第2話 君津で起こった出来事

 県警本部の十階にある職員食堂へ晶子が一人で行くと、入り口でトレイを持って舟橋が待っていた。

「やっぱり現れたな」

 現れたな、じゃないよ、こっちは忙しいんだよ。心でぼやきつつ、晶子は入口に立てかけられている本日のメニューを見た。格安三五〇円の日替わりメニューは油揚げ定食とタンドリーチキン定食と書かれていた。決めにくい極端な二択だ。

 定食は諦めて、晶子は手堅く定番のサービスカレーにした。舟橋は迷いなく油揚げ定食を選ぶとトレイに小鉢を乗せ、おごる気は全く見せずに、とっとと先に会計へ向かった。

 晶子も無料で付いてくるホウレン草と煮卵のミニ総菜二点を選んで、食堂奥のテーブルに向かった。なぜなら、そこで舟橋が席を取ってこちらに手招きしている。他の職員も大勢いる中で、ハズいことこの上ない。


「怖いよなぁ、最近」

 舟橋が意外な切り出しで、話を始めた。最近話のつかみを研究しているようだ。

「何がですか、舟橋さんお茶とお水どっちがいいですか」

 どうせ飲むのだから、舟橋の分も一緒に取りに行った。

「あっ、すまん俺お茶派ね」

 晶子は給水機から二つのコップを持って戻った。

「いや、なんか激辛ブームだってな、最近」

 また意外なネタを入れて来た。しかし、激辛ブームは最近でもないだろう。

「昔の辛口が、今の甘口ぐらいらしい」

 舟橋はつかみを狙いすぎて、話の狙いが全く分からない。

「一体、何が言いたいんですか? 」

「まぁ、そう急ぐなよ。順番に話してあげるから、俺は休みに木更津に行ったって教えただろ、でも本当はバカンスじゃないんだよ」

 どうだ、と言う感じで間を空けると、舟橋はお茶を一口飲んだ。

「どっちでも、いいですけど」

「あれね、本当は不動産屋に行ったんだよ」

「異動の話無くなったんでは、ないんですか」

 本部内人事異動を晶子は、暇な時に良く見ていた。舟橋は木更津署への左遷が決まりかけていたのが、直前で取り消しになったはずだ。

「そうなんだよ。最初異動の内示を受けた時には『この年になって島流しかぁ』って気が重くなったんだけど。いざ下見に木更津に行ったらさぁ、これが結構いい街だったんだ」と嬉しそうな顔の舟橋。

「リタイヤ後、南総暮らしも悪くない、と思い始めてね、ついでに家を探したら条件のいいアパートを見つけてさ、内金まで入れたんだ。仮押さえね」

 話しながらも舟橋は、ネギしょう油のかかった油揚げを、ご飯の上に乗っけて美味しそうに包んで食べていた。

「行く気まんまん、だったんですね」

「その時はね、それでさ、この間の手柄で異動が急遽なくなったので、アパートの解約と、お詫びでこの間は行ったんだけど」

「手柄というか、警察内部の隠蔽ですよね」

「シーっ、まだこの話はデリケートなんだよ」

 前回『クマの着ぐるみ殺人事件』の顛末で、千葉県警は初動捜査の見落としが露呈することを恐れ『舟橋は定年までどこにも出さない』という高度な組織判断をしていた。この県最大の未解決事件で、真相の解明に多大な協力をした晶子のところには、何の褒美もなく、不安定で退屈な受付派遣社員のままだった。

 不快な気持ちを紛らわすように、晶子は普通すぎるカレーを口に運んだ。

 舟橋の話は続く。

「そんで、不動産屋で解約手続きした後に、昔仕事を教えた後輩が、隣の君津署にいるのを思い出したんだよ。このまま一人で、ホテルに帰るのも寂しいので、そいつに連絡してさ、二人で夜飲む約束をしたんだ」

「旅飲みですか、充実していますね舟橋さん」

「まぁね」

 ここまで聞いて晶子は、おじさんが木更津で友達とただ酒を飲んだ話で終わらないことを祈った。

「市川くんは、君津行ったことある?」

 何で急に『くん』付けした?

「木更津は潮干狩りとかで行ったことありますけど、君津はないと思います」

 サーファーや釣り好きでもない限り、千葉市民は房総半島の南や東の奥地へ行くことは少ない。遠足や、小さい頃の家族旅行を除くと、晶子も行った記憶がない。

「君津といえば、昔のイメージは工場と暴走族が多い地域だったんだが、行ってみてビックリしたよ、全然違った。キレイで良いとこだったよ、駅前も思ったより発展して、すごく便利そうだったよ」

