明星にふれる

染井雪乃

前編

 一般教養の一つ、民俗学の講義前の昼休みに、大教室で一人で堂々とごはんを食べている人がいた。それが、三枝さえぐさまどいだった。大教室のなかには、いくつもの小さなグループができていて、一人で黙々とランチをしているのは、さよりの他には彼女だけだ。

 でも、圧倒的に、違う。縮こまるようにして端の席を使い、音を立てまいと静かにランチをしているさよりと対照的に、彼女は中央の前の方の席を広く使い、タブレットやパソコンを広げ、スマホで何らかの作業をしながら、食事を摂っている。ここに一人であることを恥だなんて、微塵も思っていないのが、所作に表れていた。

 どう見ても、孤高の人だ。私とは違うタイプ。関わらないようにしよう。

 そう思っていたのに、その日の講義終わり、とても不運なことが起きた。出席を記録するために学生証をスキャンする列に並んでいたさよりは、後ろの学生の肘が当たって、持っていたアイスコーヒーを彼女のシャツにぶちまけてしまった。後ろの学生は気づきもせず、話を続けている。災難に思いつつも、さよりは彼女に謝罪しようと口を開きかけた。

「おい、そこの浮かれきった馬鹿」

 動じた様子もなく振り向いた彼女は、さよりの後ろで話し続けている女子学生を指差して、続けた。

「肘が前の人間に当たっても気づかない。その結果他人のシャツが汚れても平気でお喋りに興じていられる、とは羨ましい性分だな」

 淡々と話す声は自信に満ちて、大教室の喧騒のなかでも、よく通った。

 事態に気づいた女子学生は顔を赤らめ、クリーニング代を押しつけて、出席記録を放棄して、ぱっと逃げた。それを何の感情も浮かべずに眺めてから、彼女はさよりを見て言った。

「自分のせいではないことで謝っていると、都合のいい人にされてしまうぞ」

 格好いい。ただその一言に尽きた。

 三枝まどいと名乗った彼女と連絡先を交換して、着替えを買いに行った。まどいに似合う服を選び終え、会計を済ませる頃には、二人は互いを名前で呼ぶようになっていた。


 まどいは強くて、優しくて、そしてちょっと変わっていた。さよりの家に向かう途中のコンビニで見かけたチアシードドリンクを指差して、「カエルの卵」と言ったり、カフェで真っ赤なストロベリーパフェを崩しながら「血で真っ白な肌を汚していくようで楽しい」と呟いていた。

 時折見せる感性は独特だけど、学業にも熱心で、案外優しいこの友人が、さよりは大好きになった。自分自身を卑下しないまどいは、さよりのことも当然貶めない。

 さよりの「私なんか」と思ってしまう考え方も、少しずつ、少しずつ薄れてきていた。


 夏休みに入ったある日のこと。まどいは陰鬱な気分でバスに揺られ、山奥の村に向かっていた。親戚の家を取り壊す前の片付けの人手として駆り出されたのだった。

 一度行ったことがあるかもしれない程度の親しさの親戚の家の片付けで、その上アクセスの悪い山奥だというのだから、まどいは不機嫌を隠せなかった。二時間に一本のバスを降り、そこから山道を徒歩二十分。到着した際のまどいは暑さと疲労で、人でも射殺せそうな目をしていた。

 集まった人々の大半が男性だった。そのせいか、細々した作業が終わると、「帰りに駅まで送るからそれまで散歩でもしてくるといいよ」と気を遣われた。

 こんな山奥で散歩っていったい何を見るっていうんだか、と思ったけれど、それは飲みこんで、笑顔で礼を言い、その場を離れる。ここにいても、疲れるだけだ。それなら、もう来ないだろう土地を見ておく方がましだ。

 まどいは山道を下り始める。バス停から来る最中に小さな駄菓子屋を見かけたから、ひとまずそこを目指してみようか。都会育ちのまどいは、本物の駄菓子屋を訪れたことがなく、ひそかな憧れがあった。

