ニーカルナ幻想譚
城島まひる
冷気の恋
胡乱な欲望が渦巻くこのニーカルナの大陸にて珍しく健全なる精神の持ち主がいた。葡萄酒も飲まず麻薬を使うこともない。神官というこのクーンの街における最高の地位を確立しているのにも関わらず、彼は使用人も女奴隷も雇うことせず身の回りのことは全て自分で熟していた。
そんな彼、オーソン・アルジンのことがクーンに住まう人間からすれば不思議でしょうがなかった。美の女神クリシャルを崇拝するこの街では特に宗教的な取り決めはなく、クリシャル自身も年に数回オーソンのところを訪れ1時間も経たないうちに帰っていく。クリシャルは常に供物と敬意を渇求する神リドールヴァセーラとは違い、これまでに一度として供物や祈りを要求したことはなかった。
ただ時に酒に酔い、気が大きくなった男たちが女神クリシャルの機嫌を損ねることがあった。そんな時クリシャルは酒や薬に溺れる街の人間全員を罰することはせず、自身に不快感を与えた者を2次元の平面に3日ほど閉じ込めておくという罰を与えた。2次元に閉じ込められた者によれば、そこは常に一方方向にしか進むことができない永遠の闇の世界だと囁かれている。
クリシャルは肩に掛かる蜂蜜色の髪と瞳、手からこぼれ落ちるくらいのやや豊満な胸を赤いビロードのローブで覆い隠していた。そして肌はきめ細かく、まさしく美の女神に相応しい様相であった。
そのため女たちはこぞってクリシャルから美容の秘訣を聞き出そうとする。少し困った表情をしながらもクリシャルは丁寧に天然由来の化粧水の作り方や、洗顔方法を教えていた。とは言えクリシャル自身、美の女神故に生まれ持っていた美貌のため化粧水も洗顔もしたことがないのだが。
*
「クヴァツァ クヴァツァ 来い
静寂の妖精よ 冷気の妖精よ
人肌好まぬお前の室を想い雪を積まん
クヴァツァ クヴァツァ 来い
霊廟の女神ソールサコースの奴隷よ
不毛なお前の墓を拵えるため石を積まん」
外から聞こえてくる子供たちの”冬祓いの唄”を聞き、冬の訪れを知ったオーソンは、ここ数ヶ月一度として教会から外に出ていないことに気が付いた。世話焼きな老婆たちが定期的に教会へ食料を持ってきてくれるため、オーソン自身は神官の仕事でもあるニーカルナ神学の研究に集中できていた。
ふと鋭い冷気が教会の中に入り込み、礼拝堂側の大きな扉が開いたことを冷たい風がオーソンに伝えた。オーソンは久しぶりの礼拝者を確認しに礼拝堂へ向かった。
礼拝堂には紺色の袴に空色の長髪、ブルーサファイアの瞳を持つ少女が長椅子に腰掛け沈黙の祈りを捧げようとしているところだった。オーソンは少女より3列ほど前の長椅子に腰掛けると、少女からの声掛けを待った。礼拝堂を訪れる殆どの人が他人に相談しにくい悩みを持っており、顔を合わせずにただただ悩みを口にし吐き出したい者、助言を賜りたいと願う者と様々であった。そういった者全員に対しオーソンは少し前の長椅子に腰掛け、顔を合わせずに言葉を紡ぐのが常であった。
だから今回も少女が腰掛ける長椅子より前の長椅子に腰掛けた。しかしオーソンはある一つの可能性を考えていた。後ろの長椅子に腰掛ける少女の姿がかの冬の妖精クヴァツァにそっくりなのだ。とは言えないオーソンが持つクヴァッツァに関する知識は書物から得たもののため、決してその少女がクヴァツァであると決定づけるものではない。
「...勤勉な神官様。私はクヴァツァ、霊廟の女神ソールサコースの使いにして冬の妖精です。」
「左様でございますか」
オーソンは困惑した。何故少女は否、クヴァツァは自らの正体を明かしたのか。本来であれば神官というのは生の神々に仕える為、死の神々それこそ霊廟の女神ソールサコースやその配下たる冬の妖精クヴァツァを払う立場にあるのだ。
言わばオーソンと後ろに座るクヴァツァは敵同士であった。しかしオーソンは禁欲主義でこそあるが、宗教的情熱に身を費やす男ではなかった。故に彼は自分自身、即ち意志に従った。
「私はクリシャルに仕える神官オーソン・アルジンだ。ついて来なさい、暖を用意しよう。」
背後に驚きの表情を浮かべるクヴァツァの気配を感じながら、オーソンは礼拝堂と住居を繋ぐ扉を開いた。クヴァツァが、次にオーソンが続き2人は住居スペースへと入っていった。
オーソンは薪を用意して湯を沸かすと桶に注ぎ、厚い布と共にクヴァツァに手渡し別室へ案内した。
