いつかの記憶

時雨 柚

1

 申し訳程度に残った桜の花びらが、すかすかになった桜並木を眺めながら寂しそうに揺れている。春先にしてはかなり暖かいけれど、長袖でも全然暑くないくらいの心地よい空気。私は特別見るものもなかったスマホから目線を上げてカバンにしまった。

 まだ頂点まで遠い太陽が柔らかい日差しを投げかけている。この後も一日中晴れ。そんな天気予報を疑う気にもならないくらいの青空だ。

 平日午前中の駅周辺は、思っていたよりも人が多かった。私と同年代に見える人がほとんどで、見知った顔もいくつもあった。みんな春休みなのだ。高校を卒業して大学や仕事が始まるまでの間の休暇を、思い思いに楽しんでいる。

 しかし対照的に、駅の裏手には人っ子ひとりいなかった。正面側にはカラオケやデパートなんかが軒を連ねているけれど、裏側には川と歩道とベンチくらいしかない。唯一人が集まる理由になりそうな桜の木々も、もうすっかり散っている。地方番組の天気予報コーナーでいつも映るのがここだから、見る桜がないことはみんなとうに知っている。

 手鏡を出して、前髪をちょいちょいといじる。今日は大して風も強くないし、実際髪型も崩れていないけれど、ついさっきスマホをしまった手前五分と経たず引っ張り出すのは気が引けて、ほんのわずかな暇つぶし。ほんのり栗色に染めてみた髪も、陽の光に照らされた程度で前との違いがいまいちわからなくなるほど地味な変化だ。

 自分の前髪から服へと視線を移す。今思えば、こちらも少し地味。白色のジャケットにデニム。せめてスカートにすればよかったかもしれない。もう一度手鏡を見る。サングラスとか、似合うだろうか。

「奈津」

 今度は視線を、声のした方へ。

「早いね」

「そっちこそ」

 駅の裏側というのは待ち合わせ場所にしては地味でざっくりとし過ぎていたかもしれない。それでも集合時間の十五分前にこうして出会えているのだから、今さら気にすることでもない。

 ミントグリーンのキャミワンピに鍔広帽をかぶった沙良は、まるで夏のまんなかにいるみたいだった。辺りが少しだけ暑くなったような気がしたけれど、涼やかな風が吹いて春先へと戻ってきた。私は手鏡をカバンに戻した。

「それで、どこに行くの。まだここいる?」

「まだ決めてないや。もう少しだけここにいよう」

 今日ここに集まったのは、卒業旅行をするため。旅行の計画を立てるため。細かいことは沙良と決めたかった。私の行きたいところに行くだけで終わるわけにもいかないし、特に行きたい場所があるわけでもなかった。

 それならここに来るまでに見かけた同級生たちのようにこの町を歩き回るのでもよかったかもしれない。それでも私は、せっかくひとつ大人になるのだからと、沙良を旅行に誘ったのだった。

「とりあえず、ラウワンでも行く?」

「そんでサイゼでしょ。服屋に本屋でしょ。いつもと変わんないよ」

「もしかして、泊まり? 日帰りだと思ってた」

 沙良の持ち物はショルダーバッグひとつで、旅行をするような荷物には到底見えない。今日どうする? と言いながらてきとうに町を巡って、結局何事もなく楽しんで解散するのがいつものパターン。でも今日はそうなるわけにはいかない。キャリーバッグを引きながら地元を歩き回るヘンな人になってしまう。

「泊まりの予定だったけど、日帰りにする? 着替えとかないでしょ、それだと」

「待って、お母さんに連絡する」

 別にそれなら一旦帰ってもいいけど、と言おうとしたところで、私ははっとして口を噤んだ。私たちはお互いすぐ近くの家に住んでいて、どちらかが家に戻るなら自然ともう一人もついていくことになる。そうなれば、寄り道が発展していつも通りの休日になる。そうなるのは避けたかった。

 少し離れて背を向けて、沙良がスマホを耳に当てている。しばらくして、沙良はその体勢のまま振り向いた。スマホを耳から離してこちらに突き出した。

「ん」

『なっちゃん?』

「え? あ、はい」

 その間、わずか三秒ほど。またも沙良は背を向けてしまった。なんだったんだろうと思っている間に連絡は終わったようで、再度沙良はこちらを向いた。

「なに? さっきの」

「泊まってきていい? って聞いたら一人? って聞かれて、奈津と、って言ったら久々に声聞きたいとかって」

「ああ……あれでよかったのかな」

 沙良とは、大昔は家族ぐるみでの付き合いだったが、今や相手の家族との交流はすっかりなくなってしまった。けれど仲が悪くなったわけではなく、かくいう私も自分の家族に卒業旅行をすると言ったとき、そこで沙良の名前を出している。母親同士、意外と似ているものだ。

「荷物は? どうする?」

「着替え、いくつか借りられたりしない?」

「いいけど、無理でしょ」

 沙良はびっくりするほど身体が細い。たまにこうして煽ってくる。悔しいけれど、私には反撃する術がない。

「冗談冗談。旅館とかなら浴衣借りれるとこもあるでしょ」

「それでいいのかなぁ……」

 大雑把だけど変なところはきっちりしていて、普段はぼけっとしているくせに日によって突然ぴりっと思考が鋭くなる。保育園のころには既に手を繋いで帰る仲だったらしいけれど、今でもなかなか掴み切れないところがある。楽観しているのか、借りられるという確証があるのか、それとも借りられる宿見つけてね、ということなのか。今回は多分、私頼みな気がする。

