合わなって本人が言ってたけど、私が思うに凄くモテてたからだと思うな。全部断ってたらしいから、振られた男子も、彼氏が欲しいけど誰にも告白されない女子も、香澄のことが鼻に着いたんじゃないかな」

 顔と性格のせいだったのか。

 それにしても、そんなにモテてたんだな霞ヶ関。

 中学でサボらなくなったって明也さんが言ってたから、真面目って特性がプラスされたのか。

 霞ヶ関から不真面目を取り除けば確かにモテそうだ。小学生の時点でも告白はされていなかったが、男子に人気だった。

 自分もそういうやつだったからわかるのだが、思い通りにいかないとすぐ人を恨むのは中学生の頃よくあった。

 だから東京だからというわけではない。もしかしたら島に居ても、もしかしたら同じようおなじように嫌われていたかもしれない。

 でも少なくとも、友達がいないということにはならないだろう。赤津佳奈も茜も、何より俺がいる。

「そうか……上手くやれてなかったのか」

 そういえば霞ヶ関は中学の話をあんまりしなかった気がする。あれは中学時代上手くいっていなかったから、話したくなかったのか。

「でもね、上手くやれていなかったのは、中学二年までで、それ以降は彼氏が出来たりしたらしいよ」

「えっ! そうなの!」

 ここで、ずっと黙っていた茜が声を出した。

「うん。何人か付き合ってる人はいたよ。全員一ヶ月くらいで別れちゃってたけどね」

「彼氏なんかいたのか」

 恋愛が分からないと言っていたが、それは嘘なのか? それとも、あまりにしつこいから付き合ってしまったのか……。

 一ヶ月くらいで別れてしまったというけど、それはやっぱり香澄と彼氏が合わなかったからだろうか。果たしてそれは、上手くやれていたのだろうか。赤津佳奈の手前、心配を差せないためにそう言っただけかもしれない。

「ねえ、私も大滝君に聞きたいことがあるんだけど、いいかな」

「ああ、うん」

 嫌だとは言えないだろう。

「なんで、遊びに行ってあげなかったの?」

「なんでって……」

 余裕がなかったから、とても外に出る気にはなれなかったから。

「口には出さなかったけど、香澄は大滝君が遊びに来るの楽しみにしてたよ」

「……そうなんだ」

「質問に答えて」

 赤津佳奈は苛立った声を出した。

 おまけに睨んでいた。かなり鋭い眼光だ。もしも視線に質量があれば俺に穴が開いていたことだろう。

「中学生の頃の俺は、荒れてたから。多分、あいつが知ってる俺じゃなくなってたから。失望されるのが怖くて会いに行けなかった」

 赤津佳奈の視線が緩んだ、と思ったら急に口をぽかんと開けて言った。

「呆れた。馬鹿じゃないの?」

 言うじゃねえか。

 遊びに来るのを楽しみにしていたっていうのは、口にしてないんだろ? じゃあそれはお前がそう思っただけの主観じゃねえか。なんでお前の主観にそんなこと言われなきゃならねえんだ。

 立場的にいけないとわかっていても、苛立ちを感じざるを得なかった。

「大滝君って本当に友達がいないのね。友達っていうのは、その人が立派なことより、その人であることの方が大切なんだよ」

 そんな説教、わざわざしてくれなくてもわかってるよ。

「…………」

 怒りが口に出るギリギリのところを理性が保っていた。

 赤津佳奈の言っていることはむかつくが正論だ。それに、苛立ちの半分は俺自身のせいだ。残り半分は嫌いな赤津佳奈に鼻に着くことを言われていることだ。

「そんなこともわからないんだね。いや、わからなかったんだね。ならしょうがない。つまり大滝君は本当に――」

 やはり赤津佳奈は嫌いだ。

 なぜなら、俺の言われたくないことを的確に言ってくるからだ。


「香澄のことを信用してないんだね」


 体から勢い良く紐が切れた音がした。俺が完全に切れた。ガチギレだ。大の男が女子に言いくるめられて本気で怒っている。傍から見れば、というより、茜から見れば、それはもうみっともない光景だったんだろう。