 舟橋は目を輝かし、晶子の知らない町をただ褒めた。

「だったら、舟橋さん、まだ間に合いますよ、早期退職して行ったらどうですか」

 晶子は適当な受け応えをした。

「いや、それはあくまで第一印象ね。俺もまだまだ忙しいから、もう少し本部に居たい」

「結局、何の話なんですか」

 話を聞きながら食べていたおかげで、もうお腹がふくれてきた。結局、舟橋のただの暇つぶしに付き合わされたようだから、そろそろ食堂出たいなぁと思いはじめた。

「そうだった、ここからが本題ね」舟橋は箸を置いた。

「後輩の仕事が終わる夜九時まで、俺は時間つぶして待ってたんだけど、急にドタキャンしやがったんだよ」

 向こうは現役で忙しいでしょうからね。ムキになる先輩の方が情けないわ。

「すいません急に緊急事件が発生しました! とそいつから急にLINEだよ」

 LINEに予告も急も何もないだろうとは思ったが、晶子は舟橋の言った言葉に何か引っかかった。

「おっ、気になった?」ニヤリと笑みを浮かべ、舟橋は油揚げをまた食べ始めた。「気になるよな。やっぱりな、市川ならこの話、興味持ってくれると思ったよ」

「いや内容じゃなくて、LINE使ってることが気になっただけです」

「LINEぐらいやってるよ。俺も進化してるんだ。それより事件だよ。慌ててそいつに電話かけたらさ、恐ろしい事言うんだよ。『先輩、駅前にあるビジネスホテルで血まみれの遺体が見つかりました』って」

 油断していただけに晶子はひるんだ。

「えっ、それって事件ということですか?」

 血まみれという言葉から晶子は他殺を連想したが、県内で殺人なんてニュースを直近では見ていない。

「現場は、グランドロイヤル君津ホテルっていうんだよ。名前大げさだよな」

「そこはどうでもいいです。なんで血まみれだったんですか?」

「分かってるよ。俺も元刑事だ、後輩の声の慌て方聞いただけで、これはただの遺体じゃないとピンと来たね」

「で、殺人だったんですか」

「いや、俺もピンとは来たんだけど、事件かどうかはまだ分からない」

 じゃあ、何のピンだよ。

 このままでは、話を楽しみ始めた舟橋に貴重な昼休みを潰されかねない。

「君津署では、病死ということになっているらしい」

 なんか、間の話が大きく跳んでいる。晶子はさらに聞いた。

「血まみれだったんですよね? なんで病死なんですか」

「血まみれって口からね、吐血ね。だから持病での病死ということで、君津署は処理したようなんだが……ただね」

 舟橋はまたお茶を飲んでもったいぶった。

「早く、そこだけ教えて下さい。ちょっと私このあとコンビニ行きたいので」

 晶子が急かすと舟橋は姿勢を前に寄せてきた。

「俺が手に入れた情報によると、被害者は死の直前にとてつもなく辛いラーメンを食べていたらしい」

「だから、何なんですか」

 晶子は冷たい目で言葉の続きを待った。

「つまり、激辛ラーメンを食べたことが本当の死因じゃないか、と俺は睨んでいるわけだ」

 舟橋は真顔で言うと、晶子の様子を伺いながら、味噌汁を片手で飲み干した。

 もし、本気でそんな死因を警察官が考えてるとしたら、否定してあげるのも優しい市民の役割だ。

「それは絶対ないです」

「えつ、即答で否定。とてつもない激辛ラーメンだよ。充分考慮に値すると思うけど」

 舟橋は真顔で言っている。

「激辛ラーメンで吐血して死んだ事件なんて、聞いたことないですよ。だったら毎日キムチ食べてる韓国なんて、血まみれ死体だらけになりますよ」

 晶子は呆れた。

「うーん、そこは程度問題だろ」

「むしろ、唐辛子は美容と健康にいいらしいですよ」

「だって、被害者の吐しゃ物は真っ赤だったらしいぞ。警察で調べた結果、血液と激辛ラーメンが交じり合った恐ろしいモノだったって」

「いやいや、死因を考えるならもっと他にないんですか? 小さな針で刺されていたとか、毒薬を飲まされたとか、検視でその辺分かるんじゃないですか?」

「まぁ、話を聞いただけの人間は、そう思うのも無理はない」

「舟橋さんも聞いただけでしょ」

「俺は、その事件の現場を見た後輩から、直に聞いたんだよ」

「直も間接も、聞いた話には違いはないですよ」

 いつものこととはいえ、現役警察官としてあまりに緊張感なく、漠然とおもしろ死因を連想する舟橋の呑気さに、晶子はイライラしてきた。

「激辛ラーメン以外に死因はあるはずですよ」

「でもさぁ、被害者はホテルに戻る直前に、わざわざ隣の木更津市に行って、激辛ラーメン食べてるんだよ。最後に食べたもので吐血って、一番自然な推理だと思うけどな」

「そのお店で、他にも食べたお客さんいるわけでしょ。皆死にました?」

「まぁ、そう否定したくなる君の気持ちも分かる。だから、詳しく状況説明するから、もうちょっと話聞いてくれる?」

 昼にコンビニ寄るのは諦めた。もし本当にそんな殺人容疑のかかるラーメン屋があるのなら、それはそれで晶子も気にはなる。

「さっき言った後輩、鴇田(ときた)って言うんだけど、そいつが現場で目撃したことを説明させてもらうよ」

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