「クヴァツァ、君の服は霜だらけだから私が落としておこう」
クヴァツァは戸惑いながらもドア越しに腕を伸ばし、袴をオーソンに渡した。一瞬オーソンの頭で夢魔が性の甘い誘惑を囁いたが、クヴァツァからの信頼を裏切るわけにはいかないと理性で抑えつけた。
暫くして体を拭き、湯に火照った体のクヴァツァがオーソンの前に姿を表した。代わりの服が無いためバスタオル一枚という格好は女性経験の少ないオーソンにとってかなり刺激的だったに違いないが、女神クリシャルへの祈りを頭の中で繰り返し冷静さを保った。二人は火の付いた暖炉の前にある2脚のソファに腰掛け、オーソンは本をクヴァツァは用意されていた珈琲を飲んでいた。外は月が沈み既に真っ暗になっていた。太陽がないニーカルナの世界にとって月が上れば朝と昼であり、月が沈めば夜である。
クヴァツァに対する色っぽい欲望を追い出そうと本を読み出したものの思った以上に熱中してしまい、気づけばクヴァツァはソファに深く沈み込み寝入っていた。飲み終わったマグカップは床に置かれ、空であることをオーソンは知った。起こすのも可哀想だと思ったオーソンは、自身が着ていた神官の厚手のローブを寝ているクヴァツァに掛け、薪を足してから自身の寝室へ入っていった。
*
天窓から差し込む月光に照らされ、気怠げにベットから降りたオーソンは伸びをしたところで、クヴァツァをソファに寝かしたままだったことを思い出した。オーソンが暖炉のある部屋に入るとクヴァツァの姿と干してあった袴は既になく、クヴァツァが体に巻いていたバスタオルが綺麗に折りたたまれソファの上に鎮座していた。
どこか寂しく思いながらもオーソンは簡易的な朝食をつくり、胃に流し込んでから昨日と同じ様にニーカルナ神学の研究に取り組くんだ。月が最も高く上がった頃、即ちニーカルナにおける昼時に礼拝堂の扉が開かれ、入ってきた冷たい風が礼拝者の訪問を伝えた。
オーソンはどこか期待しながら礼拝堂に入っていった。そこには美の女神クリシャルがオーソンの到着を待っていた。オーソンは礼をすることで落胆の表情を隠しながらも、一体自分が何を期待していたのか分からなかった。ただその期待がクリシャルに対するものではないことは確かだ。
「今回はお早い訪問ですね。前回訪れてからあまり経過していないように思えますが...」
「いつ来ようが何も言わず神を迎えるのが神官の勤めでしょう」
クリシャルの声色は普段とは違い冷たく刃物独特の鋭さを有していた。ただごとではないと思った神官オーソンは口をしっかり閉じ、クリシャルは次の言葉に耳を傾けた。
「今日来たのは他でもない。この礼拝堂とオーソン、貴方から死の臭いを嗅ぎ取ったからよ」
クリシャルの言葉から昨日の出来事を想起する。言うべきか黙っておくべきか。一神官として報告すべきであると思う反面、オーソンの意志はその意見に反駁を唱えていた。数秒逡巡した後、拳を握り決意した。
「お言葉ですが美の女神クリシャルよ、ここ最近はずっと私一人しかこの教会にいません」
クリシャルはオーソンを訝しげに睨みつけ、オーソンの自由を奪った。視線そそらせば嘘がバレると思ったオーソンは笑みを顔に貼り付け、正直者を演じていた。馬鹿らしい。クリシャルがその気になればニーカルナの魔術によって簡単に見破られてしまうに違いない。それでもオーソンはこの嘘を貫こうと必死であった。やがてクリシャルは顔を俯かせ大きなため息をついた。
「言っておくけど」
クリシャルにしては珍しい暗く低い声が礼拝堂に響く。
「神官オーソン・アルジン。貴方がニーカルナの死の神々と手を結ぶのであれば、この美の女神クリシャルや豊穣の女神ディデヤコルはこのクーンの街を見捨てるわ」
クリシャルは続ける。
「この退廃したクーンの街がいまだ生の神々によって保護されているのは他でもない、オーソン。貴方が処女の女神オジュハルに認められているからに他ならない。オジュハルは貴方だけを評価している。もし貴方がオジュハルの期待を裏切れば、このクーンの街は本当の意味で滅びることになるわ」
オーソンは美の女神クリシャルからの警告を聞き、半ば呆然としていた。いま自分の肩に乗っているクーンの街に住むすべての命。その生死を握っているのは他ならぬオーソン・アルジン自身なのだと告白されたからだ。