 俺が立ち上がろうとすると、茜は俺と赤津佳奈の間に入った。

「終わり!」

 茜は大きな声でそう言い、俺を部屋の外に放り投げた。

「ごめんね。お邪魔しました」

 赤津佳奈にそう言うと、茜は俺を引っ張って外に出た。


「……ごめん」

「謝るなら佳奈」

 茜のいう通りである。本当に俺が謝るべきなのは赤津佳奈だ。いきなり押しかけて怒って帰るのは不味すぎる。

「まあこうなるだろうとは思ってたよ」

 茜は小さくため息を吐いた。

「なんか俺、いつも謝ってるな……沢山迷惑かけてごめん」

「卑屈にならない。それに何度も言うけど、私はあなたの力になれるだけで嬉しいの」

 少し怒りながら、でも半笑いで茜は俺をたしなめる。

 いつも俺が何かしては、茜がこうやって慰めてくれる。

 最近自覚してきたのだが、俺は無意識のうちに彼女に甘えている。茜は謝れば慰めてくれる、それを期待している。なんとも情けない。

「でもまさか香澄に彼氏がいたとはとね」

「ああ、意外だよな」

「…………」

「ん? どうした」

「ああ。いや、本当に意外だなと思って」

「だよなぁ……」

 実を言うと、霞ヶ関が過去に彼氏がいたこと自体はあまり意外ではない。彼氏がいたことを隠していたことの方が意外である。

 あんなにはきはきさっぱりとしている。茜がだ。

 ――好きな人がいるので。

 ふいに香澄の断り文句を思い出した。

 好きな人がいる。とは言っていたが、当の本人はそんなものはないしわからないと言っていた。

 茜は本当に、恋愛的に好きな人が居なかったのだろうか。

「香澄ってそのすぐに別れちゃった彼氏とは別に、好きな人とか居なかったのかな」

 茜に聞いてみた。

「好意を持ってる人ならいたと思う。それが恋愛的に好きかどうかはわからないけど」

「へえ、誰?」

「あなた」

「マジ?」

 茜からはそう見えたのだろうか。

 確かに香澄とは昔から仲が良いし、気心知れた仲ではあるが、恋愛となるとちょっと違う気がする。

 もう何度も言っているが、それに本当にあいつが俺のことを好きだったら、とっくに言っていると思う。

 俺じゃないんだから、告白なんかに躊躇しないだろ霞ヶ関は。

「彼氏ができ始めたのが、中学三年生くらいだったって言ってたわよね」

 中学二年生以降と言っていたので、ニュアンス的にはそうだろう。

「それって私たちが付き合い始めた頃じゃない? 香澄が久しぶりに夢見島に遊びに来て、二人ともそういう仲だったんだって香澄驚いてたじゃない」

「ああ、あの時は驚きながらもめちゃくちゃ祝ってくれたよな」

 久しぶりだというのに、やけに明るかった覚えがある。

 きっと高校生活が上手く行っていたのだろうと思っていたのだが、そんなことはなかった。もう何がなんだかわからない。

「久しぶりに帰ったら友達だった二人が付き合ってたから私も彼氏欲しいなってなっただけだと思うけどな」

「それでできた彼氏と上手くいかなくて、おまけに昔から仲が良くて少し気になってた人が幸せそうにしてたから、ストレスが溜まって……」

「まさか、香澄はそんなに卑屈じゃねえよ」

「別に卑屈でもないわよ。普通だと思うけど」

「普通……か?」

 人の幸せを見てイライラするということは、イコールでは結べないにしろ人の不幸を願っているに近しいことではないだろうか。

「うん、普通。自分が上手くいってない時に、他の人が上手く行ってたら癪なのは普通よ。そりゃ、わざわざ口に出して言う人は少ないと思うけど、心の中では皆思ってる」

「てことは、お前も?」

 茜は微笑む。

「あたりまえよ」

 後から考えれば本当におかしな話だが、俺は人の幸せを心から妬むのはこの世で自分一人だと思っていた。

 どんどん駄目になっていく俺を励ましてくれた可愛い妹が呑気で、余裕ありげで、なぜか幸せそうに見え、それが気に障り、暴力を振るった奴なんて、この世で俺一人だと。他人の幸せを心の底から憎む奴なんて俺一人だと。

「茜もそういう時があったんだな」

「あら、エイジだけじゃないのよ」

「霞ヶ関にもそういう時があるのかな」

「あると思うわよ。香澄、負けず嫌いだし」

「負けず嫌いと言うか、負けたことがないだけじゃないのか」

「そんなことないわよ。中学生の頃は勉強について行くのもままならなかったって、言ってたじゃない」

「あ」

 確かにそうだ。

 あいつは中学時代、勉強について行けてなかった。それなのになぜ今こんなに成績がいいのか。うちの高校は進学校であるとははっきり言えないものの、それなりの偏差値はあるため、その中でトップになるのは簡単なことじゃない。だとすれば、考えられることは一つ、中学時代、霞ヶ関は大いに努力をしたということだ。

 ここ数日で、俺の中の霞ヶ関香澄像が崩れつつあった。

 センスだけですべてやっていけるやつだと思っていたけれど、実際は負けず嫌いの努力の塊だった。

 俺は霞ヶ関のことをようやく理解した。

 長いこと仲良くしていたが、ようやく本当のあいつに気付けた。

 今夜こそは、霞ヶ関と話せる。そんな気がした。

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