「で、どこ行くの」

「わかんない。東京行く? もう部屋借りてるんでしょ?」

「私の部屋? なんもないよ。ほんとに何もない。何一つ送ってないし」

「宿代浮くし」

「入ったこともないから埃まみれかも。掃除手伝ってくれる?」

 せっかく学校の掃除から解放されたのに、卒業旅行で東京に行ってまで掃除をさせられるのは嫌だった。私は東京に行く案を取り下げた。途中まで反対気味だったはずの沙良は、少し残念そうだった。

 行き先についての議論が、早くも止まってしまった。沙良はどこに行くのでもいいと思っているんだろうし、私はなかなか行きたいところを思いつけない。

 沙良はそこまで大きくもないはずの私のキャリーバッグに腰掛けた。帽子の影を顔に落としながら足をぶらつかせる姿がやけに様になっていて、私はくいっとキャリーバッグを自分側に寄せた。沙良はねこみたいに慌てて飛び降りた。

「いっそ目的地決めないのは? 電車でてきとうにどっか行くみたいな」

「路線バスの旅みたいな?」

「そう」

 元よりどこかで観光したいだとか、ご当地グルメを食べに行きたいだとか、そういうことは考えていないのだ。目的地がなくても、最悪どうにかなるだろうと思って私は案を出した。

「私はいいけど、帰りの電車とか奈津に全部任せるよ?」

「大丈夫。なんとかする」

 行きで乗った電車を覚えておけば、途中で乗り換えたとしてもきっと帰りで迷うことはない。ないはずだ。

「んじゃ、それにしよ。西? 東?」

「うーん……東」

「その心は」

「迷っても最悪東京に辿り着ければどうにかなる」

「なるほどね。じゃそうしよう」

 私たちはようやく駅に入った。在来線の切符を買って、電光掲示板を見てため息をつく。ホームには誰もいなかった。私はホームのベンチに腰掛けて、沙良はそこが気に入ったのか、キャリーバッグの上に座った。

「卒業したらさ、けっこう話すことってなくなるもんだね」

 そう言われればそうだ。高校生だったころは、それこそ毎日のように顔を合わせていたけれど、話のタネが尽きることはなかった。お互いまだ話したことのない関係をたくさん持っているし、友達や先生や授業の話をするだけでどこまでも話が続いていた。それが今では、話題が途切れたタイミングで、たまーに変な間ができたりする。

「大学始まったらそんなこともなくなるんだろうけど」

「それはそう」

 もちろん、話していないことは山ほどある。沙良にだって山ほどあるだろう。あまり詮索していないだけだ。詮索されないから、話すタイミングがないだけだ。

 いっそこの機会にまとめて聞いてしまうのもアリかもしれない。この先も連絡が途絶えることはないと信じたいけれど、会う機会は間違いなく少なくなる。だらだらとした空気で喋れるのは、この旅行が最後かもしれない。

 部活の最後の大会の結果とか、借りた部屋の周辺のこととか、それなりに重要だけど私の生活にあまり関係のない情報はほとんど教えてもらっていない。パーソナルな空間に踏み込んでいるようで忍びない感じがする。聞いてもいいのかな、とは思っているけれどそこ止まりで、「まあいいか」が勝っている。

 好きな人とか、カレシとか、沙良にそういう人がいるのかどうかも、私は知らない。学校では誰々に彼氏ができたなんて知らせがすぐに回ってきたから、知らせがないってことはまだいないんだろうな、となんとなく思っている程度。直接訪ねる気にはなれなかった。

 ちらっと沙良を見やる。スマホを両手で抱えるようにして持ちながら文字を打っている。ラインかな、相手は誰なんだろう、なんて一瞬だけ思って、今日はやけに沙良の言動が気になっていることに気づいた。それがなんだか癪で、私もスマホを取り出した。

 旅館でもホテルでも、どこかに泊まることになれば自然と会話をする機会も増えるはず。そこでいっそいろんなことを尋ねてやろうかなと、この旅行では初めて、明確な目標ができた。

 卒業旅行と銘打っておきながら、やっていることはこれまでの下校時や休日と変わらない。私たちにはそれがお似合いかもしれないと思っていると、ホームのスピーカーが電車の到着を告げた。私はぐいっとキャリーバッグを寄せた。

「ざーんねん」

 逃げられた。そう何度もは上手くいかない。

「逃げ足の速いヤツめ」

「そっちが遅い」

「なんだとー」

 外から見ただけでもがらがらだとわかる電車に沙良が早歩きで乗り込んでいく。私もそれを追った。沙良は端の席に、ちょこんと小さくなって座っていた。

 この旅行が終わったら沙良としばしのお別れになるとは思えないほどいつも通りの空気感で、沙良はそんなこと気にしちゃいないんじゃないかとさえ思えた。それなら私が気にするのもおかしな話だ。せめて旅行が終わるまでは気にしないようにしようと、強く心に決めた。

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