*
「あの...神官様...」
夜闇に消えそうな囁き声が耳を擽る。目の前にはクヴァツァ。どうやらクリシャルが警告を残し礼拝堂を去った後、オーソンはあまりにも重すぎる責任と強迫観念からか呆然と立ち尽くしていたらしい。何故そんなことをクヴァツァが知っているかと言えば、私とオジュハルのやり取りを盗み見ていたからだ。
そんな驚きの事実をクヴァツァから聞いたのは他でもない。昨夜と同じように湯を貸した後、オーソンから夕飯を共にしないかと誘った後だった。オーソンはクヴァツァを手放したくはなかった。やっとを掴んだ幸せを大事に大事に包み込みように、クヴァツァをなるべく長い時間側にいさせようと無意識の内に躍起になっていた。オーソンはまだその感情の正体を知らなかった。
*
それから定期的にクヴァツァはオーソンのいる教会を訪れる様になった。クリシャルとの会話を聞かれていたため、二度と姿を現さないのではないかと不安になった時もあったが杞憂に終わった。オーソンとクヴァツァは言葉を交わすことはなかったが、巨大な教会の書庫で同じ机につき、読みたい本を並べ時間を共有する日々を過ごしていた。
そんなある日一人の老婆が礼拝堂を訪れを、オーソンに相談を持ち掛けてきた。
「神官様ここ最近、気候がおかしいのです。もう冬も終わり夏が訪れる兆しが見えてくる筈なのに、レテイーデの姿をいまだ誰も確認していません」
「レテイーデが姿を現さないとなると、冬が開けず永遠に冬の世界となってしまうな」
オーソンは事実確認を終えると老婆を家まで送った。そして礼拝堂に戻ったオーソンは美の女神クリシャル、そして豊穣の女神ディデヤコル、最後に処女の女神オジュハルの彫刻を見てクリシャルの警告を思い出していた。もし本当にこれが生の神々に見捨てられた結果であれば...その先を考えオーソンは身震いすると妄想を振り払った。
過去、ゾティークにて処女の女神オジュハルの誓いを破った修道士がいる。その修道士は誓いを破ったが故に犠牲になった人々の末路を見せつけられ、死体となり蛆に腐敗した皮膚を食われようと永遠にその体に魂が残り続けるよう呪われてしまった。
さてどうしたものかとオーソンが礼拝堂で悩んでいると、動物の屍蝋で出来た蝋燭の灯りを片手にクヴァツァが礼拝堂に入ってきた。先程まで書庫で本を読んでいた筈のクヴァツァは何故か、白いレースを被り銀で出来た2つの指輪をオーソンを渡してきた。
決して察しが良いわけではないがオーソンはクヴァツァが、結婚式の真似事をしようとしていることに気づいた。何故?と思う反面、それを拒否しようとは思わなかった。
何故ならオーソンの心にあったクヴァツァを手放したくないという気持ちは、今ハッキリとその正体を現したからだ。その後、オーソンとクヴァツァは礼拝堂で二人っきりの結婚式を生涯を結ぶ儀式を行った。そして二人が口づけを交わした瞬間、美の女神クリシャル、豊穣の女神ディデヤコル、処女の女神オジュハルの彫刻が砕け散った。
オーソンは生の神々が遂にクーンの街を見捨てたと知ったが、そんなことはどうでも良かった。私はただこれからずっと愛おしいクヴァツァと、永遠の冬の世界で生き続けるのだから。冬の妖精は死ぬことはない。しかし人間はやがて死に至る。それは冬の妖精クヴァツァが死の神々に、人間であるオーソンが生の神々によって創られた故の絶対法則であった。しかし今オーソンの裏切りにより怒りに堕ちたオジュハルはオーソンに不死性の呪いを掛けた。その怒り故の軽率な行動が、オーソンとクヴァツァの幸せを確かなものにしてしまったと気づくこともなく...
*
その後、ニーカルナの街の一つトーテトイアで、クーンの街に関するある恐ろしい噂が囁かれていた。なんでもあの街は永遠に冬が開けることがなく、生きたミイラたちが巨大な氷の中身動きがとれず呻き続けているといったものだ。
更にここ最近クーンの街を探索した若者によれば、教会の中なら人の気配と明かりが漏れ出ていたという。そして男女二人の笑い声を聞いた若者は恐ろしさのあまりクーンの街から逃げ出したそうだ。
斯くしてクーンの街はその様から『永遠に廃墟の街クーン』と呼ばれるようになり、誰も近寄らなくなった。
─了─
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