 行きに見かけた駄菓子屋は、営業していた当時の箱を積んだまま、商品は忽然と姿を消し、棚は埃を被っていた。駄菓子も、アイスも、なかった。とことんついてない。

 夏の暑さと、作業の疲労で、まどいはふらふらと木陰に入った。

「はあ、疲れた」

 ぐったりと木にもたれかかって、ふと顔を上げて、まどいは呼吸を忘れた。


 まどいの隣に佇むのは、ふわふわとした綿菓子のような美少女だった。彼女は、人間から色素をほぼすべて抜き去ったような容貌をしていた。白に少しばかりの色素を入れた淡いクリーム色の髪。グレーの瞳。

 他人の容姿なんてものは、気にかけたことがなかった。まどいにとってそれは、識別のための記号に過ぎなかったのだ。そのはずだった。

 今この瞬間、まどいは目の前の少女の容姿を、その挙動を、網膜に焼きつけて脳裏に刻みこもうとしていた。

 視線に気づいたのか、少女がこちらを見る。まどいに気づいて、まるでそうするのが当然かのように、優しく笑んだ。柔らかく、包みこむような笑みだった。

 聖母と思いかけて、まどいは踏み止まった。皆に降り注ぐ慈愛であってはならない。これは、自分に向けられた笑みであるべきだ。

 ただ見つめた。

 疲労も汗も暑さも、まどいの思考から消失していた。

 この少女とずっといたい、彼女の隣にいられるなら他には何もいらない。

 まどいの生は、彼女に出会うためにあったのだと、心の底からそう思った。


 暑さが、汗が、疲労が、戻ってきた。

 まどいの隣には誰もおらず、ただ暴力的な暑さがあるだけだった。

 先ほどの体験は、何だったのだろうか。

 暑さが見せた幻覚? 夢?

 それにしては、妙に現実味のある体験だった。

 あの少女の、惹きこまれるような美しさ。

 まどいは、あの美しさに惹かれ、我を忘れていた。

 我を忘れさせるほどの美しさの存在は、無意識的であれ、意識的であれ、他人の容姿の持つ意味を否定してきたまどいにとって、天が落ちてきたかのような衝撃だった。

 きっと、天ではなく地球が回っているのだと、自らの常識を覆された数百年前の人々も、こんな風に全身に衝撃が走り、世界が違って見えたのだろう。


 まどいは、ふらふらと親戚の家に向かって歩き出した。少女が存在すると知ってから見る世界は、稚拙な作り物に思えて、褪せて見えた。

 今まで、こんなにもつまらない世界を、自分は楽しいと、価値があると、思っていたのだろうか。

 価値なんてない。彼女のいない世界は、空虚だ。


 ぼうっとしたまま、親戚の家に戻った。上の空で出てきたごはんを食べ、最後に家の中を見て回る。この家は取り壊すらしいが、特にまどいは思い入れはない。ただ何となく、本当に目的のない探索だった。

 何となくでも、目的がなくても、まどいの探索には、実りがあった。

 本棚の上からひらりと落ちてきたのは、ここの住人が置き忘れていったのだろう、未使用の絵葉書だった。そこに、白い少女がいたのだ。だいぶデフォルメされて、あの神秘的な美しさではなく、可愛らしい少女になっているが、彼女であることは疑う余地もない。

 絵葉書を手にしたまどいの静かな興奮を知らぬまま、まどいの手元を覗きこんだ若い男性が、「欲しいのなら、あげるよ」と、絵葉書に何の価値も感じていない様子で言った。

「いいんですかっ」

 まどいが食い気味に男性に確認すると、彼は「お礼にしては足りないくらいだよ」と静かに返した。

「そんな、足りないなんてことないです。あの、この絵葉書に描かれている女の子のこと、何か、知ってますか?」

「俺も、ばあさんとはあまり会っていなかったから詳しくないんだけど」

 申し訳なさそうに前置きして、彼は少しだけ話をしてくれた。


 この絵葉書のシリーズで手紙が来てた時期があったんだ。

 町おこし的なものなのかな。

 当時俺は子どもだったから、文字だらけの手紙よりも、風景の絵葉書よりも、こっちの方がいいと思ったのかもしれない。

 たしか、ばあさんは、この女の子を女神様って呼んでた。

 それくらいしか、知っていることがないんだけど。


 ごめんね、詳しくなくて、と彼は話を締めくくった。

 女神様。

 あの少女は、女神様なんだ。

 まどいの目には、希望が映っていた。

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